内田樹 春日武彦 「健全な肉体に狂気は宿る −−生きづらさの正体

  [角川Oneテーマ21 2005年8月10日 初版]


 内田樹氏と精神科医である春日武彦氏の対談。内田氏の著書はここでもう何冊目であろうか? 春日氏の著書は前に「17歳の病」をとりあげたことがある。
 対談ではあるが、内田氏は実によくしゃべる人で、7〜8割は氏の発言であるような印象である。内田氏は理論の人、春日氏は実感の人であるので、二人の関心はほぼ同じ方向を向いているが、春日氏の感じていることを内田氏が言葉にしていくというような側面もある対談であるので、そういう感じがするだけであるのかもしれないけれども。
 まずこれを読んで、内田氏の考えを誤解していた点を修正。前に三砂ちづる氏の「オニババ化する女たち」をとりあげたとき、本の帯に内田樹氏が書いている宣伝文句を本気ではない冗談半分の推薦みたいに書いたけれども、本書を読むと内田氏が三砂氏の本を本気で推奨したらしいことがわかった。三砂氏は「女性の生き方の選択肢はできるだけたくさんあった方がいい」といっているのだと内田氏は言い、「「正しい」生き方よりも「ハッピーな」生き方を選ぶほうがいいよ、ということをいいたかったのだと思う」というのであるが、そうなのだろうか? 三砂氏があの本でいっていることは、女性は子どもを産むほうがハッピーであるということであって、子供を産むという選択肢を選ぶべきであるということであると思うので、選択肢がたくさんあるほうがいいのではないと思うのだが。三砂氏の論は渡部昇一氏がどこかでいっていた「機能快」という考えに近いもので、人にある機能が与えられたとしたらそれを使い切ることが幸せをもたらすというような考えである。女性には子供を産むという機能が与えられているのだから、その機能を使わないことは不幸であることになる。三砂氏にはどうも性に対する過剰な意味づけの気味がある。それはある意味では三砂氏と対立するフェミニズム陣営にもあるものであると思うのであるが。内田氏は、セックスのことを重要な問題だと思いすぎである現代の風潮を批判する(p68)。この点は男と女の永遠の対立点なのであろうか? そういう対立点を認めること自体がフェミニズム批判になってしまうのかもしれないが・・・。
 それでわき道はそれくらいにして、以下、本論。あまり対立点はないのでどちらの発言であるかは記載しない。
 今の30代女性は二階にのぼって梯子をはずされた状態で非常に気の毒であるが、それを世代の問題として解決しようとすることはもうやめなければならない。一人一人が自分自身の力と才覚で生き延びる手立てを考えるしかない。「私は私」で踏ん張るしかない。
 今の人間の発想の最大の問題は「自分はいつ死ぬかわからない」ということがまったく抜けてしまっている点にある。30歳の人間が80歳の自分を考えて生活設計をするなどというのは異常である。
 「自分がなにをしたいか」ではなく、「自分は他人のために何ができるの?」が大事。「誰が自分の支援を必要としているか?」という問いを己の内にもたないひとは社会的にはほとんど無用の人である。自分は承認されていて、自分はこの世界にいてもいい、この世界の構成要素なのだと思えることが大事。
 人間が精神的に健康でいられるためには、自分を客観的にみられること、中腰の姿勢で耐えられることなどとともに、秘密を持てるということがとても大事。秘密を持つということは、自分だけの世界を持つということでもある。二重底がなければいけない。その前提は、自分には自分のことがわからないということがあるのであるが。
 中腰ということはペンディングの状態に耐えられるということである。ちょっと待ってみるということができるということである。
 精神科にくる人は、大体がこだわりとプライドと被害者意識の三点セット。人間が最終的にこだわるのはプライドかもしれない。人は愛されなくても生きていけるが、敬されなければいきていけないのかもしれない。人間はあるつらい経験をした時に、それが深さや渋さにつながることもあり、逆に、自称トラウマや逆恨みにつながることもある。
 常識というものは地域限定、期間限定の一時的なもの。それだからこそ、原理にならずファナテックにならないという利点をもつ。常識は人を徹底批判したり、罵倒したり愚弄したりすることもない。
 服にお金をかける人は呪術的な思考をする人、服にこだわらないのは科学的な人。前者は文科系、後者は理科系。
 お寺は一種のアジールであった。

