S・バロン=コーエン「共感する女脳、システム化する男脳」 

  NHK出版 2005年4月25日初版
  
 こういう邦題であるが、原題は「The Essential Difference 」である。邦題どおりのことを主張した本ではあって、要するに男と女の脳は違うという話。
 著者自身、こういう本は1990年代には書けなかったといっている。女性差別であると頭から決めつけられて読んでもらえなかっただろうというのである。今では友人(女性)のフェミニストもこういう内容の本を書くことを鼓舞してくれたのだという。
 かつては、男性である著者がそういう本を書くのは、たとえ本人が意識していなくても男性に有利なように書くにきまっているから、その内容は信じるに足りないといわれて無視されてしまったのである。ここらへんは「サイエンス・ウォーズ」などともからんで現在でもまだアクチュアルである問題であると思うので、著者の見解はいささか楽観的すぎるのではないかとも思う。
 いっていることは単純で、男性はどちらかといえばシステム的発想(ああすれば、こうなる)にすぐれ、女性はどちらかといえば共感能力に優れるが、これは脳自体の性差に起因するということである。脳に性差が生じるのは胎児期にテストステロンにどの程度さらされるかによる。文化によって後天的にもたらされる性差があることはいうまでもないが、90年代にフェミニストたちの一部が主張したような、すべての男女差は文化によって規定されるというのは間違いである、という。
 著者は自閉症の専門家らしく、自閉症は男性的脳の究極状態であるとし、一方、女性脳の究極状態も存在しているに違いないが、それは自閉症とことなり病的とは社会からみなされていないため、特有の疾患とは認定されていないのだろうという。
 著者が1980年代の初めに自閉症の研究をはじめたときは、この疾患の頻度は一万人に四人程度の稀な疾患であるとされていた。しかし、知能が平均的あるいは平均以上の自閉症児がしだいに見つかるようになってきて、自閉症への見方がかわってきた。そして自閉症近縁の疾患としてアスペルガー症候群という疾患単位が認識されるようになってきた。この症候群では言語の発達遅延が見られない。今日では200人に一人の割合の子どもがアスペルガー症候群をふくむ自閉症スペクトラム障害にあてはまると考えられるようになってきている。疾患が10倍に増えたことになる。
 自閉症スペクトラム障害は遺伝に起因する要素が大きい(一卵性双生児で60〜90%他も発症する)。男性に多い(10:1)。
 自閉症スペクトラム障害は共感の障害である。他人の立場に身をおいて考えることができない。それを「マインド・ブラインドネス」と呼ぶ人もいる。自分の言葉で他人が傷ついても、なぜそうなったかが解らないのである。彼らがもっとも苦手とするものが文学である。仕事はうまくやれるが他人とうまく関係を保てないことが多い。かれらはどのような信念も主観の問題であり、一つの見方に過ぎないということが理解できない。自分の見方が正しいと思い込む。
 アスペルガー自閉症とは極端な男性型の脳であるという説を唱えたのは1944年のことである。ドイツ語で書いたため英語圏に紹介されたのは1991年であった。
 1998年のフィールズ賞(数学分野のノーベル賞に相当する賞)をとったボーチャーズを著者はアスペルガー症候群であると診断している。また31歳でノーベル物理学賞をとったディラック、あるいはニュートンアインシュタインアスペルガー症候群ではないかという。
 
