中井久夫「臨床瑣談」

  みすず書房 2008年8月
  
 中井久夫氏が「みすず」に不定期に連載している「臨床瑣談」の第1回から第6回までを収載したものである。その第5回の丸山ワクチンについての話が「毎日新聞」にとりあげられ話題になり、そのため、それについての問い合わせが殺到して、出版社では対応できなくなり、急遽、出版にいたったということのようである。したがって150ページほどの薄い本であるが、中身は濃い。
 
 1.虹の色と精神疾患分類のこと
 氏は、ある時期から、診断は「治療のために立てる仮説」と考えるようになったという。
 「基礎色名」という本を紹介している。可視光線のスペクトル(つまりは虹)を示したもので、これをさまざまな言語で何色と呼ぶかを研究したものらしい。赤橙黄緑青藍紫の七色と固定したものではなく、何色にわけるか、何色と呼ぶかはさまざまであって、一定していない。要するに連続スペクトルをどのようにわけるかは人間の勝手なのである。
 つまり、診断も連続して本来区分することのできない現象を人為的にある目的(治療)のために区分しているにすぎないということである。
 わたくしが虹は七色ではないということをはじめて知ったのは、丸山圭三郎氏のソシュール論の中でであったように思うのだが、あるいは文化人類学か動物行動学の本ででだったかもしれない。いずれにしてもここで中井氏が述べていることは、ソシュール(少なくとも丸山氏のフィルターを通したソシュール)的であることは確かである。丸山氏の用語を借りれば「言分ける」である。
 従来、臨床医学においては、診断の最終根拠は病理診断であった。肺炎とは病理学的に「肺に炎症像」をみとめるものである。もちろん、ほとんどの臨床例では、肺の病理学的変化を確認することはできないわけであるが、病理学的に確認することのできる例でのレントゲン所見や検査データの変化を蓄積していけば、逆に、あるレントゲン像と検査所見からは、肺炎という病理学的変化が推測できるようになる。
 精神医学の最大の問題点は、長いこと、疾患に対する病理学的な裏付けがえられなかったことで、統合失調症うつ病も脳を顕微鏡的にみても何も変化がみとめられなかった。そのため、診断の根拠が今ひとつはっきりしなかった。
 また、いわゆる心身症が臨床の場で胡散臭い目で見られるのは、それには病理学的な変化が一切みられないためである。医者は病理学的変化もみとめないものは“病気ではない”とする傾向がある。病気でないものをなんで医者である自分が診なくてはいけないのだというのが、多くの医者が心身症患者をみるときの本音なのではないかと思う。
 しかし、統合失調症うつ病において、ある種の薬物の投与が有効であるということが明らかになってきたことから、病理解剖学的には変化がなくても、病態生理学的には病気しかも別々の病因をもつ病気と認められるようになってきた。
 薬は診断があるから投与される。診断はなんだかわからないが、薬を投与してみて効けば、この診断だろうなどというのは邪道である(しかし、治療的診断といってしばしば臨床の現場ではおこなわれている。結核という確実な証拠はないが、可能性が高い→結核の薬の投与→効いている→やはり結核だったのか、という回路である。最終的に結核症という診断の裏づけは結核菌という病原菌である)。
 統合失調症うつ病結核菌にあたるものが存在していない。だから診断が仮説的になるのは当然である。それならば、問題はひろく臨床一般において、診断は仮説なのであるかということである。
 外来診療において、初診患者について医者が考えていることは、急変して死にいたるような病気が潜んでいないだろうか、ということだけであると思う。多くの病気は診断がつかずとも“自然治癒力”で治る。だから多くの場合、診断はどうでもいいのであって、薬の投与も時間かせぎである。ある薬を投与した→よくなった→薬が効いた、とは言えないので、自然によくなった→だから薬が効いたようにみえる、ということのほうが圧倒的に多いはずである。診断が間違っていたにもかかわらず、治ったということはしばしば起きているはずである。もしも自然治癒力が、患者さんの安心ということによって大きく左右されるとすれば、薬をもらった→安心、という回路が効いていることも多いであろう。医者は患者さんに安心をあたえるということの役割が一番大きいかもしれない。日本のフリーアクセス、いつでもどこでも医者にかかれるということの利点は、安心感を得られやすいということにあるのかもしれない。日本では患者さんの医療機関受診回数が諸外国にくらべて圧倒的に多くて、医療費の無駄であるとされているようであるが、無駄が無駄でないということもあるかもしれない。
 しかし、患者さんに39度40度の熱が続いているのに診断がつかないというのは困る。そういう場合には仮説としての病名が必要になる。炎症かもしれないし癌かもしれない、よくわからないが、仮説として癌を考えますなどといわれたら、患者さんも家族も納得しないであろう。治療の方向が全然ちがってきてしまうから。
 肺癌と肺炎は違う病気である。両者はしばしば合併するとしても。やはり、内科においては精神科よりも、診断は、仮説ではなく、もう少し実体のあるものであるとしてとらえれているのではないかと思う。
 
