公衆衛生 魔法の弾丸 新型コロナ

 今年は新型コロナウイルスで明け暮れた一年だったけれども、これは公衆衛生の果たす役割を改めて見直すことになった一年でもあったのではないかと思う。
 医療関係者には周知のことである1848年のゼンメルワイスによる手洗いの励行が産褥熱を劇的に減らしたという事実は、これがまだ病原菌も知られておらず、もちろん抗生物質もなかった時代における最善の感染症対策を示したわけである。
 しかし1928年のペニシリンという魔法の弾丸の発見(実用化はそれからさらに15年くらいしてからであるが)は病気の直接の原因を叩くというきわめてわかりやすい疾患への対応のやりかたをわれわれに示したわけで、またわれわれが抱く科学のイメージにもよく合致するものであったため、それ以来、病気になれば薬をのめばいいというかたちでの医療のイメージが、医療者の側にも患者さんの側にも浸透していくことになったのだろうと思う。
 特に江戸時代には医師は薬師と呼ばれていた日本では、もともと薬信仰が強かったため一層それが強かったかもしれない。
今回、新型コロナウイルス感染拡大により、マスク・手洗いなどという近年ではあまり重視されていなかった前近代的とも思えるやりかたがあらためて提案されて多くのひとが面食らっているのだと思う。
 わたくしのように医療の側にいる人間にとっても、今年、手足口病の流行がきわめて少なかったこと、現在すでに12月末であるのにインフルエンザの症例がまだほとんど見られていないことなど、面食らう事態がおきている。
 それがもしもマスク手洗いといったことの励行の結果であるとすれば、魔法の弾丸をわれわれが手にして以来のわれわれが抱く医療のイメージに大きな転換をせまる事態がおきていることになるのかもしれない。
 しかし、どこかで研究が進んでいるはずの新薬がもしも新型コロナウイルス自体の増殖を劇的に抑える効果があることが明らかになれば、マスクや手洗いなどはまたどこかに忘れて、かりにコロナウイルスに感染しても薬をのんでなおせばいいや、という方向にまたもどっていくのではないかと思う。
 われわれは何か問題がおきれば、それへの対策がどこかにあるはずであると考えることにすっかり慣れている。もしも洪水がおきればそれに備えるダムをつくらなかった人間が非難される。しかしあらゆる大雨にも大雪にもすべて可能な対策があるはずであるというのは人知に対する明らかな過信であるはずである。
 だから今は地球温暖化が諸悪の根源であるといった方向に議論がいき、温室効果ガスの排出を抑制するにはどうしたらいいかという対策でいろいろな提案がされている。最近のレジ袋の廃止というのも風がふけば桶屋が儲かるといった論理のつながりで、それを目的にして施工された施策らしい。
 今年のはじめにアフリカのほうでバッタだったかの大量発生で大変なことになっているという報道があったが、その後、どうなったのだろう。ブラジルやアメリかの山火事も。
 どこかで、われわれの周囲から昆虫がへりつつあるという報道を聞いたことがある。もちろん、昆虫がいなくなれば植物の受粉もなくなり、われわれも生きていけなくなる。
 どこかで今われわれが想像もしていないことがおきて、われわれの生活に根源的な変化を迫るという事態はいつ何時おきるかわからない。
 今回の新型コロナウイルスの流行は、そのことへの警鐘を鳴らしているのかもしれない。