M・リドレー「やわらかな遺伝子」(4)第4章「狂気と原因」

  紀伊國屋書店 2004年5月
 
 ナチスの蛮行が明らかになった1950年代以降、遺伝決定論の評判は地に落ちた。しかし精神医学の分野では、1900年ごろからすでにそうであった。クレペリンはその当時、脳の病理学的変化に精神疾患の原因をもとめるやりかたを批判し、個人史にもとづく精神疾患の分類を提示した。病気の経過をみることによって早発性痴呆(のちにブロイラーによって精神分裂病、最近では統合失調症)と躁鬱病双極性障害)を区別できるとした。
 精神疾患の原因については諸説ある。
 1)母親
 精神分析派の主張である。この説が双生児研究の結果が明らかになったあとでも支持され続けたのは不思議である。
 2)遺伝子
 双生児研究から遺伝がかかわっていることは明らかであるにもかかわらず、特定の遺伝子にその原因を求めようという試みは現在のところは成功していない。
 3)シナプス
 1955年にクロルプロマジン統合失調症に有効であることが明らかにされて以来、ドーパミン受容体が注目されるようになった。統合失調症シナプスの病気であることは間違いないようである。
 4)ウイルス
 統合失調症は冬に生まれたひとに多い。第2トリメスターに母がインフルエンザにかかっていた子からは発症率が高い。妊娠6ヶ月特に23週が一番危険である。また子癇前症で子宮内で低酸素におちいった子は統合失調症になる危険性が9倍高くなる。
 5)発達
 胎児の脳の組織化に不可欠であるリーリン・タンパク質が、統合失調症の患者の脳では健常者の半分しかないことが明らかになった。胎児期のマウスがヒトインフルエンザに感染すると、脳内のリーリン遺伝子の発現が半減する。しかし、ヒトでリーリン・タンパク質が欠陥することに由来する「小脳形成不全をともなう滑沢脳症」では統合失調症はみられない。思春期の終わりから成人期のはじめにかけて、脳には大きな変化がおきる。多くの配線が遮断される「刈り込み」がおこなわれる。強力なシナプスのみが残る。統合失調症の患者の場合、十分に配線されていなかったシナプスが刈り込みされてしまうことにより、成人期のはじめにこの病気が発症することが多いのかもしれない。
 6)食事
 必須脂肪酸の欠乏によるという説である。事実、統合失調症の患者に必須脂肪酸をあたえるとある程度の効果があるといわれている。脂肪酸は思春期のニューロンの刈り込みを調整する。
 統合失調症の患者は世界中どこにおいても100人にひとりくらいみつかる。とすれば、これはアフリカにいた祖先に由来するとても起源の古いものなのかもしれない。しかし、それならば、なぜこの遺伝子は保存されてきたのだろうか? 統合失調症の患者の周囲にきわめて優秀な人間や天才が多く見られることはよく知られている。ある調査によれば、著名な科学者の28%、作曲家の60%、画家の73%、小説家の77%、詩人の87%にある程度の精神障害がみられるのだそうである。
 著者によれば、統合失調症について今言えることは、冷淡な母親によるとする説はまったくの誤りであること、相当部分は遺伝に由来するということであり、そのような素因を持つものが、胎児期に障害をうけたり、栄養環境が悪かったりするすると発症するのかもしれないということである。ということは生まれ(遺伝)と育ち(環境)の双方が重要であるという良い例になるという。
 
