J・マーチャント「「病は気から」を科学する」(5)第4章「疲労との闘い ー 脳の「調教」」

 
 エヴェレストなどの高地への登山を例に疲労についての考察から本章ははじまる。あるいは長距離ランナーの疲労
 水分補給が大切であるとされていた長距離走で、水の摂取は往々にして水中毒をおこすという、従来からの見解とはことなる説も紹介されている。
 ある実験からアスリートは酸素を使い果たすという状況はおきないとされる。つまり、そうなる前に脳は身体の疲労感をアスリートに伝えることで運動をセーブさせてしまう。
 さまざまな実験から、疲労は筋肉から生じるのではなく、脳から中枢性に強いられているのだという見解がでてきた。脳が疲労を感じて運動を抑制させるという考えである。この考えは今も論争中である。仮に脳が疲労を感じる(セントラル・ガバナー説)という考えが正しいのなら、ひとは自分でそれを制御できるだろうか?
 運動選手に運動能力改善の薬といってプラセボをのませると、2〜2%の運動能力の改善がみられる。
 もしも、生死がかかっているような場合などセントラル・ガバナーは制御をゆるめる可能性がある(火事場の馬鹿力)。
 自転車選手に運動能力改善剤であるといって薬やドリンクを飲ませると2〜3%能力が向上する。
 次が慢性疲労症候群。この存在も病因も議論のまとである病気は精神的なものとされることが多い。そして認知行動療法などがある程度の効果をもつことが示された。
 
 わたくしなども筋肉の疲労というのは乳酸の蓄積によるというようなことを習った記憶がある。ここでいわれていることは乳酸の蓄積といったことで筋肉が限界に達する前に、脳が疲労感という信号を送ることで極限まで頑張るというリスクを回避しているという話である。この過程はわれわれの意識には上っていない。問題は筋肉などからの信号を脳が受け取ることによって、受動的に脳が疲労という感覚を身体に送るのか、脳が積極的に筋肉の活動を監視していて、ある限界点を感知することで能動的にある情報を発信するのかということである。われわれが抱いているイメージは前者であると思われる。ここでいわれていることは、そうではなく後者であるということである。
 われわれが持つ脳のイメージは‟意識”ということと深くかかわっている。だからこそ睡眠中の自分というようなことが問題になるし、自己意識をもっていない動物は単なる機械であるというような見方も出てくる。フロイトの‟無意識”説があれほどの衝撃を人にあたえたのもそれによるのであろうし、かなりのひとがフロイト説に抱く‟偏見”もそれによるのであろう。フロイトが説いた説自体は現在ではほとんど否定されているといっていいであろうが、フロイトの方法が少なくとも一部の症例においては有効であるという事実が厳然としてある。そして臨床においては有効であれば、かなりのことが許容されてしまう。プラセボの効果というのもその有効性という厳然たる事実によって臨床で無視できないものとなってきた。そしてプラセボ効果が胡散臭いものと思われてきたのは、それが科学と到底なじまないように思われるからである。本書のタイトルは「「病が気から」を科学する」であるが、これは訳者がつけたもので、原題は「CURE A journey into the Science of Mind ando Body 」で、直訳すれば「治るということ こころと身体の科学を求めて」というようなことになるのだろうか? 《こころと身体》なのである。そして《こころ》のありかはどうやら脳であるらしいが、脳をいくら切り刻んでみても《こころ》などは一向に見えてこないのである。だから神経内科があり、脳外科があり、また一方で精神科があり、心療内科があることになる。本書の背景もそこにあって、身体医学に‟気”というわけのわからないものが深くかかわっていることへの驚きが原点にある。気というのは非物質的なものである。それが薬物という物質にも劣らない効果を臨床の現場にもたらすことがあるとすると科学としての医療としては困る。だから‟気”がなんらかのメカニズムによってエンドルフィンといった脳内麻薬の分泌を促すという説明がなされると少し安心する。そこに物質がでてきて、それの効果であるならば、とにかく科学の手の届くところにあるということになる。
 計見一雄氏の「現代精神医学批判」という本には「からだに触ってください」という副題がついている。そこで精神科医である計見氏が、患者さんにこんなことをいっている。「あなたの病気はからだの病気です」「体重が減っていますね」「食欲がありませんね?」「眠ってないでしょう?」「今までに私が指摘したことは、ぜーんぶからだの不調ですね? 一日のうちでの体調リズムの乱れは、脳という臓器の中にある「歩調取り装置」の故障ですから、やはりからだの異常です」 当然、疲労感というのもメンタル疾患患者から訴えられることの多い症状である。その訴えをきいて、乳酸の蓄積?、などと考える医者はさすがにいないであろう。
 中井久夫氏は「看護のための精神医学」で「疲れ」には「あたまの疲れ」「からだの疲れ」「気疲れ」の三種があるといっている。日本人にはすぐに理解できる「気疲れ」も欧米人には「対人関係に関係した疲れ」といわないと理解されないことも多いそうである。ここにでてくる「関係」がポイントになるのだと思う。病気とその治療において、医者と患者の関係、患者さんの家族友人との関係といったことが治療の効果に少なからぬ影響をもつことである。そして‟関係”というのは脳が感知しているものなのである。
 

「病は気から」を科学する

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現代精神医学批判

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看護のための精神医学 第2版

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