岡田 暁生「音楽の危機 《第九》が歌えなくなった日」

 本書の大部分は昨年の4月から5月にかけて、新型コロナウイルスの感染拡大を受けてコンサートなどが次々に中止になっていった時期に書かれたということである。(最終章のみは6月後半)
 著者はいわゆるクラシックの分野での評論に長年たずさわってきたかたである。
 副題に「《第九》が歌えなくなった日」とあるが、これは本書の執筆時期での感想であって、昨年末にはÑ饗の「第九」の演奏会もおこなわれていた(ただし、かなり規模を縮小したオーケストラと従前の半分以下のコーラスというかなり中途半端な編成であった)。また今年のウィーンフィルのニュウ・イヤー・コンサートは聴衆なしで行われていた。これは世界中への放映があらかじめ契約されていたであろうと思われるので、ホールに聴衆がいようといまいと、確実にその演奏を映像を通じてリアルタイムに(あるいは録画で)聴く(見る)ひとが何万・何十万といるということがわかっていたということがあってやった、あるいはやらざるをえないということだったのかもしれない。東京オリンピックを無観客でもやるというようなものかもしれない。聴衆からの拍手がないラデッキー行進曲というのも奇妙なものであった。
 本書のかなりは《第九》(あるいは第五「運命」)をめぐる考察で占められている。岡田氏は「実はわたし自身も昔から《第九》は苦手だった」と書いている。ここでの「自身も」の《も》は、「《第九》に押しつけがましさを感じる人も少なくはないだろう」というその直前のセンテンスを受けてのものである。
 第九交響曲は当初構想されていた二つの交響曲を一つにしたものといわれている。現在の第三楽章までにオケのみの第四楽章がつくものと、合唱をふくむ別の構想の交響曲を一つにしたらしい。当初構想されたオケのみ交響曲の第4楽章のテーマは他の弦楽四重奏曲に転用されている。
 第九交響曲というのは第一から第三までの楽章が実によくできているとわたくしは思うので(たとえば冒頭の空虚5度、第三楽章の二つのテーマによる変奏曲・・)、第四楽章になって、とってつけたように、それまでの楽章を否定していくというやりからは、そこまでの音楽を聴いていた聴衆に対して礼儀に悖るのではないかと思う(その点、ははるかに「運命」のほうが構成が純一である)。

 ベートーベンはかなり若いときから「シラーの歓喜によせて」に曲をつけることを構想していたらしい。もしも弦楽四重奏に転用されたテーマによる終楽章による第九番目の交響曲というものができていたら、これはどちらからというと晩年のピアノ・ソナタ弦楽四重奏の方向の交響曲になっていたのではないかと思う。
 しかしベートーベンには晩年の沈思黙考路線とは別に、人々をアジテートして説教したいという欲求もあり、それが若年時の「悲愴」ソナタから英雄交響曲、さらに運命へと結実したわけであるが、晩年までその欲求が消えることがなかったことが、「第九」交響曲(4楽章)や「荘厳ミサ」などにつながったのだろうと思う。

 わたくしはもしも西洋の歴史上、後世に一番大きな影響を与えた人物というのを選ぶとしたらベートーベンではないかと思っている。もしもベートーベンがいなかったら、いわゆるクラシック音楽というのは、現在ではすでに古典芸能となっていたのではないかと思う。
 そしてベートーベンによってかろうじて生き延びてきたクラシック音楽も現在、古典芸能化する危機の瀬戸際にきているのではないかと思う。
 おそらく現在、クラシック分野の評論家といわれるようなひとで、西洋古典音楽は現在、存亡の危機に立たされているのではないかという意識を持っていないひとはまずいないるはずで、岡田氏の音楽批評の根底にもつねにそれがあるはずである。
そのクラシック音楽の危機を白日のもとにさらすことになったのが、今回の新型コロナウイルス感染であったわけで、本書の執筆の動機もそこにあるものと思われる。
 要するに現在においても西洋古典音楽を聴くことはわれわれにとってまだリアルなものであり続けているかという問いである。

 ベートーベンが後世に残した最大のものはロマン主義という問題であって(ブラームスシューマンシューベルトマーラーブルックナー・・・)、もっと広くいえばフランス革命後の西洋(とそこにおける個人)という問題である。
一人一人の人間にかけがえのない価値があるという考え方はフランス革命後に広まったものであり、(少なくとも若い時の)ベートーベンはその最大の扇動者の一人であったわけである。
 そしてわれわれは音楽以外にもう一つ、個人が有する価値の発見の形式として小説というものをもっている。これまた西欧由来のものであるが、少なからぬひとがまた小説という形式もまたその役割を終えつつあると感じているのではないかと思う。

