熊木徹夫 「精神科医になる 患者をということ」

  [中公新書 2004年5月25日]


 若い(35歳くらい?)精神科のお医者さんの書いた本。計見氏と異なり全然偉そうでない。非常にナイーブな感じであり、それが弱点かもしれない。真面目過ぎる、あるいは真剣すぎる気がする。一番の問題点は、精神科医療をよくも悪くも特別視しているところが感じられる点であろう。
 最初の問題提起:薬物療法と精神療法というまったく位相の異なった二つの治療法が一人の患者さんに混合して施行されているのは何故か?
 これは問題のたてかたが少し違っているように思う。本当の問題は、薬物療法と精神療法というまったく位相の異なった二つの治療法が、それにもかかわらず同じ効果を発揮するとすればそれはなぜか?というものであろう。もしも精神療法と薬物療法がそれぞれ役割を分担して、別の効果を発揮して、相互に補いながら相乗効果を発揮しているのであれば、異なる作用機序の二剤併用となんら変わるところはないであろう。
 しかし、薬物療法と精神療法というまったく位相の異なった二つの治療法が、それにもかかわらず同じ効果を発揮するとするのならば、精神療法が、薬物を投与したのと同じ現象を脳内に作り出すとしなくてはならない。そして、そうであるなら薬物療法のほうが手っ取り早く簡便であり、精神療法など無駄不要ということにもなりかねない。事実、精神科でなければできない治療技術はあるのだろうか?という疑問がアメリカで出されているということが、計見氏の本で紹介されている。
 しかしと熊木氏はいう。薬物でもたらされる効果は非常に複雑でしばしば精神科医にとっても予測困難である、1対1対応のようなそんな簡単なものではない、と。では、精神療法の効果は、精神科医にとって予測可能で簡明なものなのだろうか? 非常に複雑でしばしば予測困難というようなことはないのだろうか? 薬物はあるフェーズでは有効であっても、別のフェーズでは有害無益である、と熊木氏はいう。では精神療法もあるフェーズでは有効であっても、別のフェーズでは有害無益であるということはないだろうか?
 ここで<薬は構造に効く>という話がでてくる。ある症状にではなく、もっと大きな何かに効くというのである。それでは精神療法は構造には効かないのだろうか?
 要するに言われていることは、精神疾患は身体疾患にくらべてずっと複雑であるということなのである。単純な肺炎−抗生物質系モデルでのようなピンポイント攻撃では対応できないということである。しかし、それはもっと有効な薬剤が開発されれば覆されることであるかもしれない。精神疾患の治療は、抗生物質が出る前の肺炎治療をしている段階なのかもしれないから。冷却と芥子シップの段階であるのかもしれない。脳の機能は心臓や肺の働き、腎臓の働きにくらべて何千倍も複雑であるというだけのことかもしれない。
 第二の問題提起は患者の身体像の問題である。患者の客観的身体像(これは患者にとっても精神科医にとっても同一とされる)と主観的身体像(これは患者がもつものと精神科医がもつものは別)の問題で、従来の身体医学ではほとんどが客観的身体像のみが問題とされ、患者がもつ主観的身体像はあまり顧慮されず、医療者がもつ主観的身体像はほとんど問題にもされてこなかったという。
 ここでいわれる客観的身体像とは血液検査でALTが高いから肝臓が悪いとか、胸部レントゲンで影があるから肺炎だろうとかそういうことであろう。患者の主観的身体像とは、患者が有する自己の身体イメージである。たとえば頭痛。これは本人にしかわからない。医療者のもつ主観的身体像とは、医療者が患者の身体について感じたことで、たとえば過去の自分の頭痛の経験からして、今患者さんが感じている頭痛とはこんな感じかなと想像するというようなことらしい。
 そして患者が自己の主観的身体像が医療者に通じたと感じることができるならば、それは大きな治療効果をもつという。また医療者からみると、客観的身体像と患者の感じる主観的身体像が一致してゆく方向にいくときに、その病気がわかったという腑に落ちる感じをえることができるという。臨床において<受容と共感>が大切といわれているにもかかわらず、そのために具体的にどのようにしたらいいのかという方法論は語られていない。患者の主観的身体像をつねに意識して診療していくことは、その具体的な実践として有効であろうという。