 この二人、ともに自分がマイノリティであることを自覚している。マジョリティである人間はマジョリティから離れなければ、それだけで生きていける。しかし、マイノリティはつねに自分の位置を確認し、まわりとの距離を測定し、身構えていなくてはいけない。しかし、いつもそんなことをしていては疲れるだけだから、実際には、一寸先は闇という覚悟だけはもって、普段はリラックスしているしかない。
 はじっこにいればいつでも逃げ出せるという利点があるのだそうであるが、通常はマジョリティの中にいたほうが安全である。
 「変人」であることを宣言してしまうというのは一つの有効なサバイバル戦略であるということではあるが、マジョリティの周辺にいて、普段はマジョリティの余禄にあずかり、いざとなったら三十六計逃げるが勝ちと、逃げ出すという内田氏の戦略はそううまく機能するであろうか。
 とはいうものの、考えてみれば、わたくしの生き方がそうなのかもしれないという気もする。
 マジョリティの周辺にいて、マジョリティの悪口をいい、おれは少数派だといいながら、マジョリティからしっかりといただくものだけはいただいて、しかもそのマジョリティは俺が批判しても崩壊はしないだろうという計算だけはしているというのが日本の知識人の普通の生き方であるのかもしれない。
 そうはいっても、「変人」が権力の頂点にいる時代になるとそういう知識人の生き方も変わってくるであろうか? 朝日新聞をみていると今迷いに迷っているように見えるが。朝日新聞も権力であり、マジョリティであるにもかかわらず、反権力を標榜してそれを不思議とも思っていないのが不思議である。
 わたくしがこのHPでとりあげる本の著者は、ほとんどがマイノリティを自覚している人であるという気がする。自分もまたマイノリティであることをよくわかっているから、そういう人たちに共鳴する部分があるからなのであろう。しかしマイノリティであるといっても、それがいいことであるとは全然思っているわけではない。おそらく、オタクとか引きこもりとかと通じる要素を多分にもちながらも、今のところは、たまたまかもしれにがそうなっていないだけである。それは、その部分については他人に共感をもとめようという志向がないからなのであろう。他人から求められているとは毛頭思っていない、わたくしだけの秘密としておけばいい部分であり、二重底の底の方である。他人とは、他人がわたくしを必要とする部分でかかわっていけばいい。
 他人が自分にもとめてくる部分が本来の自分ではないとか、偽りの自分であるとかは考えない。自分のことは自分ではわかないから、他人がわたくしをそうであると思っている部分もまたわたくしであると思っている。しかし、それがわたくしであるかどうかについては半信半疑でもあるから、それを本当の自分であると信じるようなこともない。
 それならば秘密の自分、二重底の底のほうが自分であると考えているのであろうか? それがよくわからない。しかし、外の自分が否定されても、秘密の自分を信じることができれば、事態のやり過ごしは容易であろうという気はする。二重の自分があったほうがプライドをまもりやすいことは確かであろう。自分が一つと思わなければそれにこだわることもないし、秘密の自分は他者とかかわらないのだから、それが被害にあうこともなく、被害者意識とも無縁である。
 20歳から30歳のころには、二つの自分がほぼ完全に分離していて、他人にむかっている自分は偽者、秘密の自分のほうが本物と思っていたように思うが、いつの間にか、外向きの自分と内向きの自分の間の壁に少しづつ交通ができてきた。それが社会生活をする意味であって、自分が自分で思っているようなものではない、あるいは自分で思っているような部分は社会からは必要とはされていないということがわかってくる。
 それが大人になるということなのであろうか? 通常いわれている大人になるということは、いわば秘密の自分から他人に必要とされるへの変換である。しかし、ここでいわれていることは、その両方を持てということである。片方しかもてない人は原理主義に陥ってしまう。両方をもっていれば、絶対に正しいという思い込みいたることがないから、常識というとりあえずの判定基準をも、無碍に否定はしない。
 わたくしが服装にほとんど興味がないのは、理科系であるということなのかもしれないが、秘密は外にでないほうがいいと思っているからかもしれない。本書によれば日本のフランス文学者などというのは一目でそれをわかる格好をしている人が多いのだそうであるが(白髪にロングヘア、口髭生やして、黒のシルクのシャツにグリーンのジャケットって本当だろうか)、それは損ではないのだろうか? それとも、そういう格好をしていたほうがフランス文学者社会では目立たなくて、地味なスーツを着ていたりするとあいつは変だといわれてしまうのだろうか?
