計見一雄 「統合失調症あるいは精神分裂病 精神医学の虚実」
[講談社・選書・メチエ 2004年12月10日初版]
なんとなく今一つ感じのよくない本である。著者は不機嫌であるし、偉そうである。それは例えばタイトルに現れている。いまどき精神分裂病なんて言葉をタイトルに入れるところが、すでに世の流れに反抗的である。どうもこの人若いときに「・・・粉砕!」と暴れていた人らしく、先祖がえりしてきているのかもしれない。前に読んだ「脳と人間」のほうがずっとバランスがとれた本であった。
ちょっと意外だったのが、この人がまずはじめに正統的な精神分析から入った人であるということであった。前著の印象ではもっと折衷的な人のように思えた。
この本の主張は「精神分裂病はただの病気だ!」ということにある。特別な病気ではない。肺炎や心筋梗塞となんら変わるところのない病気である、というものである。大賛成である。それを何か特別なものと見るのは、西欧固有の精神至上主義の反映であるという。もっと単なる病気として見ろ!と。
病気として見ると何が見えてくるか? 統合失調症患者は何かができなくなっているのである。それだから病気なのである、というのが第二の主張である。患者を外から見るのではなく、患者の中から外を見たら、どのように世界が見えるか、それを想像しろ! 患者が何に困ってるかを観察せよ! でも、これはすでに「看護覚え書」で、ナイチンゲールがいっていたことであるような気もする。
患者はしたいことが、なぜかできない。それは著者のいう「意図センター」の機能が低下しているからである。それならば意図センターの機能の回復を、治療は目指せ! 著者が意図センターの中心であるとする前頭前野46野で、統合失調症患者では細胞数は減っておらず配線がへっているだけだ、ということから、そこの機能訓練で配線をふやせばいいという。論理の筋道はきちっと通っている。しかし、なぜ46野の配線が減ったのか? それは本当に機能訓練で回復するのかという点がまったく言及されないため、著者の主張はたんなる個人的な仮説にとどまる。現在の脳研究の現状からいえば、この問いには誰も答えられないのかもしれないから、それは仕方がないことではあるが。
だから、本書で述べられていることも、統合失調症の本態はこのようなものだ!ではなくて、わたくしは統合失調症をこのように見る!ということであるはずなのだが、統合失調症とはこのようなものなのにそれを理解できない人間はみんな愚かだ!と言っているようにもとられかねない書き方をしているために、なんとなく変な印象を与える本になってしまっている。
この本の最初のほうに、統合失調症患者が目をみないというのは嘘だと書いてある。そのことに40年精神科の医者をやっていて30年目に気がついたとも書いてある。著者のように例外的に多数の精神科患者を診る立場にいて、それで30年目に気がつくのであれば、それに気がつかない精神科医がたくさんいてもちっとも不思議ではないと思うが、そういう事実でない主張をするやつは許せないと怒っている。だから偉ぶってみえる。
さて、統合失調症は可塑的な病気であり治る病気であるというのが本書の眼目である。それならば、治らない病気については精神科医はどういうスタンスで臨むのだろうか? 痴呆症は現在では治らないと考えられている。そして痴呆症にも統合失調症と区別できない症状が出現することがある。
以下は個人的なことになるが、今年の9月父が死んだ。晩年の2年くらい痴呆症状があった。多くの時間は内にこもった不活発な状態であったが時に活発になり、その時には様々な了解不能な言動があった。その時の父の気持ちは不安焦燥状態とでもいうべきものなのであろうことはみてとれたが、誰々が誘拐されたから助けて来いとか、これから兵隊がくるから逃げろとか、自分はどこかに閉じ込められていた、そこを捜索してこいとか、なんとも対応しかねる言動が多かった。
そういうことにうまく対応することが、回復につながる可能性があるのであれば、最良の対応とは何かを模索することにも意味がでてくると思われるが、回復不能であるなるとするならば、どうしても対応していていやになってくる。
父は自分のことを語らない人間であったので、そういう言動から父の過去を知ることができたということはある。軍隊がでてきたのは、もちろん従軍体験であろう。貧困妄想様の言動がしばしばでたのは、若いときに戦争直後の日本で苦労したためかもしれない。わたしが医学部の学生時代にあった紛争?闘争?を非常に気にしていたらしいことを何となく推測できる言動もあった。ユネスコがしばしばでてきたのはイギリス留学にユネスコの世話になったためらしい。居間で通販のカタログを見ていて、いきなりあるページを指差して、ここにユネスコからの秘密指令がある。直ちに連絡をとらねばなどといいだすのには本当に困った。どうもベトナム戦争後、ベトナムの子供の健康状態の視察にいかないかという話があり(父は小児科医)、断ったのではないか?それを今でも罪の意識的に感じているのではないかと思われる言動もあった(断片的な言動からの推測なので違っているかもしれないが)。とにかく、そういうことに非常な不安焦燥を感じていることはわかっても、何かまじめに対応するのがばかばかしい感じを払拭できずに、どうしても対応がぞんざいになりがちだった。
こういう痴呆も確かに精神の症状ではある。では、精神科の対象なのであろうか? このような妄想?状態は、あるいは精神安定剤の注射をすればとりあえず消失するかもしれない。本人の焦燥もとれるのかもしれない。しかし、それが治療なのであるか? 本来消失させなければいけないものなのかどうか? そういうことを詰めることがないまま父は最期を迎えてしまった。
精神科というのは唯一本人の意思に反した治療をおこなうことができる診療科である。あるいは、ある状況においては患者本人には意思がないと判定する権利を付与されている科である。現在のようなインフォームド・コンセントの時代において、パターナリズム的な介入が正当化される科である。
カタログを指差して、ここに指令が書いてあると主張していたときの父には自分の意思があったのだろうか? それは傍からみても、不安興奮の状態であった。それを強制的に沈静させることが、本人が本当は求めていたことであったのだろうか? 癌の末期の患者の疼痛をとるために鎮痛剤を増やしていくと意識レベルがさがってくる。通常それは本人の了解のもとでなされる。痴呆の人間の本人の了解とは・・・?
それは究極のところ、理性的な判断能力を失った人間を人間とはみなしたくないという西欧の理性信仰につながっていく問いなのであろう。われわれはそういう信仰から自由になることができるだろうか? 本書も統合失調症が回復可能な病気であるとすることで、その問いにたいする本当の答えはなされないままで終わってしまっているように思う。
ところで、最近に新聞に痴呆症という言葉は差別用語であるから認知症と言い換えましょう、という動きがあるとでていた。また言葉狩りである。やれやれ。
(2006年4月23日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)
統合失調症あるいは精神分裂病 精神病学の虚実 (講談社選書メチエ)
- 作者: 計見一雄
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2004/12/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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