楠木建「すべては「好き嫌い」から始まる」

 著者の楠木さんという方は、今までまったく存じ上げなかった方なのだが、つい最近、偶然、本屋で「戦略読書日記」(ちくま文庫)というのを見つけて面白かったことから、その名を知った。
 その「戦略読書日記」という本を本屋で立ち読みしていて、その第12章のタイトルである「俺の目を見ろ、何にも言うな」(これは「プロフェッショナルマネージャー」という本の書評なのだが・・楠木氏は競争戦略というおよそわたくしには縁のない学問の専門家)を見て買ってみようかという気になった。「俺の目を見ろ、何にも言うな」というのは、小室直樹氏が「痛快! 憲法学」で日本の後進性の象徴というような言い方で用いていたのが、わたくしの記憶に鮮明に残っている。要するに、会社の代表される日本の組織というのはヤクザの組織と変わらない後進性を残しているという話で(草鞋を脱ぐ、一宿一飯の恩義、・・)、それがアメリカの経営者の書いた本の書評のタイトルに出てくるところに興味を惹かれた。
 「戦略読書日記」も、まだ拾い読みをしているところなのだが、その楠木さんの「すべては「好き嫌い」から始まる」もまだ出たばかりである(前者の文庫化が本年4月10日、後者が3月30日)。この「すべては「好き嫌い」から始まる」の方が氏の思考法や感受性を直接語っているように思えるので、こちらを先に見てみることにした。
 本論の各章はすべて「あくまでも個人的な好き嫌いの話として聞いていただきたい。」という素敵な前口上から始まっているが、ここではまず、本章の前の「はじめに 「好き嫌い族」宣言」という前書きからみていく。
 「好き嫌い」とは「良し悪し」では割り切れないものの総称である、と宣言される。「民主主義」や「言論の自由」は普遍的な良し悪しであり「文明」である。しかし地域固有の境界の中でしか通用しない「文化」には文明ほどの普遍性はない。
 ここで著者が言わんとしていることは、最近「良し悪し族」が大きな顔をしすぎていないか、ということである。楠木さんに言わせると、良し悪し族の難点は教条主義に傾きやすい点にある。一方、好き嫌い族は教養に深くかかわる。教条対教養。日本語の教養の原語は「自由な技能」である(その対が「機械的な技能」)。「その人がその人であるための基盤」、それこそが教養である。好き嫌い族は総じて平和主義者である。歴史上、戦争を起こすのは決まって良し悪し族だった、と。
  
 《「民主主義」や「言論の自由」は普遍的な良し悪しであり「文明」である。》という一文からして論じだすときりがないと思う。「民主主義」や「言論の自由」というのはある時期の西欧が作り出したローカルな文化、ローカルな価値観であって決して普遍的に通用するものではないという見方は当然あるであろう。また科学(自然科学)は普遍的なものであって「好き嫌い」を超えるという見方もあるであろう。
 この前書きを読んでいて、すぐに頭に浮かんだのが、ドーキンス対グールドの宗教に対する見方の対立である。ドーキンスにいわせれば自然科学は事実に対する論であり、それは価値観を超越する。一方、グールドによれば自然科学は事実の問題にはかかわれるが価値の問題にはかかわれないのである。
 わたくしなどがドーキンスの宗教についての議論を読んで感じるのは、何かこの人は教養が足りないなあというか、底が浅いなあという感じである。一方、グールドの支離滅裂(としかわたくしには思えない)な宗教擁護(もっといえば広義のキリスト教擁護)の論を読んでいると、この人は倫理というものは自然科学からは絶対に導出されないと思っていて、断固たるダーウイン主義者であるにもかかわらず、「社会生物学」のようなあっけらかんとした進化論の人間への適応にはどうしても同意できないのだろうな、と感じる。
 「社会生物学論争」というのは欧米ではあれほどの大論争になったにもかかわらず日本の生物学自然科学分野でもほとんど何の波風も立てなかった。それは日本の生物学自然科学の分野の研究者が自分は事実の問題を研究しているのであって、価値の問題などはわがことではないと信じているからであろうと思う。(紅旗征戎非吾事)
 幸い、本書は人文学に属する分野をあつかっているので、自然科学の学問における立ち位置のような問題にはかかわっていない。
 本書は文明と教養の擁護を志向している。その反対は野蛮と独善ということになろう。東欧崩壊をきっかけに書かれた「歴史の終わり」などは、これからは西欧的価値観が世界を覆っていく、世界は平板になり、ニーチェがいった小賢しい「最後の人間」たちが跋扈する世界になっていくだろうという楽観的かつ悲観的な展望が描かれていたが、西欧的行き方へのアンチとしてイスラムがでてくると世界を西欧的価値観が覆っていくという見方はあっという間に崩れ、ロシアや中国に西欧からみれば何歩か後退としか思えない政体がでてきて、西欧的行き方への疑問が生じてきて戸惑っていたところに、トランプ大統領の誕生で、世界は野蛮と独善の方向にむかっているのではないかという戸惑いが、多くの教養人の間で生じてきている。
 本書が生まれる背景にはそういう最近の世の中の動きがあるのではないかと思うが、それと同時に、本書の「極私的「仕事の原則」」という章に書かれた氏の自己認識「僕が好きだったのは研究ではなくて、大学でポストを得て、自分の部屋をもらって、好きな本に囲まれながら、朝から晩まで好き勝手にああだこうだと考えていられる「様式」であり「状態」なのではないか」というのはわたしにも非常によくわかる。「人づき合いが苦手で、心を開いて仲良くなれる友達が少なく、集団行動とかチームワークがテンでダメだった」ので「一人でやる仕事、部下も上司もいない「ソロの仕事」」を目指した」というのも、わたくしもまたそうであるので非常に共感できる。医者という仕事もまさにこの条件にぴたりである。
 そういう書斎引き籠り型人間というのは本来は社会を動かす力などまったく持たないわけで、その願うところはどうか自分のことは抛っておいてくれ!、皆さんに害はあたえないから、という辺りにあるはずなのだが、どうもそうも言っていられない、お前はそんなことでいいのかと余計なお世話を焼きにくる困った正義の人、好戦的な教条の人が増えてきているという思いがあって、それでこのような本を書くことになったのではないかと思う。
 「自らの好き嫌いについての理解が深いほど、人間は快適かつ思い悩むことの少ない生活を送ることができる」と氏はいう。その路線がトランプ大統領批判にむすびつくような曲芸となれば芽出度し芽出度しなのであろうが、氏が批判するようなひとは氏の書くものを読んでも何も感じず、というかそもそも読む事もなく、読むのはわたくしのような書斎引き籠り型人間ばかりなのではないか、というのがこういう本の難しいところである。
 

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