 患者が頭痛を訴える(主観的身体像)、CTをとったら脳腫瘍があった(客観的身体像)、というような話を著者はしたいのではない。CTをとっても何もなかった場合に、患者の訴える頭痛を医療者がどの程度リアルなものとして感じ取ることができるかが治療効果に大きく影響するということである。おそらく心気的な訴えであればあるほど、この治療効果は増すであろうから、当然このことは精神医療の場で重要であろうし、プライマリケアにおける患者さんの訴えの相当部分も(大部分?)心気的なものであるから、これは一般診療においても重要であろう。ここでいわれていることは、病気だけをみるな!、病人全体をみよ!というある意味では陳腐にさえなっている話にもう少し科学的な衣を着せたものという気がしないでもない。
 医療者の側が、患者さんの訴えがなぜおきているかをどうしてもうまく説明できないときがある。そのとき「異常ありません」、「神経(気)のせいでは」というのではなく、「私たちの検査では異常が見出せません」、「わかりません」と答えるほうが謙虚な態度であり、よりよい患者−医療者関係を結ぶ礎ともなるという。
 内科の臨床では、患者さんはある症状が重大な病気の表れではないかという不安をもって外来にくることが多い。頭痛はくも膜下出血であるし、胸痛は肺癌である。背中がいたければ膵臓癌、足がしびれれば循環障害で壊疽になるのではないか? そういう場合検査をしてそういう病気がないことを保障するだけで、症状は軽快することが多い。この場合重要なのは問診の過程で、この患者さんはこの症状でどどんな病気を心配しているのだろうかということを聞き出すことである。頭痛がする→血圧が高いのでは?、という心配はありふれているが、医療者の側では頭痛から血圧というのは鑑別診断での優先順位がひくい。しかし、血圧を心配している人に頭部CTをとっても意味がない。どんな病気を心配しているのだろうかを聞き出すのは医療者の大事な技術なのではないかと思うが、それがなりたつ前提として、患者−医療者間に信頼関係が成立していることが必要であるように思う。
 わたくしは、患者さんの訴えをうまく説明できないときには、「いままでやった範囲の検査ではどこにも悪いところはみつかりません。だから原因はわかりませんが、重大な病気、緊急的に手術を要する病気、早期に手をうたないと取り返しがつかないような病気はないと思っていただいて結構です。今の医学ではまだどうしてそうなるのかうまく説明できないのですが、検査では原因がわからないが症状があるという場合、その症状の原因がストレスであることもかなり多いようです。あなたの場合、何か重大な病気が体のどこかに潜んでいるのではないかという不安があり、それがストレスになっているのかもしれません。重大な病気がないことはほぼ間違いありませんから、すこし様子をみたらいかがでしょうか? 自分で大きな病気がないのだなと納得ができると症状が段々軽くなっていくかもしれません」 というような説明をする。こんな説明でみな納得してくれるわけではないが、それでも相当部分の患者さんは受け入れてくださるようである。
 第三の問題提起が「物語」。これは身体的・非言語的なものもふくめたトータルな何かを背景として治療者が患者−治療者関係についてつくりあげるある種の言語表現のことなのであるが(と、こう書いていても自分でもなんのことかよくわからないが、いわゆるムンテラ、病状の説明とはまったく異なる、両者の関係を説明する一種の作り話とでもいうようなものだろうか?)、これこそが治療が実現する根拠なのであり、精神科医の専門性のおおもとは、「物語」作成のすべにあるといってもよいのだそうである。そしてこの「物語」があるゆえに、患者と医療者の間の距離が精神科治療においては徹底的に重要な問題となるのだともいう。有名な「転移」「逆転移」である。
 ここで著者が言っていることが正しいとするならば、精神科医療には精神療法が不可欠であることは自明であり、薬物療法のみの精神科医療などというのはありえないことになる。この「物語」は生身の人間である患者と医療者の間に成立するものであるから、この患者が別の医療者にかかれば別の「物語」ができることになる。とすると、客観的な治療効果の判定というようなものはありえないことになってしまう。ある向精神薬を、患者A・B・Cに医者X・Y・Zが用いたとする。A−X、B−Y、C−Z間には個別の物語が形成され、それが治療効果に決定的な影響をおよぼすとしたら、その向精神薬の効果を客観的に判断することなどできなくなってしまう。それとも、母集団を大きくするならば、そういう物語の効果は相殺されて、薬の効果だけを評価できるようになるのだろうか? 