 2.「院内感染に対する患者自衛試案」
 入院した場合、院内感染の犠牲にならないために患者の側でできることはないだろうかという話である。基本は免疫力、体力、抵抗力の増加策。
 a)睡眠の確保
 b)健康食品:プロポリス
 c)漢方薬補中益気湯十全大補湯
 d)乳酸菌製剤:
 中井氏によれば、プロポリスは蜜蜂の巣から採った植物の「抵抗物質」である。わたくしが信用できるひとであると思っている坪野吉孝氏の「検証!がんと健康食品」では、プロポリスががんに有効であるとするデータはないとあった。坪野氏はがんについて述べているのであるし、中井氏は一般的な抵抗力増加について述べているのであるから、両者の視点はまったくことなる。
 わたくしは健康食品といったものをあまり信用していない。仮にこういうものを服用して効果があった場合、自分が前向きに病気に対応していると思う効果のほうが効いているのではないかとする疑念が払拭できない。もちろん、患者さんのプラスになればいいわけである。プラスになるためには効くと思うことが大事である。なんだか議論が堂々めぐりになる。
 漢方薬もわたしは苦手である。漢方薬が日本で保険認可されたときの過程が不透明であるという認識があって、偏見をもっているのだと思う。患者さんから要求があれば出しているが、自分から処方することはあまりない。丸山ワクチンのところで、中井氏は、漢方薬は効果があると思っている医師が処方するのでないと効果がないといっている。わたくしが出している漢方薬は効いていないであろうと思う。
 乳酸菌はほかの細菌真菌を排除する力があるのだという。したがって、菌交代現象をふせぐ上で有効であるという。わたくしは、それを院内感染予防という視点で考えたことはなかった。こういうことを、内科の医者でなく精神科の医師が指摘するというのが不思議である。
 
 3.「昏睡からのサルヴェージ作業の試み」
 身内が昏睡になったときに、どんなことを試みたかの報告である。
 仮説1)意識はまず視覚に支えられている。それならば、まず視覚の刺激を強すぎない程度でする。具体的には一時間に5分ほど瞳孔に光を入れる。
 仮説2)次に聴覚。意識障害において最後まで聴覚は残っているという報告から、本人に希望をもたせるような言葉をささやくようにする。
 仮説3)意識障害のひとが言葉を発するというのは多大のエネルギーを要することで、現実には難しいだろう。しかし、まぶたを動かすのに要するエネルギーは微々たるものである。とすれば、患者にわかったらまぶたを動かしてというのは理にかなっている。
 仮説4)足底は、二足歩行を可能にするだけのセンサーが集中している場所である。そこに軽い刺激をあたえることは意味があるであろう。具体的にはくすぐること。
 中井氏はいう。これは楽である。何かをしていることは、何もしないでただ見守っているだけよりも、時間の重みを軽くしてくれる。「甲斐なき努力の美しさ」というのはまずい。くすぐっても麻痺側は反応しないが、健康側は脚を縮める。そういう反応があることが介護者にとっては大事で、介護の時間を受け入れやすいものとする、と。
 そして、本当にこの症例では、まばたきの反応が帰ってきたのだそうである。
 
