A・O・ラヴジョイ「人間本性考」(2)


 第3講「自己意識と欲望」
 この章は、17・18世紀に限定せず、「情念論」についての一般的な検討を意図したものである。
 どのような情感的な状態が、人間の特有な行動のバネとして働くのか? また、欲望とか動機とか呼ばれているものの本性は?
 事物の状態を想起したときに、快を感じるか、不快を感じるかが、同意・満足・歓迎・拒否を決めるという見かたがある。J・S・ミルは「ある事物を欲することと、それを快楽であると看做すことは、同じ事実を違う言葉で言っているだけである」とした。
 ここで問題になるのは、想起は未来に関するのに対して、快・不快は今おきている感覚であるということである。もっといえば、あるものを欲しいとかあることを成し遂げたいという欲望と、ある行為においてあるものでありたいという欲望は根本的に異なっているということである。前者を目標的価値、後者を随伴的価値と呼ぶ。行為の目的に対する欲望と、行為者としてどのようでありたいかということは、関連はしているが独立したものである。
 前者は主観的自己( I )がおこなうのに対して、後者は人から見られる自己( Me )にかかわる問題である。人間の行動は前者だけによってドライヴされるのではなく、後者によって大きな制約をうける点が肝要である。自分はそれをしたいが、それをしたらひとはどう思うだろうか、ということである。
 人間は自己意識を持っている。「私自身」という概念は「他者」とペアでなければ意味をなさない。そもそも自己という概念は対立するものとの衝突の中から形成されてくると考えられている。ヘーゲルは「精神現象学」で「自己意識は即自的かつ対自的に存在するが、それは他の自己意識に対して存在するということに於いて、またその事実によってそうなのである」と言っている。人間は他の人間も自分と同じ心をもっていることを推測するという、おそらく他の動物はもっていないだろう特別な性質を持っている。
 人間は、他者の思考や感情の対象として自分自身を考えることに欲望と快楽を感じるという特性をもつ。
 その関係において、1)承認願望、2)自己賞賛、3)優越することへの欲望−競争心、の3つが問題となる。
1)承認願望:
 a)他者に注目されたい、他者の注意や関心の対象でありたいという欲望。
 b)共感、友情、情愛、愛情など情緒的な態度への欲望。
 c)他人からのいい評判への欲望。
 この承認願望はまったく物理的作用としては説明できないという奇妙さを持つ。さらには生物学的に説明できるかも疑問である。
 どのような行為が賞賛され、感嘆されるのかは、文化により、時代により、また階級により異なる。だからどのような行為が賞賛されるのかまでは決定されていないとしても、賞賛されたい気持ちは普遍的なものであるとしたいとラヴジョイはいう。英雄的行為への賛嘆はどこにでもみられる感情である。
 誰かを賛嘆することにわれわれは喜びを感じる。しかし、他者を否認したり、貶めたりするときには、より大きい喜びを感じる。また他を承認するということは、承認するものに自負心や優越感をもたらすかもしれない。承認することも否認することも、仲間に判決を下すという要素がある。
 ギリシャ時代においては、自己承認への欲求は徳であると考えられていた。しかし、現代のわれわれは、自己の承認願望を顕にすることには否定的である。これはキリスト教道徳の影響が大きいであろう。
2)自己賞賛:
 自分自身をよく思いたいというのもまた人間に備わった性質である。それは必ずしも他者からの賞賛とは関わらない。極端な場合には、他人の評判を気にしないという自己認識は、自己賞賛に繋がる。ストア派の哲学などはその流れである。他人の評判を気にするということは、他人の思惑の奴隷になることでもある。そうではない自己充足こそが徳であるとしたのである。しかしまた、他人の評判を気にしないということは、あの人は他人の評判を気にしない人だ、という評判を勝ち取ろうとしているのではないかという疑念も生じる。
 自分は社会の規範に反していない人間であるという自己賞賛は、掟・慣行・慣習をまもらせる大きな動機になっているかもしれない。ある人の行動が道徳的であるとしても、それはその人がそうすることが正しいと信じているのではなく、そうすることによって正しい人であると思われるだろうと考えているからかもしれない。
 自己賞賛の欲望もまた、生物学には説明しにくい。人間以外の動物も意識的ではあるかもしれないが、自己意識的ではないという裂け目があるからである。
 人間は自己意識をもつがゆえに二つの人格をもつ。いわばa)動物としての私と、b)自分の行動を観察している傍観者としての私である。後者は人間以外の動物には存在していない。人間は役者と観客の両方を一人で演じている。
3)優越することへの欲望−競争心(これには劣っていることへの嫌悪もふくまれる):