 現在、西欧クラシック音楽が直面している問題の根にあるのは上記のようなものであると思うが、それに対する岡田氏の回答はかなり混乱しているように見える。
 そもそも西洋古典音楽を愛好するのでなければ、氏が音楽評論という立ち位置をえらずぶはずがない。氏はその愛するものが滅びることがあってほしくないと思っているが、現在クラシック音楽のコンサートに通っているひとのほとんどはそのような危機意識は抱いていないわけで、その点で氏はクラシック音楽愛好家のなかでもすでに少数派である。
 コンサートに通うひとの大部分は単にクラシック音楽が好きなだけなのだが、岡田氏はもちろんクラシック音楽が好きであるとしても、(それ以上に?)クラシック音楽とその運命について考えるのが好きなのである。

 本書に縷々説かれるように、クラシック音楽のコンサートは西欧近代市民社会の成立と不可分なものである。
 それで、今回のコロナ禍のように人が密に集まることが忌避されて、コンサートを開くこと自体が自明のものとはいえなくなると、それが直ちに西欧の黄昏という方向の話と結びついてくることになる。

 今われわれはここ何十年か(何百年か?)信じてきた(西欧近代由来の)価値観を根底から揺さぶられる事態に直面している(これを書いている時点で、アメリカ議会に群衆が乱入しているという報道がなされている)。
それはコロナ禍によって促進されているものではあると思うが、イギリスのEU離脱などはそれ以前から進行しいたわけで、明らかに“西欧民主主義”への何度目かの懐疑にわれわれは直面しててる。おそらく両次世界大戦で経験した幻滅がようやく癒えてきたと思われる時期がどこかにあったはずなのに、現在は明らかにそれがまた失われようとしている。

 だから第九を能天気に演奏する、歌うなどということが、何か空々しく感じられるようになってきているということがある。

 しかし人間には「祭り」への志向あって、別に本気で信じていないものでも神輿に担いで騒ぎたいということもあるので「、第九」を歌っているひとが、あるいは演奏しているひとが必ずしもシラーの「喜びによせて」の歌詞の意味内容に共感しているというわけではないはずである。要するにみんなで集って騒ぎたいという本能?の発散である。 

 もちろん、そういうことは岡田氏も百も承知なのであるが、 なにしろ沢山のことを知っている人であるから、アドルノの第九批判とか、流浪の民としての音楽家とか様々な議論が動く。

 さらに音楽の専門家であるから、上部倍音の話とか、カタストロフの予言の曲として「春の祭典」とか、ヘリコプター弦楽四重奏とか一部好事家にか通じないような話が延々と続く。
わたくしにはヘリコプター弦楽四重奏などというのは「思いつき一発」というだけのもので、それ自体で価値があるものとは思えないのだが・・。

 後のほうにでてくるミニマル・ミュージックなどについての議論も、そもそもそれを好んで聴くひとがどれだけいるだろうと思う。一部のマニアックな人間だけではないかと思う。

 つまり「第九」という非常にポピュラーな音楽の議論がいつの間にかごくわずかの好事家しか知らない聴かない曲の話へと移ってしまうわけで、教養が邪魔をするというか、あまりに沢山のことを知りすぎていて、それがかえって骨太の議論をできなくさせているように思う。

 第一章 「社会にとって音楽とは何かー「聖と俗」の共生関係」。
 何だか「言語にとって美とは何か」を思わせるタイトルである。大袈裟すぎないだろうか? 
 近代市民社会は「文化」と「非文化」を峻別してきたが、本来、芸術と芸能は地続きであって、人々が肩をよせあて集うという「三密空間」での人々の営みをその基盤としているのであり、コロナ騒ぎは、その根底を問うものとなったということが論じられる。しかし、西洋古典音楽はその一方で、孤独な音楽という方向も育んできたはずで、すでに晩年のベートーベンの音楽にその明らかな萌芽がみられる。
 そして西洋音楽マニアというのはマニアになればなるほど、「非文化」に根をもつ「3密」の傾向の音楽より、孤独な音楽のほうへと向かう傾向があり(人々の音楽から自分個人の音楽へ)、そのことが一人で自分でピアノを弾く、あるいは仲間と合奏をする、あるいは部屋で一人録音された音楽をきくという音楽享受の方向をすすめてきた。それがグレン・グールドのような音楽家を生み出したのであろうと思う。
 ライブの音楽と放送されたものあるいは録音されたものを一人で聞くという二方向化の問題である。

 小説を読むという行為は一人でやるものである。みんなで集まって本を読むなどというのは本道からはずれている。今度のコロナ禍でも、小説や詩を読む行為はほとんど影響されていないはずであり、岡田氏が本書を執筆し出版し、わたくしがそれを読むことを阻害するものは何もない。

 第二章「音楽家の役割についてー聞こえない音を聴くということ」
 音楽とは世界の気配をいちはやく察知する「予感」に最大の機能があるということがいわれる。(炭鉱のカナリア
たとえばストラビンスキーの「春の祭典」が第一次世界大戦のカタストロフを予感したものであったといったことがいわれる。そういうことであれば、まず中期までのベートーベンの音楽は西欧市民社会の勃興を誰にでもわかるように明示したものである。
ここではウェーベルンの作品が示す第一次世界大戦の予感といったことが論じられるが、そもそも今日、ウェーベルンの音楽がどのくらい演奏され、どのくらいのひとに聴かれるのだろうか? これはクラシック音楽好事家のための音楽である。こういう話題が一般書にでてくるところが知識人としての岡田氏の持つ問題を示しているのだろうと思う。

