前原昭二 竹内外史「数学基礎論」 J・ホルト「世界はなぜ「ある」のか?」

 

数学基礎論 (ちくま学芸文庫)

数学基礎論 (ちくま学芸文庫)

 ごく一般でいわれている文系と理系という区分にしたがえば、わたくしは文系の人間であると自分では思っているが、小学校のころはなんとなく算数が得意と思っていて、いわゆる何とか算(旅人算とか流水算とか)では、計算間違いはすることはあるかもしれないが、どう解いていいかわからない問題はないと思っていた。それで、中学受験で(麻布中学)で初めて解けない問題に遭遇してショックを受けた。
 それは相当なショックであったらしく、いまだにその問題の骨子は覚えている。いわゆる旅人算で「Aさんは一分にxメートル、Bさんはyメートル歩くことができます。一辺がzメートルの正方形の道があります。Aさんが出発してからu分後にBさんが追いかけます。二人がはじめて同じ辺の上に乗るのは何分後でしょう」というようなものだった。
 それでどう解いたかというと、まず何分後に追いつくかを計算する。その時にそこが辺のどのあたりであるかを計算し、その距離をBさんの歩速でわって、Bさんがその辺にはじめて乗る時をもって解答とするというものである。
 試験がおわって周囲の解答をみてみると、ほとんどが追いつく時間を解答している。「みんな問題の意図がわかっていないね」と鼻高々であったのだが、豈計らんや、わたくしの解答の点からさらに戻っていくと再び同じ辺の上にいる場合があるわけで、二人が一辺の長さの距離にまで近づく時をまず求め(qとする)、Bさんが辺を変わる時間を求め、その倍数でqよりも大きい最小のものを求めればいいのだということに気がついたのは、確か中学3年のときだったと思う。情けない話である。後から聞いたら1600人くらいいた受験生で3人正解がいたらしい。同級には後年東大数学科教授になったM君などもいるから、その辺りが正解していたのかもしれない。後年、驚いたのは子供の中学受験の時、その子の使っている問題集を見ていたら、その問題が小学校4年の標準問題にはいっていたことである。(さらにいやになったのは下の子の小学校3年での塾の入塾テストの算数の問題が皆目解答法も見当がつかなかったことで、それでもこちらはもう中学受験から40年ほどたっていたのでその為かと思い、研修にきていたお医者さんで、大学受験のときは受験界で知らぬものはない有名人で、全国模試で1〜2位をあらそったという超のつく受験秀才にやらせてみたら、1時間くらいウンウンいっていたがギブアップした。ところが小学校3年で数%の正解者がいたのである。中学受験というのがとんでもない異様で病んだ世界になっていることをその時に痛感した。)
 ということで算数というか数学の方面には妙なコンプレックスがあって、時々こういう本を買ってくる。尚、前原氏は教養学部の時の数学の担当であったと思う。「若いときの一年や二年は後から考えるとどうということはないですから、ぼくはどんどん不可をつけます。留年もいい経験です」などといやなことを言っていたそのことだけ覚えている。授業の内容はまったく覚えていない。受験時代から教養学部で後から思い出すのはこういう下らないことばかりで、浪人して通っていた予備校の数学の授業で覚えているのは、そこの先生が「君らがやっている数学などというのは数学ではないんだよ、本当の数学は「20cmの距離の2点のあいだに10cmの定規一本で直線をどう引くか?」というものなんだ」といっていたこと(この解答はいまだにわからない)と、国語の先生が「君らは女を見るとすぐに綺麗かどうかなんてことを気にするが、ぼくの年になると、心だよ、心の綺麗なひとがいい・・、といいたいんだが、ダメなんだ、いくつになっても顔が綺麗だと心まで綺麗だと信じちゃうんだ」ということくらいなのだから、何をならっていたのだろうと思う。
 後、教養学部で記憶にあるのは、英語の授業でウッドハウスの名前を知ったこと、シェークスピアの有名なソネット18番「君を夏に一日とくらべてみようか・・」をこの詩くらいは覚えていたほうがいいよと言われたことぐらいである。