 問題は、この「物語」作成の能力が教育により誰でも習得できるものなのか、それともこの能力は相当に生得的であるかあるいは成長期に習得されるもので、医療を学びはじめる年齢からではなかなか学び取るのが難しいものなのかということである。もしもある年齢からでは学ぶことが困難であるとしたら、精神科医とは誰でもがなってはいいものではなく、ある種の能力を備えたひとだけがなるべき職ということになってしまう。実は、これはもっと大きな問題につながる。著者がここで述べていることは狭い精神科医療にのみ適応されるものではなく、ひろく臨床感覚としてあらゆる医療分野で必要とされる能力であると著者自身も考えているようだからである。要するに臨床家に向くひととそうでない人がいるという誰でも薄々感じていることを著者はここで述べているのかもしれない。
 しかし、そもそも、「物語」を作ることによってかえって病状が悪化するというようなことはないのだろうか?「物語」はまさに「物語」であり、事実や真実とは何も関係ないものであるのだから、下手な「物語」でかえって悪化することがあっても、それが自然の経過であるのか、治療者が害をなして、そのため悪化しているのか鑑別することはできない。そして「物語」によって一見よくなっているように見えるが、本当は少しもよくなっていない場合でも、「物語」は有効であるとされてしまう可能性もある。
 この部分、精神科の専門性は「物語」作成にありとしている部分は、この本で著者のガードがもっとも甘くなっているところであり、何か精神科医療というのはほかの医療よりも高級なのであるという主張が衣の下からのぞいているようにもみえなくもない。
 結局、「物語」とは患者−医療者関係に帰着する何かであり、それが現在の臨床の場において非常に軽視されているのも事実で、それにもっと意識的であらねばならぬということは確かであっても、逆にそれをあまりに意識しすぎることは、患者を支配したい、操りたいという医療者すべてに潜在している可能性がある欲求に火をつけてしまうおそれが、決して少なくないように思う。
 人生における最大の快楽というのは、自分の行為によって相手が変わっていくことを見ること、自分が誰かに影響をしていることを感じることなのかもしれない。医療の場において医者は絶対の権力者であり、病者はもともと依存的になりやすい。その関係において、医者が積極的にある「物語」を紡ぎだし、その「物語」によって患者が変わっていくのを見るとすると、悪くすれば、医療者が患者を自由に操作できることにもなりかねない。それは医者に全能感を与え、医者に最大の快感をもたらすものであるかもしれないが、医療は患者のためになされているのであって、医療者・医者のためになされているのではない。この本では患者より医者が前景にですぎているように思う。医者とはもっと黒子に徹するべきものではないかと思う。
 第四の問題提起が<パロール的分類>。ここらへんの議論はソシュール丸山圭三郎あたりを読んでいないと理解できないのだが(というか、丸山によるソシュール理解であろうか?)、精神科医療において治療者の判断から独立した疾患分類が可能であるのかという議論である。あるいは治療者が存在しないところで疾患分類が存在するかというような話である。なんだか、バークレーの誰もみていないところで倒れた巨木は音をたてたかみないな話で、議論して意味があるのかなという気もするが、要するに、身体疾患を分類するのと同じように客観的に精神科疾患を分類することはできないのだぞ、ということがいいたいらしい。DSM批判でもあるのだが、量子力学における観察者問題と似ているような気がしないでもない。ここの部分はポパーの「問題状況が要求する以上に正確を期そうなどとけっして試みるべきではない」(「果てしなき探求−知的自伝」)という言葉で尽きているように思う。疾病分類は治療に役に立つからこそ意味があるのであり、治療とは無縁に分類を論じることは単なる衒学趣味である。
