許光俊 「クラシックを聴け! お気楽極楽入門書」

  [青弓社 1998年9月30日初版]


 お気楽極楽なんて副題がついているがとんでもない話で、生真面目深刻である。その深刻趣味が鼻につく人も多い本だだろうと思う。
 クラシック音楽は西欧文明のある時期に咲いた徒花のようなものであり、現在もうほとんど死に絶えつつものであるというのが主張の第一点であり、それにもかかわらず現在おこなわれているクラシック演奏の大部分は、そのような問題意識と現状認識を欠いているので、聴くのであれば、まだごくわずかには残っているクラシック音楽をなりたたせてきた根底を理解している演奏家のものを聴くべきであるというのが、もう一つの主張となっている。
 なぜ、クラシック音楽が滅びようとしているのか? それはクラシック音楽を支えていた環境や感性が滅びようとしているからである。だからクラシック音楽が滅びるのは必然であって、それを止めることはできない。
 19世紀は芸術が宗教のようになった時代である。あるいは逆に、われわれが芸術あるいは芸術家とよぶイメージが作られたのが19世紀である。それは神のかわりに個人が求められるようになったから。芸術家は人生の秘儀に通じる巫女であり、一般の生産消費社会の外側で、それとはまったく別の仕事に従事する人なのである。
 さて著者によれば、クラシックを理解するためには、チャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」、モツアルトのピアノソナタ第15番ハ長調、ベートーベンの「第九交響曲」をちゃんと聴けばいい。
 まず、チャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」。ここで聴くべきなのは、ある葛藤があって、それが解決するという構造であるという。
 そして、モツアルトのピアノソナタの第一楽章を例にとってソナタ形式を説明する。それが二元論を基にし、混沌から調和にいたることを基本とすることを示す。そして、この混沌から調和へというのがクラシック音楽の根幹、肝であるとする。
 さて、「第九」はハッピィエンドを目指す音楽である。これまたクラシック音楽の特徴である。もちろんその裏返しとしての悲劇的な終りというのもありえるのだが。モツアルトの《ある》音楽から、《なる》音楽へとベートーベンは音楽を変えた。さて、ベートーベンはハッピィエンドに導くために、第四楽章で、第三楽章までの音楽を言葉で否定するという反則をした。
 「第九」の「喜びの歌」は「聖書」の終末論を想起させないだろうか? 作曲家は神の真似事をしようとするミニ創造主なのではないだろうか?
 ベートーベンはヘーゲルと同じ時代に生きた。(ベートーベン 1770−1827、ヘーゲル 1770−1831) ソナタ形式弁証法なのである。
 そのベートーベンの強引なハッピィエンド導入にどうしてもついていけない作曲家がいた。シューベルトである。シューベルトは《変わる》音楽を書いた。静から動へ、動から静へ。それはは並列されたままで、調和には至らない。シューベルトは運命や宿命を克服できるとは思わなかったのである。二元論を信じられなかったのである。
 チャイコフスキーは第五交響曲で、最後で勝利にいたる曲を書いた。だがそれを嘘っぽく感じ、最後の「悲愴交響曲」では救済のない音楽を書いた。
 ワーグナーも二元論に憑かれた人だったが宗教劇にたどりつくことでそれを放棄しないですんだ。ブラームスは第一交響曲でベートーベンの真似事をしたが、その嘘を悟って第四交響曲の終楽章でソナタ形式を放棄した。
 マーラー交響曲もまたベートーベンの図式への様々な回答なのである。
 ただブルックナーのみがベートーベンの路線を信じることができた。それは彼が神を信じる信仰の人だったから。ブルックナーは宗教としてのクラシックを完成させるとともに、クラシック音楽を終焉させたのである。現在は理想なき時代、宗教なき時代である。その時代にクラシック音楽は必要とされるのだろうか?
 ハイドンやモツアルトの時代は芸術としての音楽ではなく、芸能・娯楽としての音楽であった。ベートーベンから芸術になったが、ヨーロッパの中で音楽が宗教の代用として果たす役割が終わったときに、クラシックは終わるのである。
 
