内田樹「街場の読書論」(2)フランスの知識人たちと本を読むひと

 
 「エクリチュールについて」という文で、内田氏はロラン・バルトについて論じている。もちろんわたくしはバルトを読んでいないと書いて、念のために本棚をみてみたらなんと「零度のエクリチュール」と「神話作用」の二冊があった。どちらもまったく読んだ形跡がない。前者が1982年の第13刷、後者が1984年の第10刷とあるから、そのころに買ったのであろうと思うが、何を考えて買ったのかはさっぱり思い出せない。わたくしが35歳ごろである。「神話作用」の訳者は篠沢秀夫氏であった。そのころはまだ篠沢氏の名前を知らなかったと思う。驚くのは、こういうどうみても売れるとは思えない本が13刷とか10刷とかとなっているということである。そのころのフランスの知識人たちが日本の思想界にもっていた威信なのであろう。なにしろわたくしのようなものでも(読まなくても)とにかく買い込んだのである。
 わたくしはバルトは読んでいないから、この「エクリチュールについて」という文で内田氏がバルトのものとして紹介している説の当否を判断することはできないが、それによるとエクリチュールというのは「社会的に規定された言葉の使い方」のことである。そういうものがあるということはいいであろう。バルトがいったとされているのは「ひとはエクリチュールを選べるが、一度それを選択すると今度はそのエクリチュールに縛られるようになる」ということである。これだけでは何のことかわからないが、たとえば「ちょい悪おやじのエクリチュール」を選ぶと、今度はそのエクリチュールにふさわしい服装やふるまい方、価値観や美意識がワンセットになってくるというようなことである。一番わかりやすいのは「やくざのエクリチュール」。さて内田氏によれば、このようなエクリチュールによる規制が強いのは階層社会の際だった特徴である。
 ここからが問題。『零度のエクリチュール』のような書物を読むのは、フランスの知識階級に限定されており、書いているバルト自身、自分の本の内容を理解できる読者をせいぜい5千人くらいと値踏みをして、この本を執筆したのではないかと内田氏はいう(フーコーは2千人程度の読者を想定して『言葉と物』を書いたとはっきり言っているのだそうである。あろうことか、この『言葉と物』も本棚にあった。1985年発行の16刷である。これまた読んだ形跡がないが、それでもどういうわけかこの本がベラスケスの『侍女たち』という絵を論じるところからはじまっていることは知っているのである。困ったものである)。
 さて、もしかりにエクリチュールのもたらす軛から抜け出すことができるひとがいるとすれば、それはそのようなエクリチュールが持つ恐ろしい力について理解することができるひとだけであろう。つまりバルトの本を読んでその意味がわかるようなひとである。そうするとバルトが想定したであろう5千人ほどの読者だけにそれが可能であることになる。それでいいのだろうか、というのが内田氏の問いである。「ロラン・バルトがほんとうに階層社会のラディカルな改革を望んでいたとしたら、彼は『零度のエクリチュール』を書くときに、あのような高踏的なエクリチュールを採用しなかったはずだからである」、そう内田氏はいう。
 さて、バルトは階層社会のラディカルは改革を望んでいたのだろうか? バルトを読んでいないわたくしには何もいう権利はないが、そんなことを望んでいたわけではなくて、自分あるいは自分の周囲の知識人たちがエクリチュールの魔から逃れて少しでも自由になれれること、それだけを考えていたのではないか、根拠なしにそう思う。本を読む人たちは読むことから生じる特有の不幸に陥りやすいのであり、その不幸からの脱出法を探っただけなのではないだろうか?
 「エクリチュールについて(承前)」というそれに続く文で、内田氏は今度はブルデューを論じている。ブルデューもまた読んでいないが、藤原書店からでている本などをみているとなんとなくどんなことを言っているひとかはわかるような気がする。「階層下位に位置づけられ、文化資本をもたない人には社会的上昇のチャンスがないように設計された社会」の構造をブルデューは解明したのだそうであるが、そのことを知ることができるのはブルデューの書くような難しい本を読める階層上位のひとだけであるというのはおかしいと内田氏はいう。
 内田氏は日本はまだフランスほどは階層社会になっていないという。そうであるならバルトやブルデューの優れた知見を知識人内でしか通用しないエクリチュールによってではなく、もっとリーダブルなかたちで多くのひとに提供する必要があるのだと内田氏はいう。
 内田氏は、そのようなリーダブルにフランス知識人たちの言説を伝道することを自分の使命としているのかなと思う(「寝ながら学べる構造主義」)。