 結核症は実に多彩な症状を呈するが、それにもかかわらず結核という診断名が意味をもつのは、結核症がその根底に単一の原因をもち、それゆえにそのよう診断がつけば、治療の方向がほぼ自動的に定まるからである。もしも、統合失調症うつ病がまったく異なる病気であり、しかもそれぞれに特異的にきく薬があるならば、両者を鑑別することは決定的に重要であり、場合によっては薬効によって治療的診断さえなされるであろう。
 しかし、統合失調症とはあらゆる人がなりうる疾患であり、事実短期間であれば、ほとんどすべてのひとが経験しているものであるが、たまたま特殊な環境によってはそれが遷延悪化し、しかも治療者の最初の関わりの成否によって、一時的なものにとどまったり、慢性化したりするものなのであるとしたら、統合失調症は、患者−家族−社会−治療者を含めた多数因子の関数であることになり、客観的な診断などありえないことになる。事実それが著者のいいたいことなのであると思うが、それはソシュールとか言語学とは関係のない話である。
 連続スペクトルである虹を七色であるとするか、四色であるとするかはまったく恣意的であるかもしれない。しかし、健常者と統合失調症患者は違っているというのが臨床の出発点であり、それらの区別が恣意的であるとしたら(それがレインらの反=精神医学の主張であったのかもしれないが)、臨床はスタートラインに立てない。著者がいっているのは、健常と疾患の区別ではなく、精神疾患相互の区別の問題であると思われるが、いずれにしてもソシュールとは関係ない話ではないだろうか?
 第五の問題提起は、精神科がカバーするのはどのような疾患か?という話である。現在のように臓器別疾患概念がパラダイムになっている時代において、なんら器質的異常が発見されない患者は、「だったらこころの問題ね!」ということにされてしまう。本当はこころの問題であると証明されたわけではないのだが、人間=精神+肉体。肉体には異常がないだから精神科ということにされてしまうのである。実は、今書いた等式はとんでもないものであって、脳も肉体の一部であり、精神あるいはこころというものの発生に脳が深くかかわっているとしたら、精神と肉体をわけるということはまったくの間違いである。現在脳外科という分野がすでにあり、神経内科という分野もすでにある。神経内科は脳や神経がもたらす肉体の変化をあつかう。それならば、脳や神経がもたらすこころの変化をあつかう医療部門が精神科なのだろうか?
 ものすごい腹痛を訴えるがどこも悪くないという患者は肉体に変化がおきているのであろうか? こころに変化がおきているのであろうか? 外から見る限り、こころには何の変化もなく肉体の訴えのみがあるのだが。
 強い痛みの訴えに抗うつ剤が効くことがある。痛みとはいったい何なのだろうか? それは末梢側にあるのだろうか?中枢側にあるのだろうか? 皮膚に火傷をする、痛い。原因は皮膚の側にある。皮膚には何も問題はないが、皮膚の痛みを訴えるひとがいたら、痛みは中枢にあるのだろうか? 麻酔をすれば痛みを感じない。そこには痛みはないのか? あっても感じないだけなのか?
