未来は開かれている

 一月の終わりに、中国で新たな新型肺炎が流行しているという報道をみたときは、フーンと思っただけだった。以前、病院の責任者をしていた時に、何回か新種のウイルスが日本にはいってくるかもしれないという話が出たことがあって、そのたびに、もしそうなったら発熱外来をどう設置するか、感染者のための入院病床を何ベッドまで確保できるかなどいろいろと議論したが、結局、すべてが空振りに終わっていた。それで、今回もまた、どうせそうなるだろうと多寡を括ったわけである。
 また、わたくしはあるクラス会の幹事をしていて、それを毎年3月の初旬に開催してきていた。今年も2月はじめに会場を予約し関係者に連絡した。その時には、コロナウイルスのことなど考えもしなかった。しかし、2月も半ばすぎて何となく雲行きがあやしい。それで、大事をとって、会の延期を決めた。お店にキャンセルの電話をしたら、店員さんは「えー? キャンセルですか?」という怪訝な反応であった。わたくしはそのクラス会の医療相談担当のようなこともしていて、同窓の何人かがいわゆる重篤な基礎疾患を持っていることを知っていたので、安全を見込んだわけである。しかし、その時も、7~8月になったらウイルスも収束の方向が見えてきているだろうから、秋ごろにでも開催を相談しましょう、というような呑気な感じであった。
 われわれには未来のことはわからない。3・11ももちろん、それを予言できたひとはいなかった。そして、これが過去のものとはならず、いまだにわわれわれの現実であり続けているのは、それが原発の事故(炉心融解、水素爆発)を引き起こしたからで、それがなければ、われわれにとって神戸の震災がすでに過去のものとなってきているのと同じで(その時の首相は社会党党首の村山さんであった。その社会党ももう存在しない)、そろそろ10年の年月がたとうとしているのだから、われわれが思い出すこともまれになっていたかもしれない。
 福島第一原発の事故は全電源喪失の結果としておきたのだという。この炉はアメリカ製のものを一切の変更なしで使うという条件で日本に設置したもので、アメリカの原発は平地にあり、想定される最大の天災はハリケーンとのことで、それは天上から襲ってくるものだから非常用電源はすべて地下に配置されていた。しかし、日本での天災は津波であったのだから、一番低い場所に設置されていた非常用電源は津波の到来で最初に駄目になってしまったという話をきいたことがある。もちろん、想定外の津波が来たということで、津波の到達を予想していたら設計は根本的に変わっていたのかもしれないが・・・。
 
 「未来は開かれている」というのは、K・ポパーとK・ローレンツの対談のタイトルである。これはポパー独特の言い方で、要するに「未来はわからない」ということである。おそらくポパーが意識しているのは「ラプラスの魔」のような考え方で、もしも現在のある時点において作用している全ての力学的・物理的な状態を完全に把握・解析する能力を持つ超越的存在があるとすれば、その存在にとっては、遠い未来の宇宙の全運動までも確実に知ることができる、というような考え方である。その「魔」にとっては3・11も今回のコロナウイルスの流行もすべてお見通しのはずである。「幼なじみの 観音者にや 俺の心は お見通し」(矢野亮 詞) われわれは何かを考えたときに。それは自分が自分で考えたと思うわけであるが、これは脳内ニューロン中の伝達物質の動きの結果なのであり、そこには少しも自発性などというものはないという見方もあるようである。
 ポパーというのは変なひとで「未来は開かれている」などといいながら、不確定性原理のようなものは気にいらなかったようで、それはわれわれの知識の不確かさによるのであって、もっとわれわれの知識が確かなものになれば霧消すると思っていたようである。それで何らかの思考実験によって不確定性原理の脆弱を示すことで、量子力学の歴史に自分の名を残したいという野望を抱いていたようであるが、もちろんそれは成功しなかった。