 数学基礎論のようなものにはじめて触れたのはデイヴィスの「ブラックホールと宇宙の崩壊」を読んだときで、有理数無理数の濃度だとかカントール対角線論法だとか番号がふれる無限とそうでない無限だとかいってことを知って驚くとともにうれしくなった。それですぐに理系の大学教授をしている友人にあったとき、「自然数と偶数はどっちが多いと思う?」ときいたら「それは自然数だろう」という答えが返ってきたから、理系の人間でも必ずしも数学基礎論に親しんでいるわけではないことがわかった(もっとも医者も、分類では理系なのかもしれないが)。
 嘘つきのクレタ人とかいう話に喧々諤々の議論があることも知った。文系の人間には、嘘つきというのは嘘をたくさんいう人間であってもつねに嘘をいう人間ではないと思われるのだが、どうもそういうことでは理科はできないらしい。
 数学とは人間の外にあるのか、人間の内部にあるのか(脳の構造が規定する何かなのか)という馬鹿なことを以前から考えていて、こういうのはカントの哲学とかに関係があるのかもしれないというあたりでうろうろしている。
 つまりこの宇宙に生命が存在していなくても、知的生命体が存在しなくても、それでも数学の論理というものが存在するのか(物理法則というのが数学の言葉で表現されるとしても、それは理解ということのために必要とされるのであって、数学の存在があろうとなかろうと、宇宙は物質のもつ法則によって自動的に展開していくので、知的生命体の存在はそれにわずかな疵さえあたえることができないのか、エントロピーがどうたらで局所的には何らかの影響を与えうるのか?)、こういうあたりをうろうろしていると、ゲーデルとかいう名前がどこからかでてくるのだろうと思う。
 それで見当違いかもしれないが以下の本もそういうこととどこか関係があるのかもしれないと思っている。
  解説を書いている中島義道さんという方もなかなか変わったかたのように思うが、わたくしにはどうにも哲学というのが苦手で、数学までは内部で完結するというか一つの美しい学問体系として成立するような気がするのだが、哲学というのはどんどん拡散していって収拾がつかなくなってしまうもののような気がしている。そうしないために言語の使用法といったところに自分の関与する範囲を限定しようとするようにもなるのだろうと思うのだが、それはものすごく寒々とした不毛の分野にしかならないような気がしてしまう。
 解説で中島氏はこんなことを書いている。「(本書は非常に広い範囲の教養を持つひとが書いた大変に面白い本だが、しかし)「ホンモノの哲学書と言うには、いくつかの難点も見られる。」あるいは「本書は、あらゆる難解な哲学書に対して胡散臭さを覚え、しかも知的好奇心旺盛な人々にうってつけの本である。本書で繰り広げられる議論や解答はどうでもいい。ただ、通勤電車の中で、酒場の隅で、あるいは家族が寝静まった深夜に、「世界はなぜ『ある』のか?」と問い続けることは、すばらしいことではないか? たとえ、それに対する答えの見通しさえないにしても。こうした営みにある「すがすがしい喜び」を覚えるなら、その人はホンモノの哲学のすぐそばにまで来ているのだ。」 こういうのが嫌いなのである。なんだかホンモノの哲学というのがどこかにあって、それは専門家にしか奥義が窮められないものといった雰囲気を感じていやなのである。哲学というのは「考える」ということであって、誰にでもできることではないかと思う。しかし、考えるというのは何かについて考えることであって、純粋にただ考えるなどというのは遊びでしかないと思う。わたくしが唯一少し齧ったことのある哲学者ポパーはその世界では二流か三流なのであろうが? 哲学というのは何かわれわれにとって解くべき大事な問題があり、それに応える手段として存在するという見方をとっていることにとても魅せられる。自閉した哲学のための哲学などというものは存在しないと、あるいはあっても意味がないと、わたくしには思われる。
   
ブラックホールと宇宙の崩壊 (岩波現代選書 NS 535)

ブラックホールと宇宙の崩壊 (岩波現代選書 NS 535)