 非常に論理的な展開であって、著者の最初の前提を受容すれば著者の結論は必然である。それは二元論、あるいは二元論から一元論への収斂、混沌から調和へという構造こそがクラシック音楽の根幹であるというものである。これが正しいとすれば、モツアルト以前の音楽、あるいはマーラーブルックナー以降の音楽はクラシック音楽の本当の力を示していないということになる。
 そういった弁証法的世界観を反映したものとしての音楽がクラシック音楽の非常の大きな柱であることは間違いない事実ではあるとしても、それ以外にもう一つ、西欧クラシック音楽を支えるものがある。それは和声学、対位法などといった、倍音などの音の物理構造から論理的に導かれる普遍性をもつ音の理論である。
 知的に構成されたものとしての音楽という側面である。なぜシェーンベルクなどが12音音楽という奇矯なものを発明したのかといえば、トリスタン和声以降、調性の感覚が危機に瀕しており、調性に基礎をおくソナタ形式も当然その存在基盤が危うくなってきている中で、知的な構成物としての音楽こそがドイツ音楽の真髄であるという信念から、ドイツ音楽の優位性をこれからも保っていくためにはどうしたらいいのかというということを、きわめて観念的に考えた結果としてであった。感性としての音楽などは音楽ではなく、本当の音楽とは知的な構成物でなければいけないと信じたのである。
 西欧クラシック音楽が作り上げた音の理論は現在世界を席捲している。巷に流れている音楽は和声学の支配下にある。その点でいえばクラシック音楽は滅びるどころか世界を支配している。そこにあるのは相変わらずの三度の音楽である。しかし、クラシック音楽の世界は長二度の音楽(ドビュッシーなど)から短二度の音楽(シェーンベルクなど)へと移っていった。そしてそれを誰も聴かなくなった。だから現在でもクラシックの演奏会は相変わらずバッハからマーラーまでであり、ウエーベルンなどが演奏されることはまずない。ショスタコーヴィッチは社会主義リアリズムという進化から隔離された場所があったからこそ生き残れた、生きた化石だったのかもしれない。
 本書を読んでいて何故か思い出したのが小林秀雄の「モオツァルト」である。それで、久しぶりにとりだして読み返してみた。散文の書き方としては禁じ手の連続の韜晦に充ちた文章で、何がいいたいのかよくわからない、あるいは何も言わないことを目指した文とすら思える奇怪な文章であったが、あえて言えば、浪漫主義の否定、古典主義への回帰、と同時に、モツアルトの中に様式に支えられた浪漫主義をも見出す、というものであろうか? ある目的のために書かれた音楽を否定し、過去からの音楽の伝統の様式に従って音楽を作っていると自ずと表れてしまう何か、自意識から積極的、意図的に作られる音楽ではなく、過去の様式の模倣の中で、出そうとしなくても出てしまう何か、そういうものをモツアルトの中に見ることをしているように思われた。許氏がこの本でいう「ある」音楽というのはそういうものであるのかもしれない。モツアルトでは、音楽は音楽として自足している。それとは異なり目的をもつ音楽、終着点を目指す音楽が「なる」音楽なのであり、ベートーベン以後の音楽はみなその路線を継承した。とすれば許氏のいっているのは、クラシック音楽の魅力とはほとんど浪漫主義の魅力に等しいということであり、小林秀雄とは正反対の主張であることになる。そして、浪漫主義が時代の精神ではなくなった時代においては、クラシック音楽もまた生命力を失うということなのであろうか?
 もう一つ思い出したのが吉田健一の「ヨオロツパの世紀末」である。これはヨーロッパの精髄は18世紀の優雅にあり、一見ヨーロッパを代表すると思われている19世紀は野暮と野蛮の堕落した時代であるというものである。その18世紀の優雅を示すのがモツアルトであり、19世紀の野蛮を代表するのがベートーベンである。芸術家が神を僭称するなどというのは野蛮のきわみである。そして、許氏がいっているのは、その野蛮こそが西欧クラシック音楽の力であり、その魅力と不可分であるということであろうか?
 結局、議論は一神教の強い吸引力とそれと不可分の野蛮というところに帰着するのかもしれない。許氏のいう二元論的音楽は明らかにキリスト教的世界観、あるいはその終末論を反映している。少なくとも、そういうものなしにマーラーの音楽とかブルックナーの音楽とかがありえないことは間違いない。
 昔、遊びで作曲の真似事をしていたことがある。自分では小林秀雄の「モツアルト」などに洗脳されていると信じていたので、古典的音楽を志向する人間であると思っていたのであるが、いざ作ろうとしてみると浪漫的音楽志向になってしまうのは、われながら意外であった。お手本としたのが、ショスタコーヴィッチ、エルガー、あるいはピストンとかハンソンとかいったアメリカの保守的作風の作曲家であって、なにしろハンソンの第二交響曲などはタイトルが「ロマンティック」である。自分で作ろうとするとそういう音楽を模倣したくなるのである。