 無抵抗主義者は、迫害者に対して優越感を感じていたはずである。かつてのインドでは侵略してくる粗野な西洋人に対して、軽蔑の念を感じていたであろう。禁酒している人は近所の飲兵衛に対する優越感を感じているであろう。団体精神の涵養もこれと深くかかわるであろう。
 しかし、競争心が有害な方向に働くことも多いことはいうまでもない。ホッブズは競争心について、よき人たらんとする競争という面にはほとんど関心をもたず、紛争をもたらすものとしてのみ理解していた。
 自己賞賛と競争心が最悪の形であらわることが多いのが、それらが集団化した場合である。特に国家対国家のショーヴィニズムである。集団型の自己賞賛が20世紀前半の人類の悲惨の原因となったことは衆知のことである。
 クラットン=ブロックは、「われわれは本能と欲求でよりも、虚栄心で動く」とした。わわわれは個人としては、他者からの否定を自身の向上に結びつけることもできる。しかし、国家においてはそのようなことは不可能に近い。
 ジョンソン博士は愛国主義は「ならず者の最後の逃げ場」といったが、むしろ愛国心はそうでないときにはならず者にならずにすんでいる人の内に潜んでいるならず者への傾向を、解放してしまうものなのである。
 クラットン=ブロックは、われわれの欲望が、近年、集団化しやすくなっているのは、労働が機械化し、労働自体がわれわれにとって達成感のないものになったからだとしている。しかし産業革命以前から集団化した自己賞賛はあったとラヴジョイはいう。それが大きな悲惨をもたらさなかったのは、単に兵器がそれほど破壊的なものではなかったからに過ぎないという。
 もし破壊への恐怖が問題であるのだとしたら、大国に従属すればいいことになる。(実際、B・ラッセルはそう主張した。核戦争を避けるためにはソ連に従属せよ!) しかし自尊心の問題で、この提案を受け入れるひとはほとんどいない。自分を臆病者とみなすことは、われわれに強い嫌悪感をもたらす。また自身の生きかたへの情緒的な愛着ということもある。さらには自分の生きかたは自分できめたいという自由への欲求もある。
 ラッセルの提案を受けいれるということは、われわれが自己意識的動物であることをやめるということであり、それはわれわれから心臓や肝臓を取り除くに等しい不可能な提言である。(以上、第3講)
 以下、第4講から最終の第8講まで。
 17・18世紀には、(賞賛や栄誉への欲望という意味での)「高慢さ」を人間において抑制することは不可能であることを指摘した文章で充ちあふれている。
 感覚と理性、肉体と精神の二元論ではなく、あらゆる動物に備わる(快楽への)欲求と人間に固有な(栄誉や賞賛さのへの愛という)「高慢さ」という欲望の二分法が一番現実を反映する。
 ルソーは動物は「高慢さ」から自由であり、未開人もそうであると考えた。未開人は自己意識を持たないと考えたのである。ルソーは未開人の実態については何もしらなかったので、人間は自己意識を持つ故に高慢になるとした。ルソーは差別化への願望が人間の愚行と悲惨の原因であると考えた。
 「高慢さ」は肉体に根ざす感覚ではない。これにより人間は他の動物よりも邪悪であるとする見解がでてきた。キリスト教は、行為の動機を重視するユダヤ教は知恵文学を継承した宗教、「内を見て外を見るな」という宗教であるので、「高慢さ」を罪悪であるとした。自己卑下こそが最高の徳なのである。しかし、自己卑下さえもが自己賞賛につながるメカニズムは前に述べた通りである。
 この人間の「高慢さ」を徳と結びつけることができるのではないかという見かたが16世紀ごろからでてきた。もっとも、キケロがすでに「聖人は、天性に導かれて、徳へと至る。他方、未熟な人々、また未だ悟りの境地に達していない人々は、善行の外観を備えている栄誉によって、しばしば動機づけられる」といっているが。このような「善」を上級の人と下級の人にわけて理解することは、中世においても一般的な見かたであった。
 キケロあるいはダンテは、承認願望は徳ではないが、下級の人を徳に導く力があると考えた。17・18世紀においては、あらゆる人間がおこなう社会行為は、承認願望によるという考えが一般的になってきた。人間に欠如した理性や徳にかわるものとして、神が善行へ導くものとして人に「高慢さ」を与えたとされるようになってきたのである。
 有名なマンディヴルの「蜂の寓話」は「私悪は公益」という逆説でA・スミスの前駆とされるが、以上の流れの中から出てきたものである。これはルソーが「高慢さ」を不道徳の源としたのと対照的である。
 この道徳を導く高慢さは、神が与えたものではなく、道徳観念のない動物からゆっくりと時間をかけて形成されてきたとされたとマンディヴルは考えたが、その根拠になったのは、子どもの成育過程であった。われわれは子どもをしつけるときに、高慢さを利用する。「お兄ちゃんだったら、こんなことでは泣かないよ!」