 今ここでこんなことを書いているのは、タレブの「ブラック・スワン」を念頭においている。タレブのこの本は、原本は2007年の刊行(訳書は2009年)である。リーマンショックが2008年であるから、その前年、いわゆるサブプライム・ローン市場がやばくなっていた時で、タレブは本書を書いたことで、100年に一度の危機を予言したとして一躍有名になった。タレブはトレーダーであるが氏のとるポジションは、通常ではない事態(100年に一度などといわれるが、それでもその割には頻回におきる、しかし通常はないイレギュラーな事態)が発生しても損をしないというものであるらしい。あるいは通常は損をしていても、そういう非日常の状況においては利益をえる。 
 良くは知らないが、年末年始の恒例の行事の一つとして、一年後の株価の予想などというのも新聞の片隅にでるのはないかと思う。楽観的なもの悲観的なものいろいろな予想があったのであろうが、今年は100年に一度のパンデミックがおきるから、それによってリーマンショック級の影響が株式市場にあるであろうなどという予想をしたひとがいるとは思えない。もしもいたら、それは投資家ではなく占師か予言者である。こういう株価の予想などは昨日までの日常が今日も明日も続くであろうことを前提にしている。ブラック・スワンのいない世界である。
 タレブはレバノンの出身らしい。レバノンは、昨年はゴーンさんの脱出先、最近では大規模爆発の発生地として話題になっているが、現代史においては1975年から1990年までのいわゆるレバノン内戦の地である。
 「ブラック・スワン」によれば、このレバノンの地は1000年以上にわたって12以上の宗教、民族、思想を持つ人々が平和裏に共存していた。キリスト教諸派イスラム諸派ユダヤ教・・・。しかしそれが一瞬で消えた。タレブによるとその地に住む教養ある人々の数がある一定の数以下になると、そこは真空地帯となってこのようなことがおきるのだという。
 このレバノン内戦がはじまったとき、タレブはまだ年少だったが、大人たちは異口同音に「この争いはほんの数日で終わる」と言い続けていたのだという。
 タレブが挙げる例:カストロ政権ができたときにキューバからマイアミに逃げた人たちは「ほんの数日」の逃亡のつもりだった。1978年にイスラム共和国ができたときパリやロンドンに脱出したイラン人たちもちょっとした休暇くらいのつもりだった。1917年のロシア革命を機にロシアからベルリンに逃れたひとも、すぐに戻れると思っていた、
 さらにタレブが挙げる例:イエスが布教していた時代にそのイエスの活動を記した文献はほとんどない(わずかヨセフス「ユダヤ戦記」の一冊があるのみで、それもほんの数行の記載)。誰もこのユダヤの異端の宗教が後世に何かを残すとは思っていなかった。また7世紀に突然あらわれた別の宗教がほんの数年でインドからスペインまでに領土をひろげ、イスラム法を広めたことも、その宗教の出現した当時は誰も予見できなかった。
 もっといえばわれわれ人類が現在、地球上で大きな顔をしているのだって、はるか昔に大きな隕石が地球に衝突したことによって恐竜が絶滅した結果らしい。いまだ発見されていない太陽の回りをまわっている伴星ネメシスの影響によるものかどうかはわからないが・・。
 ツヴァイクはその「昨日の世界」を「私が育った第一次世界大戦以前の世界を言い表すべき手ごろな公式を見つけようとするならば、それを安定の黄金時代であったと呼べば、おそらくいちばん適格なのではあるまいか」と書き出している。「大きな嵐がそれを粉砕してしまった今日では、われわれは、あの安定の世界が夢幻の城であったことを、決定的に知っている。だがそれでも、私の両親はその世界に、石造の家に住むのと同じように住んだのである。」 第一次世界大戦がはじまったときに、多くのひとは、これはせいぜい1~2ヶ月で終わるだろう思ったのだそうである。そして、第一次世界大戦の後にはさらに今次の大戦があって、ナチスが欧州を席捲しているのをみて、「私自身の言葉を話す世界が、私にとっては消滅したも同然となり、私の精神的な故郷であるヨーロッパが、みずからを否定し去った」こと感じて、ツヴァイク自死した。