 第三章 音楽の「適正距離」 メディアの発達と「録楽」
 音楽には「ライブ音楽」と「録楽」という全く違う別々の二種類の音楽がある。録音された音楽は音楽ではないという主張が紹介される。そしてジャズの即興演奏などが論じられのだが、ジャズの即興演奏もまた録音されるので、いまひとつ論旨がはっきりしない。

 《間奏》 非常時下の音楽 ― 第一次世界大戦の場合
 第一次大戦勃発当初、闘いにはなんの役にもたたないものと音楽はみなされたが、戦争が長引くにつれ、戦意高揚、あるいは単にひとびとを慰めるものとしても不可欠なものとされるようになっていたことが述べられる。
これは今後、コロナ禍が長期化したときに予想される事態ではないかと岡田氏はしている(但し、3密を避けるという問題はある。

 第4章 《第九》のリミット ― 凱歌の時間図式
第九(あるいは第五)の音楽様式は暗がりから光の世界へという近代市民社会のヴィジョンそのものである。それがコロナ禍によって自明のものではなくなってきている。とすれば、われわれは近代とはなんであったかを再検討することがせまられていることになる。われわれの世界が右肩上がりでよくなっていくというヴィジョンそこが第九(第五)が示しているものである。今、その自明性に再検討が迫られている。実はベートーベンは晩年のピアノ・ソナタなどですでに自分でそれをおこなっているのだが・・。
 ここで岡田氏の話はショスタコーヴィッチにうつる。
 わたくしはショスタコーヴィッチについて、スターリン体制下で生きたことは彼自身にとっては大変な不幸であったと思うが、もしその体制の強制がなく自由に音楽をつくれたとしたら非常に才気煥発な前衛音楽家でおわったのではないかと思っている。体制との軋轢があったからこそ、今のわれわれが知るショスタコーヴィッチの音楽が残ったのであり、作曲家が何をしているかについて権力の側がまったく関心をもたなかったであろう状況下で生きた西側の作曲家より(それで結局ある時期の西側の作曲家は今日のわれわれが聴くに値する作品をほとんど残していない。
 単に作曲家としての才能がベートーベンより劣るとしてもショスタコーヴィッチは同時代の作曲家よりも十全に自分の才能を発揮することができたのではないかと思う。
 ここで岡田氏はフルトヴェングラーの第九演奏に言及して特にその第3楽章を賞賛し、第九は公共圏に訴える要素ばかりではなく親密圏にもまた訴える要素をもっているからこそ傑作なのだという。(ショスタコーヴィッチの音楽は一見公共圏に訴えるものでありながら、実際にはほとんど親密圏への訴えでできているように思うのはわたしだけなのだろうか? だからこそ今でも演奏され聴かれるのではないだろうか?

 第5章 音楽が終わるとき ― 時間モデルの諸類系
 われわれがいまだに右肩上がりの時間モデルから縁を切れないのは《音楽》に一つの原因があるのではないかと岡田氏はいう。
 それほど音楽に力があるのだろうかとわたくしは思う。

 第6章 新たな音楽を求めて ― 「ズレ」と向き合う
 ここで論じたれるのは、ラ・モンテ・ヤングとかリゲティとかアンドリーセンとかライリーとかほとんどリゲティ以外ほとんど聞いたことのない作曲家の話で、ベートーベンと対比させるのは根本的に無理があるのではないかと感じた。

 終章 場の更新 ― 音楽の原点を探して
 今のコンサートホールは教室の空間であるのでそれを更新しなければならないということがいわれる。しかしホールをもっとも必要としているのは19世紀につくられたクラシック音楽である。なかでもオケと合唱。

 岡田氏はあまりにたくさんのことを知りすぎているのだと思う。それで議論がどんどんと拡散していく。

 つまりいくら「第九」を批判してもフルトヴェングラー「第九」には感動してしまう人である。
 一方で西欧近代のいきづまりということも身をもって感じているわけで、大きな方向として今時、能天気に「第九」にナイーブに感動しているひとには違和感と禁じえない。しかし、本当の本物の音楽を近代批判の文脈の中で捨て去ってしなうのもしのびない。それで議論が揺れるのだろうと思う。
 第二次大戦後、前衛音楽といわれる大量の無機的音楽が作曲されたのは、大戦で音楽が戦意高揚に使われたことへの反省からであるといわれている。絶対にひとを感動させない音楽、その大部分はもうまったく残っていない。
 ある作曲科の学生がいっていた。「ブーレーズの曲は、楽譜をみたら本当に美しいんですよ。」 でも演奏したら? たぶんああいう音楽というのは頭できく音楽なのである。
 昔、昔、どこかでブーレーズの「主のない槌」の演奏をきいたことがある。みんな神妙な顔をしてきいていた。