 さらに続く「リーダビリティについて」で、その点について、「諸君が知らないことを教えよう」といった(新聞の論説のような)書き手が読み手の知性を自分よりも低いと想定して書かれている文章は、そこで用いられている語彙がいくら平明なものであっても、そこで読者への敬意がないことを読者はすぐに関知していまうので読者には届かないという。「「読者に対する敬意」というメタ・メッセージを感知できる読者に対してはテキストはつねに開かれている」というのだが、しかし「読者に対する敬意」を感じ取れる、あるいは文章が「書き手が読み手の知性を自分よりも低いと想定して書かれている」ことを敏感に感じ取れる読者というのは随分と高級な読者なのではないだろうか? 文章というはただそのままそこに書かれただけのものであって、裏には何もないと思っているひともまた多数存在するはずである。そうでなければ新聞の社説などというのが今日まで延々と書き継がれてきたことが説明できない。第一「メタ・・メッセージ」とか「テキストはつねに開かれている」というような表現を理解できるでろうひとは限られているはずである。これらはほとんど知識人のジャーゴンなのではないだろうか?(ジャーゴンという言葉もまた知識人のなかでのみ通用するジャーゴンなのかもしれないが・・)
 最初のほうの「食本鬼の哀しみ」という変なタイトルの文で、内田氏は自分は貧乏性なのであるということを言っている。なんのことはない活字中毒ということなのであるが、食事の時、トイレの中、電車の中、つねに本がないといてもたってもいられなくなると書いている。この手の話を初めて読んだのは養老孟司氏の初期の本のどこかで、氏が歩いているときでも風呂の中でも本を読むというようなことを書いているのを読んだ時である。二宮金次郎だって風呂のは中では読まなかったのではないだろうか?
 なんだそうまでして本を読むのだろうか? 何か問題があるから本を読むのである。「いま私たちが考えるべきこと」で橋本治氏は「個性とは傷である」ということを書いている。「「個性」とは、そもそも「哀しいもの」で、そんなにいいものではないのである。・・「個性」とは「一般性からはみ出したもの」だからだ。・・「個性の認定」は「ゆるし」なのである。「ゆるし」によって救われるものなのだから、個性とはそもそも、「傷」なのである。」 そういう。
 自分がなにか周囲とずれているという意識が、ひとに本を読むようにさせるのである。それは自分と同じように変なひとはたくさんいるのだと知って安心するためということもあるかもしれないし、自分が変になったことについては立派な理由があったのだと納得するためということもあるかもしれないが、それはともかくも自分と和解するためのものであり、自分をゆるすためのものなのはないだろうか?
 「階層社会のラディカルな改革を望む」などというのはどうも自分の問題が解決してしまったひとの話のようにきこえる。そのような指向がかりにあるとしても、それは階層社会の歪みが自分にもどのような歪みをもたらしているのかという方向からなのではないだろうか? 新聞の社説がつまらないのは、それを書いているひとが自分は世界の中の一番正しい位置にいるというようなことを信じ込める「一般性の真ん真ん中に自分はいる」と信じ込める「傷」のないひとだからなのではないだろうか?
 内田氏がレヴィナスに出会うことができたのも、氏がそれまでに抱えてきた膨大な問題や傷があったからこそなのであると思う。氏は一般性とはまったく縁のないところにいるはずのひとなのである。そうであれば、氏の抱える問題とか傷を共有していないひとにとっては内田氏の本は本来は無縁のものであるはずなのであるが、それでも売れて読まれてしまっている。それは何かの間違いであるとしかわたくしには思えないが、それでもどういうわけか売れている。それが内田氏の論を微妙に狂わせているのではないだろうか? 本来、内田氏の書いているような論はいくらリーダブルであっても、数万人の読者がせいぜいなのはないだろうか? あまり読者がいなかったころのほうが内田氏の本は読みでがあったような気がする。
 

街場の読書論

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零度のエクリチュール

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神話作用

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言葉と物―人文科学の考古学

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寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

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いま私たちが考えるべきこと

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