アメリカ南部

 現在、入院中なので、普段と違い、蔵書などを参照できない環境で書いている。それで、持ち込んだ本を読むしかない状況で、たまたま持ってきたピンカーの「人間の本性を考える 心は空白の石板か」(NHKブックス 2004年)を読んでいる。
以前読んだ時にはそれほど感じなかったのだが、いかにもインテリさんが書いた本である。この本は「人間の心は、遺伝的に決定される部分と文化的に決定される部分の複合である」ということを啓蒙しようとするものである。
 「そんなことは当たり前ではないか」と思うひとも多いかもしれないが、たとえば「男女の違いはもっぱら文化的に形成される」という考えは広く流布していて、親が子供の性別によって男の子はかくあるべし、女の子はかくあるべし、という思いで育てるから(女の子にはお人形さんを、男の子には玩具の機関車を!)現在普通にみられる男女の差が生まれるので、男女差といわれるものはもっぱら文化的な産物で、後天的に形成されるのであるという考えは広く流布しているのではないかと思う。
 あるいはこれは日本ではあまり受け入れないかもしれないが、「人間が今のようであるのは神様がそのように造ったからである」という考えは西欧ではまだまだ根強いのかもしれない。(アメリカでは「聖書の創世記を信じているものが76%いるそうである。」
 ピンカーさんはそれには明確に反対の立場なので、それで啓蒙のために本書を書いたのであろうが、何しろ最初からロック、ホッブス、ルソーである。あるいはデカルト、ライルである。
 本論の最初の10ページにそういう名前が次々に出てくるのだから、インテリさん以外はまず読み続ける意欲を失ってしまうだろうと思う。

 しかし、今回、考えてみたいのは、本書の最終第6章「種の声 五つの文学作品から」でとりあげられているマーク・トウェインの「ハックルベリ・フィンの冒険」についていわれる「『名誉の文化』が暴力を引き起こす」という部分である。ピンカーはこのトウェインの小説が「南北戦争前の南部の欠点と人間本性の欠点」を示しているのだという。
 特に「名誉の文化のなかに生まれる暴力」。それは名誉の心理から生じるもので、血縁者への忠誠、復讐の渇望、タフで勇敢だという評判を維持しようとする動因がひとまとめになった感情であり、これが増幅されやすい地域の一つがアメリカ南部である、という。
 昔、三島由紀夫の「第一の性」を読んでいたときに、《男は負けるものか、負けるものか》という原理で動いているということが動いているということが書いてあって、伊丹十三もまったく同じようなことを書いていた(「男たちよ! 女たちよ! 子供たちよ!」?)
 これをよく覚えているのは、「本当かなあ?」と思ったからで、自分はどうしてもそう思っているとは思えからである。谷沢永一「人間通」を読んだときにも同じことを感じた。「隣の蔵建ちゃ、儂腹が立つ」とか「隣の貧乏、密の味」とか、あの「紙つぶて」を書いた谷沢さんがこんなことを考えていたのかと驚いた。人間ってもう少し崇高なものではないかな、というような感じである。
 もっともわたくしは男性性が相当に乏しい人間だと思っているので、普通並みの男性度であれば、「負けるものか! 負けるものか!」というのが当然なのだろうか?
 ピンカーはこういう心理はヤノマモ族にもみられると書いているし、ゴリラなど様々な動物にもみられるとされている。しかし、アメリカ南部にも色濃くみられるという。

 今、こんなことを書いているのは、トランプ大統領の言動の背後に、また熱狂的なトランプ支持者の行動の背後に、この心理がみられるのではないかと思うからである。
 今、未読の「ハックルベリ―・・・」を取り寄せているので、読んだらまた感想を書くかもしれない。

人間通 (新潮選書)

人間通 (新潮選書)