 われわれには未来のことがわからない。今の新型コロナウイルス感染がこの先どうなるのかもまたわからない。
 ジョルダーノは「コロナの時代の僕ら」で、人々が口々に「専門家はこう言っている」といいながら様々な見解をぶつけ合っているさまを記している。同じデータを分析し、同じモデルを共有しているのに反対の結論に達している専門家たち。それを風邪程度の病気というものから、全員病院に隔離すべきというものまで。またちょっと頻繁に手洗いをすればいいというものから、全国で外出禁止令を発令すべきというものまで。
 おそらく各々の手許の資料にあるベルカーブが様々なのだろう。あるいは同じベルカーブをみても何を重視するべきかが異なるのであろう。経済学者と公衆衛生学者では視点がまったく異なる。また、臨床医と公衆衛生学者でも同様である。この治療法を選択した場合の成功率は50%というのは統計学的には意味があっても、臨床の場では「やってみなればわかない」というのと特に変わりはない。
 学者というのはみな大なり小なりタレブのいう「プラトン性」にとらわれている存在で、タレブがいうには、そのために「実際にわかっている以上のことを自分はわかっている」という思い込みから容易には逃れられない。そのため、何かを聞かれるとわかっているような気がして反射的に答えてしまう。専門家というのは「こういう場合にはどうしたらいいのか?」を(素人とは違って)知っている存在であり、だからこその専門家であると思われているので、専門家あつかいされると、答えなければいけないという誘惑に抗するのは容易ではない。それゆえに何かの対策を提言してしまう。だが、その対策が正しいかどうかはやってみなければわからない。いわば、トライアル&エラーである。しかも、現在、実にさまざまな対策(しかもそれがもたらす結果が正反対でありうるような対策が)が同時並行的に行われているのだから、ある結果がでても、それがどの対策の結果なのかがわからない。
 ポパーがよく用いる図式に、
P1→TS→EE→P2 
というのがある、
(P1 最初の問題 TS 暫定的解決 EE 誤りの排除 P2 新しく生じる問題)
 これは生物の進化についての議論であるが、ある生物が現在住む環境において何らかの問題(P1)に遭遇すると、とりあえず変異(TS)という形でそれに答える。それがうまく問題への対応となった場合には、誤りの排除が行われることになるが、その結果また新しい問題も生じてくる(p2)という単純な図式である。
 今さまざまなひとがさまざまに提言している現在のウイルス感染拡大への対処法というのはTSなのであるが、何が問題なのであるかという認識がそれぞれに異なっているので、提出されるTSも様々であり、まったく相反する解決法の提言さえなされうる。しかしそれらすべてが場合によっては相互に効果を相殺しながらであっても、何らかの結果をもたらす。
 今われわれが一番わからないのが、このウイルスのパンデミックが、自分達の「昨日までの世界」を根底から変えてしまうものなのか? それとも通り過ぎるのを待っていればいい一過性の嵐で、収束すればまたこれまで通りの生活が復するのかという点であろう。
 これは誰にもわからないことで、それはわれわれがとにもかくにも今おきていることに対して何等かの行動をすでにおこしていることによって、未来が変わってしまうからである。
 われわれがどのような未来を望むのかということがなければ、どのように行動をすべきかを選択することはできない。しかし、それぞれが望む未来はてんでんばらばらであるかもしれないわけだし、ある結果を期待しておこなった試行が別の予想外の結果をもたらすこともあるかもしれない。とすればわれわれが現在している様々な試みも、その結果がどうなるのかは、まったくわからないことになる。つまり、未来は開かれている。あるいは一寸先は闇。
 しかしとにもかくにも未来を考えるということは、今われわれに守るべき現在があるということで、そういうものがもしも存在しないのであれば、議論はすべて宙に浮いてしまう。
 今の議論をみていると、方向は二つに分かれているように思われる。一つは命が何より大切だという方向であり、もう一つが命があったってお金がなければ生きてはいけないという方向である。前者からは新型コロナウイルスでは死なないためにはどうすればいいかという課題がでてくるし、後者からは感染を制御しながら経済をまわすにはどうしたらいいかという話がでてくる。しかし、両者ともに生きていくこと(死なないこと)が共通の目標になっている。
 経済活動に一切影響を与えることのない活動の制限というのはおそらく存在しない。そうすると、活動の制限によってどの程度までの経済活動の縮小は許容されるのかということの議論が必要とされることになる。しかし、活動の制限がどの程度まで経済活動に影響するのかも、活動の制限をしてみたあとにある程度の時間が経過してはじめて明らかになってくることであり、事前に正確な予想をすることはできない。また経済活動への影響は一律ではなく部門によって大きな差が生じる。さらに、その影響をどう評価するかについては各人の価値観がそれに大きくかかわる。今は「太く短く」ではなく「細く長く」が自明の前提とされている。つまり「命あっての物種」。
 医療もまた当然それを前提にしている。「まず何よりも害をなすなかれ。」 ここから筋萎縮性側索硬化症の問題も脳死判定の問題も生じてくる。
 現在、医療崩壊という事態になることを避けるということが新型コロナウイルス感染対策の大きな柱の一つになっているが、これは暗黙の了解として、トリアージュをせざるをえないような状況にならないようにしたいという含意があるはずである。命の選別をすることは医療の根幹を破壊し現場のモラルを崩壊させてしまう可能性がある。すでに装着している呼吸器を回復の見込みがないということで外したり、高齢で若いひとにくらべると回復の可能性が低いという理由で装着をしないことにする、そういう状況には直面したくない、すべての患者に人事をつくして天命をまてる状況を提供したい。
とはいっても経口摂取ができなくなった患者への胃瘻増設術施行の頻度は日本では高いし、一方では合法的に安楽死が可能になっている国もある。
 わたくしは、尊厳死協会の会員ですべての延命治療を拒否する旨の書類にサインしているかたが何かの病気で入院してきて、「あれは撤回します。すべての可能な治療をやってください。あれは健康なときに考えたことです。病気になって考えが変わりました。」という申し出を受けたことが何回かある。人間は自分ひとりのことに限っても「未来は開かれて」いるわけである。
 熊谷徹氏の「パンデミックが露わにした「国のかたち」」を読んでいたら、ドイツで2012年に「未知のコロナウイルスにより多数の死者が出る事態」を想定した報告書が出されていることが紹介されていた。これは「変種SARS飛沫感染により拡大、一人の感染者が3人に伝播させる。潜伏期間は3~5日だが、最長14日。症状は咳・発熱・息苦しさ、悪寒、筋肉痛、頭痛などの症状で、レントゲンで肺炎の所見。子どもや若者は軽症もしくは中程度の症状で約3週間で治癒。65歳以上の高齢者がしばしば重篤化し入院が必要になる。子供や若者の死亡率が1%、65歳以上の患者の死亡率は50%になる」というもので現在の新型コロナウイルスパンデミックをおどろくほどよく予言しているようにみえる。しかし、この論文が注目されたのは、今回のパンデミックが実際におきたからで、もしもそれが起きなかったとしたら、この論文は永久に埋もれたままであったはずである。
 タレブの「ブラック・スワン」に、9・11のような事態をさけるために飛行機の操縦席に防弾ドアをつけ、ずっと鍵をかけておくことを9・11の前に誰かが提言し、その提案が実行されたとして、その提言者が9・11を防いだ英雄として賞賛されることは絶対にないということが書かれている。なぜならわれわれは起きなったことを知ることはできないからである。
 未来にはほとんど無数のありとあらゆることがおきる可能性がある。しかし、その中で実際におきることはそのごく一部で、その起きたことによって未来がきまっていく。
 新型コロナウイルスによるパンデミックは実際におきてしまった。しかし、もしも初期対応が迅速になされていて、それがうまく運び、ごく狭い地域だけに感染が限定されて収束してしまったとすれば、われわれは今頃、オリンピックなどを話題に昨年までと変わらない生活をおくっていたはずである。武漢での肺炎はローカルな話題としてすぐに忘れ去られたに違いない。