 4.の「ガンを持つ友人知人への私的助言」も2.とほぼ同根の話である。それが、
 
 5.の「SSM、通称丸山ワクチンについての私見」につながる。
 この部分が評判になって、連載途中で本書が出版になったわけだが、その最大の理由は、丸山ワクチンの入手法がきわめて具体的に書いてある点にあるのだと思う。著者も書いているように、丸山ワクチンをもらうのは大変なことで、いわゆるコネとか大金が必要だと思っているひとは少なくないのだろうと思う。入手したいと思っているが、具体的にどうしたらいいかわからないひとに、本書は光明となったのであろう。
 わたくしの印象では、以前にくらべ丸山ワクチンを使ってほしいと希望されるかたは少なくなっているように思う。今まで使った症例は10例前後ではないかと思うが、印象は「水みたいなもの」であろうか。効果もなく副作用もない。ほとんどがもう治療のすべがありませんといわれたような症例であったから、本書にも書かれているように、もともと効果が期待できる状態ではなかったのであろう。したがってその有効性についてはわたくしは判断できる立場ではない。わたくしの場合、かなり以前の症例がほとんどで、本人に病名あるいは病状が告知されていない場合が多く、丸山ワクチンを使用していることを本人に知らせていないことが多かったから、プラセボ効果も期待できなかったであろう。家族の希望で使用した場合がほとんどであったが、希望があった場合にはすべて応じていた。わたくしとしては家族に「希望」を処方しているつもりであった。現在1例だけ使用している方があるが、ほかの病院で癌の手術をして抗がん剤治療をしているかたで、本人ができることはなんでもしたいということで使用している。わたくしの経験では本人の希望によって使用したのははじめてのケースである。
 この章で面白いのは、プラセボ効果についての中井氏の考え方である。氏はそれは暗示によるのではなく、薬の服用にまつわる不安の除去によるものであろうとする。つまり薬の効果を薬の服用についての不安が相殺してしまう、それを取りのぞくことがプラセボ効果なのだという。「不安をつのらせておいて抗不安薬を出すなどしゃれにもならない」と氏はいう。本当にそうである。
 わたくしは、薬に服用についての不安だけでなく、一般的に不安を取りのぞくことがプラセボ効果につながるのではないかと思っている。つまり、薬の効果の主たる側面は薬自体の効果ではなく、薬の服用があたえる安心感ではないかと思っているのだが(これはプラセボ効果についての正統的な見解?)、その根拠はN・ハンフリーが「獲得と喪失」の「希望−信仰療法とプラシーボ効果進化心理学」でいっている《安心のある状態では自己の免疫力・自己治癒力が最大限に利用される》である。中井氏はわたくしよりもずっと薬自体の効果を信頼しているように思う。わたくしは薬理的な作用機序がはっきりしていない薬、たとえば漢方薬はあまり信用していない。だから中井氏がいうように「漢方薬は、漢方を信用していない医者が出しても効かない」のだとすると、わたくしが処方している漢方薬はあまり効いていないだろうと思う。
 
 6.「軽症ウイルス性脳炎について」
 われわれが臨床的に認知していない軽症のウイルス性脳炎が少なからず存在しているのではないかという話である。そこでの議論自体は十分納得できるものなのだが、わたくしが今一つ納得できないのだが、それを診断することの臨床的な意義である。ウイルスについて有効な薬物はインフルエンザに対するものとかヘルペスに対するもの、あるいはエイズ・ウイルスや肝炎ウイルスに対するものに限られていると思っていて、脳炎をおこすウイルスに対してはヘルペスに対するもの以外は有効な薬物はないと思っている。診断して早期に脳循環改善剤を処方することがどのくらい予後を左右するのかが、それがわからない。どうも中井氏にくらべて薬物の効果についての信用がわたくしは低いらしい。治療的ニヒリズムの伝統の中にいるのかもしれない。自分の健康管理にいたって関心が低いのもそのためかもしれない。
 
 中井氏の本を読んでいつも感じるのは、議論がきわめて具体的であることである。以前、何かの本で、患者さんの舌の変化を詳細に論じていた。これは東洋医学では当たり前のことなのかもしれないが、西洋医学では、肺炎は肺の病気であって、肺炎における舌の変化などということは一切議論されない。肺炎→全身的な変化→舌の変化、ということがおきているのであろうが、肺炎ならば肺を治せばいいでしょうということで、肺が治れば舌もよくなるさ、として胸部レントゲンと血液検査の変化にだけ目がむいてしまう。
 
 精神科の医師のほうが内科の医者よりも身体をよくみている、というのが中井氏の本を読んでいつも感じることである。中井氏の本は、精神科以外の医師、あるいは看護師が読んで得るところが大きいのではないだろうか。

臨床瑣談

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