 お寺にかわる現在のアジールは病院ではないかという気がするのであるが、その文脈で、内田氏は、病院の中では病人が社会的責任を免除されて無力化することに意味があると主張する。だから「患者さま」という最近のいいかたは間違いであるという。それとの関連でインフォームド・コンセントがいけないという。せっかく病院の中で責任をもたなくていい存在になったのに、自己責任で治療法を選べなどというのは著しく治療効果を損なうものであるという。春日氏はガンの告知にも反対である。わたくしも現在あまりにもガンの告知は安易に行われすぎているように思うけれども、それは措いておいて、内田氏のインフォームド・コンセント理解は誤解であると思う。日本において自分の治療法を患者側が決定するというようなインフォームド・コンセントはほとんどおこなわれていないだろうと思う。おこなわれているのは、十分な説明あるいは患者側からみて十分と思えるような説明をおこなったという儀式である。その儀式を通過しないと現在では患者側で医療者にまかせる形がとれないのである。医療者の側が何も聞くな!、こちらにまかせろ!、などといっては駄目なので、たとえ本当はよくわからない説明であってもくわしい説明をしてもらったという形をつくることで、自分は病院の中で一人の患者として正当に扱われていると思えるようになり、プライドをもっておまかせしますといえるようになるのである。
 もちろんどうでもいいような枝葉のことについては、患者側で決定してもらってもなんの不都合もない。またさまざまな重要な選択肢がありうる場面においては、医療者の側もどれがベストであるかということはわかるはずもない。わからないけれどもどれかをそれでも選択するということは、医療者が結果に責任をもつということである(もちろん責任などとれるはずもないけれども、結果については言い逃れをしない、あるいは結果についての患者側からの批判・非難は甘んじて受けるということである)。患者側が選択した場合には、どういうことがおきても患者側の責任ということは、医療者の側では、絶対にいっていけないことであり、たとえ患者側で選択したことであっても結果については医療者の責任というのが本来ではないかと思う(そうでなければ、医者という人間はいらず、ただ医療情報の詳細なデータベースさえあればいいことになる)。なにかあったときにその結果を自分一人でひきうけるというのは非常につらいことだから、結果について、誰か非難できる対象があるということは精神安定上、非常に大きな意味がある。医者というのはそのためのサンドバッグとして利用するためにいるのではないかと思うときもあるくらいである。自分がサンドバッグとなることで、誰かの精神安定が保てるとしたら、それも非常に大きな社会的な機能ではないかとも思う。
 昔だったら神様か仏様を恨むところなのかもしれないが、そういうものを信じられなくなっている今、自分と対等の人間が判断違いをしたというのであれば、あまりに当たり前のことであって、恨むことさえできない。本来間違うはずがないという神話があって、はじめて恨むことができるようになる。最近では、to err is human であって、無謬神話はほぼ崩壊しつつあるから、間違うのが当たり前の人間が間違っただけという、誰にも非難をもっていきようのないことがおきただけになってしまう。
 今でも名医信仰がすたれないのは間違うはずがない医者がどこかにいるという幻想がないと、医療の場に最低必要な神話さえもが維持できなくなるからではないかという気がする。
 昔の湯治場などというのは典型的なアジールであったのだろう。そういうものが段々となくなっていくから、サプリメントをやまのようにのまないと安心できないという人が増えてくることになる。
 わたくしは今58歳であるが、もう明治の時代よりもはるかに長い年月を生きてきたのかと思うと感慨無量である。明治維新のときに明治末がどのような時代になるか予想できたひとはいなかったであろう。敗戦の時に昭和40年の日本を予想できたひとはいないであろう。ましてや現在の日本を予想できたひとなどいるはずはない。それなのに30歳の人間が80歳の自分が年金をもらえるかどうかを真剣に議論している。いったい50年後の世界がどうなっていると思っているのであろうか? そこに予想されているのも今と大して変わらない世界なのであろうか? 一寸先は闇というような考えは微塵もないのであろう。
 むしろ、世界が変わらないと思うから不安も生じるのであろう。世界が昨日と今日でめまぐるしく変わっているのであれば、50年後などを思いわずらう必要もなく、かえって安心できるのかしれない。変わらない世界がべたっとこれからも永遠に続いていくように思えてしまうが故に、不安にかられるのかもしれない。だから病気にかかることが予想外の天変地異のようにも思えてしまうのであろう。
 

(2006年4月1日ホームページよりhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/移植)