 このような説明を読んですぐに想起されるのが、たとえば結核という病気である。結核結核菌がないところではおきない。しかし一方では、結核は貧困のもたらす病気でもある。抗結核剤が使用されるようになる以前から日本ではすでに結核が減り始めていたことはよく知られている。あるいはコッホとペッテンコーフェルのコレラ論争のようなものである。ミアズマ(瘴気)説とコンタギオン(病原体)説の対立でもあるかもしれない。
 統合失調症は遺伝の背景がないものには絶対におきないであろうか? というようなことをいいいだすと統合失調症の診断基準が問題となってくる。結核という病気は菌の存在証明が原理的に可能である。それと同じようにある遺伝的な変化が統合失調症診断の必要条件になるような日がいつかくるのだろうか? 従来の診断基準においては統合失調症と診断せざるをえないようなケースで、しかし遺伝子分析においては変化がみられなかった場合、診断はどうなるのだろうか?
 ここでの説明のうち、1)から3)までは知っていたが、4)から6)までは初耳だった。日々の臨床で痛感するのは、患者さんの側にある精神科治療のイメージは精神分析あるいはカウンセリング(心理療法)であるということである。精神科に紹介すると碌に話もきいてくれず、いきなり薬をだされたといって怒る患者さんは少なくない。精神疾患は何らかの悩みあるいは葛藤の結果として生じるのであり、それを明らかにすることが治療に結びつくという理解はひろく浸透している。したがって統合失調症双極性障害が遺伝的な背景をもつ脳の病気であるという説明は、医療の外にいるひとびとには、いまだに意外なものと映るのではないかと思う。薬が投与され、それが脳を変え自分を変えるということにも抵抗を感じるひとは多いようである。血圧を下げる薬は自分を変えるとは感じないが、脳に影響する薬は自分を変えてしまうと感じる。なぜなら、脳=自分であるからである。
 医療の世界以外では精神分析心理療法の認知度が高いことを反映して、文学の世界でもいまだに精神分析である。小説家の77%、詩人の87%にある程度の精神障害がみられるとすれば、彼らにとって、そういう世界に親和性を感じるのは当然であるのかしれないのだが。「海辺のカフカ」などはオイディプス神話そのものであった。「村上春樹河合隼雄に会いにいく」は心理療法である。そこには遺伝による脳の変化といった説明はでてこない。それでは、物語は作れないのである。
 冷淡な母親説はフロイト自身によるものではないが(フロイト神経症を対象とし、重い精神疾患はあつかわないようにした)、フロイトが提出した仮説のほとんどが否定されている現在、精神分析とか心理療法といったものはもはや無意味なのだろうか? 「受容・支持・保証」といったことも無意味なのだろうか? 
 内科の日々の臨床などはそのほとんどが「受容・支持・保証」に尽きているような気がする。要するに心理療法である。医者−患者関係が治療効果に影響するとしか思えないからであり、日常臨床の最大の武器であるプラセボ効果と自然治癒を期待するためには、それが必須なのである。もちろん医療には機械修理の側面が厳然としてあるから、手術などは腕が悪くてはどうにもならないが。
 それで考えるのが、人間以外の動物にプラセボ効果などといったものがあるだろうかということである。人間は薬をのむ動物でもあるわけで、人間以外の動物が薬をのむとしたら人間が与える場合だけであろう。しかし、それなら野生の過酷な環境にいるものとヒトに飼われて保護されている動物のあいだで、疾患にたいする抵抗や治癒に差があるだろうか? 保護されているあるいは安全であるという感覚があるかどうかで治癒に差がでるだろうか? 「受容・支持・保証」というのは保護の感覚、安全感覚と通じるところがあるのではないかと思う。
 精神分析という治療法は人間以外には行えないことは明らかである。寝椅子に横たわって人生を語る猫などはいないから。マウスの遺伝子の分析の結果を人間に応用することはあるいは可能かもしれないが、マウスの精神などは想像もできないから精神分析のモデルをマウスで構築することはできそうもない。
 統合失調症が冷淡な母親によっておこされるという説は、著者もいうように患者の母親にとってはいい迷惑、泣きっ面に蜂であったとしても、患者をいくらかは慰めるものとはなったかもしれない。自分の過去をしらべて母親が第2トリメスターにインフルエンザに罹っていたことがわかったとしてもそれが慰めになるかどうかは疑問である。インフルエンザ説は即物的であり、なんらロマンティックなところがなく、文学にも詩にもなりそうもない。
 分裂症がなぜ生き残ったかについて中井久夫氏は「分裂症と人類」(東京大学出版会 1982年)で、分裂症親和的な気質は狩猟採集生活に適合的であり、うつ病親和的な気質は農耕生活に適合的であるという説を述べている。分裂症親和的な気質のものは外界の微妙な差異に敏感であるので、それは狩猟採集の生活形態には適合的であったという。一方、うつ親和的な性格(執着気質)は農耕生活に適応する。つまり狩猟採集生活の時代においては統合失調症は病気としてあつかわれなったかもしれないということである。ある状態が病気とあつかわれるかどうかは、時代による。平均寿命が40歳の時代においては、高血圧や高脂血症は病気とはあつかわれないはずである。
 本書は統合失調症を脳の病気、生物学的な病気としてみている。それはニューロンシナプスの病気である。しかしシナプスの病気は脳をもつ動物であればどんな種にもおきうるものである。ヒト以外の動物では、それならそれはどんな形態で発症するのだろうか? こういうことを考え出すと、精神をもつものは人間だけであるとするデカルトの神話がどこからか忍び込んできそうな気がする。
 

やわらかな遺伝子

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