 とにかく現在の精神科は他の科が困った患者のふきだまりになりかねない状況にある。そこで心気症が問題となる。それを治療するのは精神科医の気概であると書いてあるが、わたくしは心気症は誰にでも治せる可能性がある病気ではないかと思っている。というかヒポクラテス以来、あるいはオスラーの時代でも医者のできることといったら大部分は患者のベッドサイドにいて、手を握って慰めの言葉をかけるくらいのことであったので、これは心気症の治療そのものではないかと思うからである。
 それが第六の問題提起であるパターナリズムの問題につながっていく。現在では身体医学が大きく進歩した。できることが患者のベッドサイドにいて、手を握って慰めの言葉をかけるだけではなくなった。こういう変化を著者はマターナリズムからパターナリズムへの変化としてとらえている。患者のベッドサイドにいて、手を握って慰めの言葉をかけることがマターナリズムであるというのはよいとして、現在の多くの医療をそれと反対のパターナリズムとすることには問題があるように思う。ここでは、それは擱いておくとして、この変化の影響を一番うけているのが看護職であるという指摘は重要である。
 つまり看護の本質がマターナリズムである、だからこそこの職業は長い間、女性のものとされてきたというのが著者の議論の前提である。これは看護の問題を考える場合の最大の問題点であるにもかかわらず看護学会では見て見ぬふりをしているように思うが、もしも、看護の本質がマターナリズムであるとしたら、看護は科学たりうるか?看護の専門性とは何か?という問題がすぐに浮かび上がってくることになる。
 現在の看護教育がPOSシステム導入にやっきなのは、なんとか看護を科学にしようとしているのである。看護婦ではなく看護師であるのは、看護はなんらジェンダーに依存しない職業であるとしたいからである。看護という職業は女性だったら誰でもできる職業なのではないか?それならバーのホステスさんと変わらないではないか?というのが看護という職業に潜在するコンプレックスであって、看護教育は全力を傾けてそれを否定しようとしている。問題は患者さんはどう見ているかであり、医者の側がどう見ているかである。患者さんはもっと自分のそばにいて話をきいてもらいたいな、と思っている。医者もナースステーションで記載ばかりしてないで、もっと患者さんのところにいけよ、と思っている。
 仕事というのは、他人の必要に応えることであると思うが、現在の看護の問題点は、看護の仕事とはどのようなものであるかを自分で決めてしまっている点である。それが果たして他人から必要とされていることなのだろうかという視点がひょっとして欠落しているかもしれない。一生懸命につけている看護記録も、実は看護職の内部でのみ必要とされていて、外部にはそれほど必要はないかもしれないという可能性もないとはいえない。前衛芸術家が、自分の作品は芸術であると思っていても、誰もそれを芸術であるとは思っていない、そういう状況にどこか似ているだろうか?
 ところで、本書の最初のほうに、大部分のひとは精神科治療の中心はカウンセリングであると思っていると書いてある。これは患者さんの大部分がナースに少しでも傍にいてほしいと思うこととパラレルである。とりあえず話をきいてもらうこと、それだけでも相当な効果があるのに、看護師さんもお医者さんもあまり話をきていくれないのである。
 看護部門がかかえる問題はそのまま精神科医療の問題にもつながっていく。つまり昔、あまり効果的な向精神薬がなかった時代では、精神科医のできることはよく話をきいてあげることくらいしかなかったのかもしれないし、それがそれなりに効果をもったかもしれないのである。そして、なまじ有効な向精神薬がでてきたばかりに、かえって精神科医が患者さんの話を十分にはきかなくなってしまっているかもしれない。向精神薬の効果は科学の範囲である。しかし、患者さんの話をよくきくことがもたらす効果は科学の対象とはならない。看護部門と同じで、精神医学の分野はどうしても科学にならない部分をひきずっていかざるをえないのである。
 最後に「まず診断ありき」かという問題が提出されている。この問題がでてくること自体がよくわからない。臨床の場というのはとにかく何かをしなければいけない場なのであるから、診断がついていようといまいと、何かをしなくてはいけない。その場合<診断>はたんなる仮説に過ぎないという著者の主張はごく当たり前のことをいっているように思えるのだが、精神医学の場ではそうなっていないのだろうか?
 正しいかどうかわからないがとにかくある仮説のもとで何かをやってみる。そのやったことがうまくいったかいかないかで仮説を修正していく、というのは人間の行動そのもの、あるいはすべての生き物の行動そのものであって、ことあたらしくいうようなことでもないような気がするのだが。

 いろいろと考えさせられる面白い本であった。著者が現場にいるひと、臨床の場にいるひとであることがよくわかり、そこから抽出されてきた問題は、わたくしが日頃臨床をしていて感じているところと重なり、刺激的であった。
 ただ著者が精神疾患と身体疾患をことさらに区別して考えようとしているように見える点だけが違和感として残った。この点にかんしては、精神疾患もただの病気であるという計見氏の見解に賛成である。確かに精神というもの、こころというものは、現在の科学で理解するには複雑すぎるのかもしれないけれども、それでもそれを特別なもの、何か神聖なものとはあつかわないほうがいいのだと思う。



(2006年4月23日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

精神科医になる―患者を“わかる”ということ (中公新書)

精神科医になる―患者を“わかる”ということ (中公新書)