新型コロナウイルス感染 いくつか

 新型コロナウイルス感染については、いまだによくわからないところが多い。
 たとえば、まずマスク着用の有効性。岩田健太郎氏の「新型コロナウイルス感染の真実」では、自分が有症状(咳嗽があるなど)でなければ着用の意味はないとされていた。岩田氏は少なくとも最近の著作で見る限り、基本的には科学の側にたつひとであるように思う。そうであれば、マスクの着用が物理的にウイルスの拡散防止に役立つかという観点からその有効性をみることになる。一方、最近のいくつかの疫学調査の報告では、マスクの着用者が多い集団ではそうでない集団より明らかに感染リスクが低下するという成績も示されているようである。そうであっても、これはマスク着用自体の有効性を示しているわけでは必ずしもなく、マスクを多く着用する人々はそうでないひとよりも手洗いを多く励行しているというようなことに起因しているのかもしれない。そうであれば、岩田氏のいうことも、最近の疫学調査もともに正しいということもあるのかもしれない。要するに、視点の違いによってある現象が違ってみえてくる、ということである。
 最近の報告では、感染者が若年層に移ってきているようであるが、これは最近、若年層に集中的に検査がなされるようになったから、たまたまそう見えているということなのだろうか? 現在は感染しているが無症状のひとも検査数の増加により感染者数に多くカウントされてきているはずである。これが以前は有症状のひとに検査が偏っていたので、若年者の比率が少なく報告されていただけなのだろうか? 若者が高齢者よりアクティビティが高いのは当然のことで、自粛要請によっても高齢者に比べればその行動に抑制がかかりにくく、結果として、最近若年者層に感染が目立ってきているということなのだろうか?
 「三密を避ける」などというけれども、「三密を避けた」男女関係(男々関係、女々関係もそうだろうと思うが)などというのはありあえないと思う(それとも、メールのやりとりだけ、あるいは遠く離れたところにいて。テレビ会議システム?で言葉を交わすだけという関係もありうるのだろうか?
 現在「夜の街」といった奥歯にもののはさまったような婉曲表現が用いられているが、そういうところは疑似?(時はは本物の?)男女関係・男々関係・女々関係が希求される場であるはずである。売春は世界最古の職業なのだそうであるが、そうであるなら「三密を避ける」などということはそもそも人間の本性に反することのはずで、それが厳密に守られることなどありえるはずがない。いわんや若者においてをやである。そのような生物学的本性の軛を乗り越えられることこそが人間の人間たる所以であるという見方もあるのかもしれいが・・。
 ある経済史家は、禁欲ではなく贅沢こそが経済発展の根にあるのだといっている。そして贅沢は姦通や妾を愛妾を多く蓄えること、さらには売春と深く結びついているとしたのだそうである。売春こそが経済を発展させる原動力だった?
 江戸時代の遊廓でみられた美意識こそが日本人の洗練の極致を示しているなどという見解には目くじらをたてて反対するひとも多くいるけれども、かつては、かなりの日本人は「野暮」といわれるころがないようにすることを最大の行動規範としていたのではないかだろうか?
 だから、最近の反=三密の風潮をみていると、えらくピューリタン的というか、精神主義的というか、どこにも血気の片鱗も感じられない口先だけの言葉が氾濫しているように思えてしまう。もっとも、そうおっしゃっている方々がすでに「心の欲する所に従っても矩を踰える」ことがない年齢になっているからなのかもしれないが・・。
世界の歴史のなかで、われわれの行動に大きく影響した病気として梅毒とエイズがあるのではないかと思う。梅毒がコロンブスが新大陸から持ち帰ったものであるかについては異説があるようだが、15世紀末のヨーロッパから我が国までそれが到達するのにわずか100年ちょっとくらいであったかと思う。いかに人の接触が密であるかということである。
 「プレイボーイ」とか「ペントハウス」といった雑誌は、アメリカの清教徒的文化を覆すのにかなり大きな力があったのではないかと思う。そして、それにまた水を差したのがエイズの流行だったのではないかと思うが、エイズがようやくコントロール可能な疾患となった今、今度は新型コロナウイルスの流行が、われわれに行動変容をせまることになるのだろうか?
 今度の新型コロナウイルスの流行を、あまりに放埓に走った人類に神が下した懲罰であるなどと説く宗教家はいくらなんでもいないのはないかと思うが、だからこそ人々は科学に救済を求めるわけである。そしてその科学が下す命令が、マスクをしろ! 手をよく洗え! 人との接触を避けよ! というのではあんまりである、ということで、多くのひとが戸惑っているのではないだろうか?
科学に期待されているのは、そんな迂遠な対策ではなく、「この薬を一粒のめば治ります!」という言葉のはずである。「この薬を一粒のんで、仲良く羽目を外しなさい!」
「何も難しい話をしているのではないのだ! ただ仲よく物語の主役として 羽目を外そうということだけなのだ!」 (ラフォルグ「伝説的な道徳劇」の「パンとシリンクス」)
 「死ななければならない可哀そうな人間達よ、彼等には互いに愛し合う理由が何と沢山あることだろう!」(同)
われわれはみな「死ななければならない可哀そうな人間」の一人なのである。その人間たちはそれでも健気にも歌を詠み、曲を作り、お話を紡いできた。そしてもちろんそういうことを何もしないで生涯を終えた大部分の人達も、互いに愛し合って、あるいは憎しみあいながら、生きて死んでいった。
 この新型コロナウイルスの感染流行をきっかけに、われわれがそういう当たり前を忘れて、いささかでも、野蛮の方へと退行していくことがないことだけは祈りたいと思う。
みながマスクを着けているというのは決して正常なこと普通なことではないことだけは忘れないようにしたい。

 玉の緒よ絶えねば絶えね ながらへば忍ぶることの弱りもぞする
 玉の緒よ絶えなば絶えねなどといひ今といつたら先まづおことわり

 付記:作曲家のエンニオ・モリコーネが死んだらしい。転倒して大腿骨頭骨折をおこしたことが直接の原因らしい。(奇しくも、去年死んだわたくしの母と同じ経過である。)
映画をよくみるほうではないが、トルナトーレが監督した「ニュー。シネマ・パラダイス」にモリコーネがつけた音楽、なかでも「愛のテーマ」は、古今東西、今まで実に多く書かれてきたさまざまの旋律のなかでも一番美しいものというひともいるらしい(もっとも「愛のテーマ」は息子のアンドレアの作らしいが)。
 そして映画「ニュー・シネマ・パラダイス」のラストは、過去につくられた様々な映画から切り取ったキス・シーン(つまりは濃厚接触の場面)の延々とした連続のなかで終わる。映画へというものへの実に秀逸なオマージュである(それを見ている、もはや中年を過ぎようとしている映画監督の表情)。

新型コロナウイルスの真実

新型コロナウイルスの真実

ラフォルグ抄 (講談社文芸文庫)

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