J・マーチャント「「病は気から」を科学する」 R・D・レイン「引き裂かれた自己」 池田清彦「進化論の最前線」

 
 J・マーチャント「「病は気から」を科学する」

「病は気から」を科学する

「病は気から」を科学する

 この手の本はすでに何冊か読んでいる。「はじめに」でも言及されているゴールドエーカーの「デタラメ健康科学」も読んでいるし、「パワフル・プラセボ」も読んでいる。
 最初にこの問題を知って衝撃を受けたのは E・J・キャッセルの「医者と患者」での以下のようなエピソードを知った時であったと思う。以下その部分を引用してみる。

 何年も前、ニューヨーク市のベルビュー病院でレジデントの訓練を受けている時、私は真夜中に精神科病棟から、老婦人が呼吸困難であるとの呼び出しを受けた。行ってみると、患者は空気を求めて喘いでおり、彼女の皮膚は酸素欠乏のために青かった。彼女は肺血栓から生じた重度の肺水腫であった。私は看護婦に、緊急に必要な酸素と薬を取りにやたせたが、その日はスタッフが少なったことと、エレベーターがなんとも遅く、うまく作動しなかったために、真夜中のベルビューの精神科病棟にいる危篤患者は、まるでイースト・リバーにでもいるかのごとくであった。必要な装置を待っている時間は無限のように思えたのである。私はベッドの傍らで何もできないと思いながら立ちつくしていた。一方、その老婦人の表情と苦しみは助けを求めて訴えていた。私は静かに、しかし間断なく話し始めた。なぜ胸が締め付けられているのか、水が肺からどのように退いていくのか、その後には少しづつ楽になって、徐々にもっと調子が良くなるだろう、と説明したのである。本当に驚いたことに、それがその通りに起こったのである。彼女の恐怖が鎮まっただけでなく(そのことだけなら驚かなかっただろう)、私の聴診器からは肺の雑音が消失し、肺水腫が事実鎮まっているという客観的証拠を得たのである。装置が届くまでには、事はすでに治まり、患者と私はあたかも共同で悪魔をやっつけたかのように感じていた。

 今になって考えれば、医者が到着したということから生じる安心感が心拍数の減少などを通じてよい影響をあたえたというような説明を思いつかないでもないが、最初に読んだときはただ驚いた。要するに医学部での授業で教えられる「病気」と現実の臨床の場で遭遇する病気との落差にとまどったのであろう。その次がN・カズンズの「笑いと治癒力」だったかもしれない。いずれにしてもしても患者の心の状態が短期長期の患者さんの治癒過程におよぼす大きな力に驚いた。
 もちろん熟練の呪術医などはそれを知らないわけはないわけで、そんなことに驚いたというのがいかに若い時の自分がナイーブだったのかということである(「医者と患者」は昭和56年刊だからわたくしが医者になってから8〜9年で読んでいる)。後年、中島らもの「ガダラの豚」を読んだころにはその仕掛けの大きさには驚いても、内容には驚かなかった。本書はまだ50ページほどを読んだだけだが、さまざなな事例におけるプラセーボ効果が縷々述べられている。
 
 R・D・レイン「引き裂かれた自己」

引き裂かれた自己: 狂気の現象学 (ちくま学芸文庫)

引き裂かれた自己: 狂気の現象学 (ちくま学芸文庫)

 みすず書房版のレインの「ひき裂かれた自己」はすでにもっている。
 三者の共訳であるが笠原嘉氏などの名もあるので正統派の精神医学者たちによる訳なのであろう。
 本書は天野衛というひとの訳で、みすず書房版とおなじ1971年にせりか書房から翻訳出版したものを改訳して文庫化したものらしい。
 同じ年に別々の出版社から同じ本の翻訳がでるというのもこの当時だなと思う。このころ、日本の医学界では反=精神医学という運動がかなりの力をもっていた。きわめて杜撰な言い方をすれば精神疾患などというものは存在せず、既成の社会に同調できないあるいは反抗的である人たちに既成社会がはるレッテルに過ぎないというようなものではなかったかと思う。レインはその運動の主唱者とみなされていたように思う。
 それで本書の「文庫版訳者あとがき」に「本書との出会いですが、当時、1968年から全共闘運動に参加して、主に学問のあり方をめぐって東大当局・文学部教授会との闘争に明け暮れておりました」とある。それでアカデミズムに絶望し、大学院を退学し、同志たちと私塾を立ち上げた頃に、仲間のへーゲル研究者長谷川宏から本書の翻訳を薦められたという経過が書かれている。長谷川宏氏も渡辺京二氏もそして山本義隆氏も、在野の研究者でそのような経歴をたどったひとは少なくないように思う。アカデミズムから離れたとは言えない経歴をたどったかもしれないが、あの闘争をきっかけに「学問のありかた」路線に転じた人として養老孟司さんの名前も挙げることができるのではないかと思う。
 反=精神医学というようなものがでてくるのは、医療のなかにどうしても科学にならない部分があるということからであろうし、その科学でない部分が一番はっきりとでてくるのが精神医学であるということなのであろう。とすれば本書も上の「「病は気から」を科学する」ともかかわってくるはずである。

池田清彦「進化論の最前線」

 帯に「養老孟司氏推薦! 進化をわかった気でいる人たちにぜひお勧め」とある。わたくしも進化をわかった気でいる人間にはいるのかなあと気になって買ってきた。
 まだ「あとがき」しか読んでいないが、遺伝子の突然変異、自然選択、適応という概念だけでは、進化は説明できない。遺伝子そのものの変化よりも、発生のプロセスの「どの時点で」「どの場所で」「いかなる遺伝子を」働かせるかという、遺伝子の発現制御のほうが重要であるということらしい。しかし、それを制御する機構もまた遺伝子に組み込まれているということなのではないだろうか? 遺伝子のなかには時間情報のようなものも組み込まれていて、ある時間がくるとある部分が発現してくるというようなことではないかと思っているのだが、わたくしは全然わかっていないということなのかもしれない。
 
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