西洋音楽の構造(1)

 最近、岡田暁生氏と片山杜秀氏の本「ごまかさないクラシック音楽」について少し論じたが、不思議なことにこの本ではソナタ形式とか、曲としてのソナタというものがあまり論じられてはいなかった。
 もうすでに論じつくされているということなのかもしれない。しかしわたくしは西洋音楽のもっとも西洋音楽らしい部分(理屈っぽい部分)はここに一番よく表れていると思うので、以下、自分の頭の整理のため少し書いてみたい。

 ソナタ形式とは、主題が二つあり(第一主題と第二主題)、典型的には第一主題が男性的な主題で主調、第二主題が女性的で属調短調の曲では並行長調)。
 その二つが提示部で示され、続く展開部では二つの主題は変形・展開され(と言葉で書いても理解不能だが)、再現部では二つの主題がともに主調で再現されて、最後にコーダがあっておわるといったものである。
 例として、ベートーベンのピアノ・ソナタ第一番(作品2の1)の第一楽章をみてみる。
 最初に8小節の第一主題。次に第一主題のはじめの2小節に基づく移行部があり、8小節でト長調に転調。その8小節目の2拍目から第二主題(4小節)となる。その後4小節で第二主題も確保され。その4小節目が第二主題の終わりであるとともに終結部の開始となって、4小節の終結部で提示部が終わる。
 第一主題8小節。移行部8小節。第二主題は移行部の最終小節を含め8小節。終結部が4小節。8+8+3+4+4=27小節が提示部。展開部が18小節。再現部&終結部21小節で第一楽章が構成される。
 さらに「悲愴ソナタ」などは提示部だけでも120小節以上。これは2/2拍子なので半分としても60小節以上で規模がはるかに大きい。
 しかしソナチネアルバム巻頭のクーラウのソナチネでは、第一主題8小節、移行部8小節、第二主題4小節、終結部8小節で28小節である。さらに4曲目の作品55の1では、第一主題8小節、移行部なしですぐに第二主題でそれが4小節、終結部8小節で計20小節で提示部が終わる。「悲愴ソナタ」の1/6である。
われわれはソナタ形式というと悲愴ソナタ・熱情ソナタ、あるいは「運命」「第九」といった」ものを思い浮かべるので、とんでもなく壮大な構造物の印象を持つが、可愛いクーラウのソナチネもまたソナタ形式でできている。
 しかし、ただソナタ形式でできているというだけであって、ソナタ形式の魅力であるかもしれない二つの主題間の対比・葛藤などはほとんど見られない。
 西洋音楽でのピアノ・ソナタあるいは弦楽器のソナタ、さらにはオーケストラのための交響曲や協奏曲というのはついには西洋以外では生まれなかった。
 「運命」を聴いて、東洋にはない唯一のものといったのは岡倉天心だったか?
 つまり音楽の中にある種の野蛮を持ち込んだのが「ソナタ形式」なのである。それを発明したのはハイドンであるとしても、まさかハイドンさん、ソナタ形式が将来こんなことになるとは思いもしなかったであろう。
 ソナタ形式とは音楽に持ち込まれた“夾雑物”である。しかしあるものが生命力をもつためには何らかの夾雑物がそこになければならない。
 その夾雑物を音楽に持ち込んだのがベートーベンという野蛮人で、「英雄」「運命」「第九」における、「葬送行進曲」(英雄)、第三楽章から最終楽章への移行とそれの第四楽章途中での再現(運命)。そしていうまでもなく第九での合唱の導入(音楽だけではいいたいことがいえなくなって言葉を持ち込む)。
 本章の結論。西洋音楽の肝はソナタ形式である。それは音楽に音楽以外の何かを持ち込むことを可能にし、西洋音楽世界の音楽とさせることに成功した。