 本書を読めば、男女の脳に生物学的な差があることは明らかである。まったく男女差なく生まれてきて、男らしく、あるいは女らしくと育てられるから後天的に差が生まれるわけではない。ある時期にラディカル・フェミニストが主張していたことが間違いであることは確実である。
 本書を読んでいろいろなことを考えた。養老孟司氏がさかんにいっている「都市化」とは「ああすればこうなる」ということであるという主張は、「都市化」とは男性脳化であるということになる。そもそも理科系とは「男性脳」的であることであり、文化系とは「女性脳」的であることではないだろうか?
 もっといえば野蛮から文明へというのは「男性脳」から「女性脳」へということではないだろうか?、あるいは西欧とは「男性脳」文化であるのに対して、東洋は「女性脳」文化であるとか。しかし、文明は都市化の中からしか生まれないわけで、都市化はまさにシステム化であり、ああすればこうなるの世界であるから、都市化をもたらすのは「男性脳」であるが、一方文明とは「共感」のことであるとすれば、それは「女性脳」化でもある。その相互の間の矛盾が現在のすべての問題の根底にあるのかもしれない。
 もう一つ考えたのは、看護という仕事が主として女性のものであるとされているのは、女性脳の問題と関係があるのであろうかということである。わたくしは母親が子どもを世話することが看護の原点であるので、そのため看護の仕事は主として女性のものであるとされてきたと理解してきたが、本書によれば女性脳的な性質が進化の過程で生き残ったのは、それが子育てに有利に働いたからであるという。そうであるならまたまた至近要因と究極要因の関係であるのかもしれない。
 看護にとって「共感」が基本的な重要性を持つのであるかということも多くの反論が予想される論点であるが、著者は「男性脳」と「女性脳」のバランスがとれた人は良き臨床医になるであろうという。数学の点数(システム化能力を反映)ばかりがいい人間ばかりが医者になるのでは困るということであろう。
 本書の巻末に共感指数とシステム化指数のテストがあるが、それによれば、わたくしは平均の女性以上の共感能力を持つが、平均の男性以下のシステム化能力しかないという採点結果になった。なみの女性以上に女性的であるらしい。バランスが極端に悪いわけである。著者によれば、そういうひとは生物学的システムを正しく理解できないから良き医者にはなれない。しかし、いまさらそれがわかっても手遅れというものである。
 わたくしのような人間にむいている仕事は、カウンセラー、小学校の先生、看護師、看護師、もめごとの仲裁役なのだそうである。そういわれてみれば、毎日の外来の仕事はほとんどカウンセラーという気もしないでもない。そして管理者としての仕事はほとんどもめごとの仲裁ばかりという気もする。まあ、自分にむいていることしかできていないのだろうと思うが・・・。
 昔、三島由紀夫がどこかでいっていた恋愛は女の仕事であって、男は愛されるだけというのも、脳の性差に関係があるのかもしれない。渡部淳一がいいたいのもそういうことかもしれない。
 歴史上、高名な女性数学者はゼロであり、作曲家もほぼゼロであることは、これらがシステム化とかかわるからなのであろう。わたくしは自分では音楽を好きなほうであると思っているのであるがシステム化力能力は低いという採点であるから、音楽の本当の要を理解できていないのかもしれない。音楽を聴くと結構構造が見えるほうであると自分では思っているのであるが(と一生懸命弁解する)。
 そのほか考えたのが、橋本治氏というのは「女性脳」の典型の人ではないかというようなことである。氏はどこかで、自分に備わった唯一の能力はさまざまな人間に憑依できることであるといっていた。憑依とは共感の極限である。もっとも氏は数学は得意だったみたいなことをどこかで書いていたような気もするが。
 などとムキになってこだわるのはおかしいので、著者もいっているように、男性脳と女性脳の差などというのは、マスでみたときの平均の差であるのだから、個々人についてどうこういう資料とはならないのである。
 いずれにしても男女の脳に差があることは事実としてあつかうしかないことは本書から明らかである。どこかでS・J・グールドが誰かのいった男性脳は女性脳より重いというデータを批判して、そこのデータのもとになっている脳は女性のほうが男性より高齢だから、高齢で脳の萎縮がくるのは当然だから、信用できないといったことをいっていた。男は平均して身長体重が女よりも大なのであるから、脳の重量が重いことも当然の予想であるはずであるが、そういうことまで目くじらをたてて否定しようとするのは変であるなあと思った記憶がある。
 しかし男の脳の特徴は権力を獲得する上では有利に働くかもしれないので(著者によれば非情に人を切れるような人のほうが、共感のためにドラスティックなことができない人よりも地位の獲得のためには有利なのであるという。これもまた多いに議論のあるところであろうし、これは西欧でしか通用しない理屈という気もするが)、そのために世の中が男性支配となっていることはあるのかもしれない。
 社会の仕組みが男性に有利なように作られていることはまぎれもない事実であり、女性が非常に不利な状況にあることも間違いないであろうと思われるので、著者の本書での指摘が、結果としては男性支配社会の固定を支えるものとなってしまうという批判はありそうな気がする。そうするとそういう研究は発表すべきではない、という議論を支持するひともまだ少なからずいそうな気もする。
 
 

共感する女脳、システム化する男脳

共感する女脳、システム化する男脳