A・O・ラヴジョイ「人間本性考」(1)

  名古屋大学出版会 1998年1月30日初版
  
  
 ピンカーの「人間の本性を考える」と似たタイトルであるが、ピンカーのものは日本語のタイトルとはことなり、原題は「The Blank Slate 」(空白の石版)である。ラヴジョイの本は「Reflections on Human Nature 」であり原題そのものである。
 ラヴジョイの本は「存在の大いなる連鎖」と「観念の歴史」と本書の3冊をもっているが通読したのは本書だけである。あとの二冊はぱらぱらと拾い読みをしただけになっている。ピンカーの本のタイトルから本書のことを思い出して、あらためて読み直してみた。
 ピンカーの本では人間の本性とは、人間には生まれつきある性向が備わっているということであり、人間の心は生まれたときは白紙であって、そこにいかようにでも書き込めるという「空白の石版」説に対抗するものとして使われている。ピンカーの議論は大半が「空白の石版」説は間違っていて科学的には認めがたいということ、しかし、それが間違っていて、人間には遺伝的に規定された本性があるとしても、それでもわれわれの自由意志といったものは損なわれるわけことはないという方向で展開される。
 ところが本書では人間に本性があることは自明の前提となっていて、その本性とはいかなるものであるかということが議論されてゆく。というか、「空白の石版」説などというのは、歴史の中でもごく特定の時期だけにみられる例外的な説であり、ほとんどの歴史においては、人間の本性の存在は議論以前に当然とされてしまっている。したがって議論されるのは、人間の本性はどのようなものか、俗な言い方でいえば、性は善か、悪かといったものである。それをヨーロッパ17世紀から18世紀の言説を中心にたどっていく。
 まず、第一講「自己省察する動物」。(本書は連続講演の記録である)
 人間の高慢さ(Pride )に人間の危険性を見る見方は過去の宗教的著作ではごく普通のものであった。したがってキリスト教をふくむ宗教は、人間に自分を劣ったものであると自覚させようとしてきた。神と比較すれば人間はまったくとるに足らないものなのであるから。人間は他の動物に較べても千倍も破壊的であり、自分の種族に対して攻撃的である、などとさまざまな著作でいわれた。もっともその原点である「人間は人間に対する狼である( homo homini lupus )」というのは紀元前2世紀の言葉であるが。
 過去の歴史においては人間は自分のことを劣ったものと見てきた。その例外がヴィクトリア時代という、人間の慢心の時代、人間のナルシス・コンプレックスの時代なのである。人間の「完全性」への信仰とその帰結である完璧な社会秩序への向けての連続的で急激な進歩への信仰は18世紀の後半からはじまり、19世紀の後半から20世紀の初頭10年までに(すなわちヴィクトリア朝に)頂点をむかえた。たしかにこの時代の西欧人は自己満足と自己過信に陥り、未来に希望をもつようになった。人間は本来的に善であるという信念もこの時代のものであった。神への信仰から人間への信仰へと移行がみられた。しかし、第一次世界大戦はそのような楽観をずたずたにした。ふたたび人間を劣ったものと見る時代へと戻っっていった。それにあずかって力があったものの一つがフロイト精神分析である。
 ヴィクトリア時代の前の17世紀から18世紀にかけての西欧では、人間は堕落した非合理なものであるとする見方が一般的であり、したがって風刺の黄金時代であった。とすれば、むしろ17世紀から18世紀ヨーロッパのほうが、われわれの時代に似ていることになる。
 したがって、理性の働きは非論理的であり、人は不合理な欲求に操られているという見方が最近のものであるという見解は誤解に基づくのである。人が理性ではなく感情に操られるという見方は少しも新しいものではない。ある行為をするのは感情に基づくのであり、それを何故したかという理屈はあとからつくという見かたはパスカルがすでに示している。「精神は常に心情に欺かれるものである」という言葉はラ・ロシュフーコーのものである。このように自己欺瞞が人類の不幸の源泉であるとした思想家は多い。しかし、その自己欺瞞の可能性は賢明な人においてより自覚されやすいことから、賢明な人ほど自己不信に陥りやすいことになるので、自己欺瞞を意識することもまた人をさらに不幸にするという見かたもあった。
 人間は非合理な動機で情念と虚栄心と私的利益によって行動しているにもかかわらず、自らの動機は合理的であると信じる救いがたい存在であるとされた。
 第二講「アメリカ合衆国憲法に見る人間本性論と平衡の方法」では、人間性をそのようなものであると理解した人びとが、人間は邪悪なものであるということを前提に、それでも理想的政治社会を築くにはどうしたらいいかを模索した結果として、アメリカ合衆国憲法ができたという見かたが示される。そのために模索されたのが平衡の方法、すなわち絶対的権力者をつくらせず、分断して競わせるというやり方である。しかしそれは外面的な方法である。もう一つ、合理的でない利己心が良き社会をつくりうるという人間の内面を重視する見かたも17世紀から18世紀にかけて見られた。ということで、以下、本書のメインテーマである17世紀から18世紀西欧での人間本性論に議論が移っていく。
 
 ここまで読んできて感じるのは、ピンカーらのものの見かたはヴィクトリア朝的な人間の完全性への信頼に繋がるものだろうかということである。「空白の石版」説は人間の無限の可能性というユートピア思想に由来するのであり、人間も進化の過程の制約をうけているのだからそれは間違いであるとピンカーはしている以上、人間の完全性などという見かたとは対立することは明らかであるのだけれども、それにもかかわらず、理性への信頼、科学への信頼というものがその議論の絶対的な根幹になっているように見えるからである。
 人間の不完全性ということの“証明”が科学によって、つまり理性によってなされるという構造にはどこか根本的な矛盾があるのではだろうか? これはゲーデル不完全性定理の証明などとは話が違う。わたくしがピンカーとかデネットの議論にどこかでひっかかるのは、理性への過度に楽天的な信頼がそこにあるように見えるからである。
 これからも人は、科学からみると明らかに間違っていることをやり続けていくだろうと思う。それは人間は進化の過程での継ぎはぎにつく継ぎはぎ、間に合わせにつぐ間に合わせでなんとかやってきているきわめて不完全な存在だからである。そしてその歴史の中で人間を駆動してきたのは理性ではなくて感情であったのだろうから。
 しかし、それについては第3講以下を見ていくときに、あらためて検討することとしたい。
 ラヴジョイはわれわれの時代はまた性悪説、人間邪悪説に戻っているというのだが、ピンカーの本では、現代のものの見方、人間本性の見方の大勢は、まだヴィクトリア朝のものをひきずっているように描かれている。第一次世界大戦でこりたのは思想の側にいる人たちだけで、大部分の人にとっては相変わらず、人間の慢心の時代、人間のナルシス・コンプレックスの時代が続いているのだろうか?
 ヒトラーというトラウマを除けば、西欧の人間にとっては第一次世界大戦のほうが今次大戦よりもはるかに人間性への信頼を失わせる出来事であったであろうと思うが、日本人は太平洋戦争でも人間への信頼を失わなかったのだろうか? 相変わらず慢心の時代が続いているのだろうか? それとも慢心は知識人の間でだけ大勢であるのであって、多数のひとは(昔から?)性悪説の信者なのだろうか?
 もし、そうだとしたら、科学は知識人の慢心を矯正する力をいささかでも持っているのだろうか? それとも、あのような戦争を経験しても相変わらず人間への信頼を失わない愚かな知識人たちが、今後もさまざまな空論を続けていくしかないのだろうか? あの戦争を経て、われわれは近代を卒業し、現代に生きることになったと吉田健一はいうのだが。
 

人間本性考

人間本性考