 もしも、キリストの布教が狭い地域に限定したひとつのエピソードで終わっていたら、われわれが今知っている西洋の個人というものも存在しなかったはずで、世界は相変わらず民族間の武力抗争の世界が続いていたかもしれない。科学というのがキリスト教の産物であるかということについては大いに議論があるところであろうが、科学もまた西洋で主として発展したことは確かで、それは宇宙の動きには神がつくった法則性があるはずという信念を背景にしていた。その信念なしには科学はないとすれば、ちょっとした歴史の偶然で、わたくしがいまここでパーソナル・コンピュータなどというもので文章を打っていることなどが決してない世界が存在したはずなのである。
 今、新型コロナウイルス感染パンデミックに対して、さまざまなひとがさまざまな提言を行っている。それぞれのひとは自分が正しいと主張しているが、それが正しいかどうかは現在知ることは決してできなくて、それを教えてくれるのは提言を実行したこと、あるいはしなかったことの結果、未来におきるさまざまな出来事だけである。
 竹内靖雄氏は「経済思想の巨人たち」の「ケインズ」の項で、ケインズが100年以内(2030年まで)には経済的問題は解決されてしまうであろうと予言していることについて、「ケインズほどの人物でも、先の事を見通すプロメテウスではありえなかったわけで、人間は凡人から天才まで、おしなべてエピメテウス、つまりことが起こったあとでわかる人にすぎないのである」と書いている。

 未来のことはわからない。去年、今年の新型コロナウイルスパンデミックを予見できたひともいないし、今年のパンデミックがどのような来年をもたらすのかも誰にもわからない。ただ、ただわれわれは仮説をたてて未来に問いかけるしかない。
 今回の安倍首相の退任だって、7月の時点でそれを予見していたひとはまずいないだろうと思う。本人だってそうかもしれない。われわれの開かれた未来を確実に狭めてしまうものの一つとして病気がある。われわれは致死率100%の存在ではあるが、その死がいつくるのかわからないという意味で“開かれた未来”に安住している。しかし、病の宣告はその未来を閉じたものとしてしまうかもしれない。しかし閉じたものとなるのはその個々の人間の未来であって、世界全体の未来は相変わらず開かれたままなのである。


昨日の世界〈1〉 (みすずライブラリー)

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コロナの時代の僕ら

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経済思想の巨人たち (新潮文庫)

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