 頭ではヨーロッパ18世紀の優雅とか19世紀自己表現の野蛮などとは思っていても、西欧浪漫主義の吸引力は強力なのである。だから許氏のいうことはよくわかる、というか許氏が推薦する何人かの指揮者の音楽が面白くて、最近は毎日そればかりを聴いていて、あまり本を読まなくなっているくらいである。チェリビダッケという強烈な毒がある指揮者の演奏が滅茶苦茶に面白い。チェリビダッケという人の中には浪漫主義への傾倒とそれへの批判精神が同居している感じで、非常に引き裂かれた人なのであるという気がする。一方だけという人はどうも面白みがないように思う。もう少し毒の少ないところではザンデルリンクという指揮者。この人はクラシック音楽というものを信じられている人なのではあろうと思うけれども、それが滅びの淵にあることもまたよくわかっているのであろうと思う。そういう点ではやはり引き裂かれた人なのであろうか? 小林秀雄ではないけでども、本物というのはいるのだなあと思う。本物はいいなあと思う。
 そして、チェリビダッケが指揮している曲では、よく練習しているためなのかオーケストラがよく調和し、実によく鳴る。豊かな響きの根底を支えるコントラバスのずーんという音を聴いているだけで、あゝ、いいなあとうっとりしてしまう。二元論も弁証法もなく、ただいいのである。クラシック音楽の魅力というのはこの響きでもあるのだとつくづく思う。べつにこの響きが自動的にソナタ形式に結びつくわけではないだろうから、この響きに魅力を感じるひとがいる限り、ソナタ形式が過去のものとなっても、クラシック音楽は(《古典芸能》の一つとしてかもしれないが)演奏され続けるのではないかという気もする。
 もう一つ、様式あるいは形式の問題がある。時間をある形の中に封じ込める様式として音楽というのは一番優れたものではないかという気がする。劇あるいは最近では映画もそういうものであるかとも思うが、音楽が一番純粋な時間芸術ではないかと思う。許氏もいうようにバッハの組曲あるいはモツアルトのピアノソナタといったものでは、全体を一つの構造として構成しようとする意思が弱く、それぞれの楽章が単独でも音楽として自立しうる傾向が強いけれども、それでも組曲あるいはソナタとしてまとまることにより、ある種の構成物となる。その全体があたえる様式感というのがクラシック音楽のもう一つの根幹であって、ソナタ形式をふくむソナタはその代表ではあるが、ソナタだけがクラシックの様式ではないように思う。
 許氏がいうような《混沌から調和へ》という様式が現代では信じられなくなっているのではなく、そもそも《始まりがあって終りがある》という様式そのものが現代においては信じられないものとなっているということが、クラシック音楽の危機の根底なのではないかと思う。かっちりとした構成感というもの自体が嘘っぽく思われるようになってしまっている。
 だからクラシック音楽を聴くということは、かつてはこういう様式感を信じることができた幸福な時代もあったという確認行為にもなってしまうのかもしれない。しかし、混沌の中に秩序を発見しようという意思は人間の根源に備わったものであるかもしれないし、ひょっとすると生物に固有の性質であるかもしれないので、クラシック音楽を聴くことでわれわれが感じる様式感は、われわれにとって何ほどかの生存価をもつのかもしれないという気もする。人間以外の動物はつねに現在にいるのだから、時間意識というのは人間に固有のものであるのかもしれない。チンパンジーは音楽を聴いて何かを感じるのであろうか?
 許氏のいうクラシック音楽フロベールなどが目指した完成品、構築物としての文学に対応するものなのかもしれない。フロベールは典型的な近代人である。ヴァレリーのいうような正確の魔に憑かれた人である。人の生の中で完璧であるもの完成したものにしか価値をみとめず、それ以外の生をダルであると感じる立場である。許氏の称揚するクラシック音楽にも明瞭にそういうものと通じる何かがある。でも近代は終わったんだよ、もう現代なんだよと吉田健一はいうのであるが。なぜなら戦争であれだけの人が死んだのだから。人間もまた動物に戻るしかないのだよ。動物はただ《ある》のだから、人間もまた《ある》しかないのだよ。人間が《なる》ことができるというような19世紀的な誇大妄想は捨てなくてはいけないのだよ、そう吉田健一はいった。しかし、それでも西欧19世紀というのは、現在でもまだ、とんでもなく魅力的であり続けてもいる。
 クラシック音楽と科学というものの中に西欧文明の秘密が隠されているのではないかという思いが昔からある。そのどちらもキリスト教の世界観とどこかでかかわっているはずで、その点を考える上でこの本は大変面白かった。たとえ、許氏が考えるクラシック音楽というものの幅が少し狭すぎるのではないかという気はするとはしても・・・。


(2006年4月1日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

クラシックを聴け!―お気楽極楽入門書

クラシックを聴け!―お気楽極楽入門書