 マンディヴルの先をいって、理性には情念を抑制する力はまったくないとしたのがヒュームである。ヒュームは競争心を徳にかわるものと考えた。ヒュームは虚栄なしには徳を持つことはできないと考えた。
 アダム・スミスは「道徳感情論」で、承認願望の中でも、他者の賞賛を望む気持ちだけでなく、他者から否認と軽蔑をおそれる気持ちをもまた重視した。
 経済活動における高慢さに注目したのが「有閑階級の理論」のヴェブレンである。古典派経済学は、経済活動の目的を消費であるとしたが、ヴェブレンは評判であるとした。しかし、それはA・スミスがすでに論じていたことを洗練したものに過ぎない。
 幸福になる道は自分の欲望を少なくすることであるとしたストア派からみれば、高慢さはいうまでもなく否定されるべきものである。キリスト教をふくも反知性主義からも高慢さは当然否定される。ルソーもまた無知を幸福であるとした。しかし、そういった主張は印刷物の外ではなんの影響も持たなかったので、人びとの行動に影響をあたえることはほとんどなかった。
 パスカルのように、承認願望というのは、たとえどんな結果をわれわれにもたらすのであっても、間違っているとする立場もある。それは本質的に邪悪であり、美的でないとするのである。他人の意見など単なる思いつき以上のものではないのに、それに捉われるのは愚かである。第一、他人の意識の中の自分は本来の自分ではない。本来の自分を捨てて、他人の見る自分という幻影に生きることは、パスカルには許せないことに思えた。
 ヒュームにとって、道徳判断とは美的判断に近いものであった。ヒュームの提出した問題は、上で「随伴的価値」と呼んだものがそれ自体で他に還元できない価値なのだろうかということである。ヒュームは人間の承認や否認の感情は普遍的な感情であるとしているように思えるが、何が承認され何が否認されるかは文化に依存することを軽視していたように思える。ヒュームはどういうことにわれわれはよい感情をもち、どういうことに否定的であるかは普遍的であると考え、そこから私心のない観察者のようなものを抽出できると考えた。スミスは賞賛への愛ではなく、賞賛に値することへの愛を想定した。しかし、それはどうしても宗教的な何かに通じるように見える。
 
 昔、読んだ山本七平の本のどこかに、山本氏が誰か欧米人から「日本人は神を信じていないのに、どうして日本で犯罪が多発したりしないのだ?」ときかれて、日本的村社会、日本的共同体での相互監視体制のようなものでそれを説明していたところがあったような気がする。そんなことをすると村八分になるぞという規制である。
 本書で言われているのは、いい人であると思われたいということはほとんどいい人であるのと同値である、ということである。だからスタートは山本氏のいうような他人の目なのであるが、その他人の目が次第に内在化してくるというか他人からどのように見られたいかが、ほとんど自律的に働いてくるメカニズムが示される。それが道徳そのものと化していくわけである。
 山本七平氏の本を読んでいると、西欧人はどこにいても神様と直接対話している。誰がどう思おうとも、世界で一人になっても神が照覧してくれていると思っているというようなことを書いてあるが、本書で提示される人間本性論はそれとは違い、ずっと日本的である。
 承認願望とか優越願望とか言われると、どうしても思い出してしまうのが、F・フクヤマの「歴史の終わり」(三笠書房 1992年)である。これは歴史を動かしてきたのは、経済的なものではなく、(ヘーゲルのいうように)「認知を求める闘争(他者から認められようとする人間の努力)」だったと主張した本である。人間には対等願望だけでなく優越願望もあり、それを提供できるのは自由主義体制だけだというような主張の本であり、ソヴィエト崩壊と一致して刊行されたため、いろいろな意味で毀誉褒貶(圧倒的に批判の方が多かったかもしれない)のあった本である。
 ここでフクヤマは「最初の人間」ということをいう。すなわち「自然状態」での人間である。ホッブズやロックやルソーがいった自然状態の人間とは、歴史的事実ということではなく、民族とか宗教とか階級とかという属性をはぎとった人間を想像してみようという思考実験だったのだという。しかし、ヘーゲルは自然状態の人間という考えさえをも否定し、人間を自由で未決定なものとしたのだという。人間が進化の産物であることはまったく考慮されず、人間が当初(というのはいつのことなのだろうか?)から、「他の人間から必要とされ、認知されることを求める動物」であったとして議論をすすめていく(むかし、といっても10年前くらいだけれども、この本を読んだときには、こういう辺りを全然おかしいとは思わなかった。しかし、今読むととてもついていけない。これからはこういう無茶な議論というのは段々とできなくなっていくのだろうと思う。全般に今読むと、非常に荒っぽい議論の本である)。
 東欧世界崩壊後の自由世界とイスラム世界の対立の歴史を知っているものにとっては、フクヤマの主張は馬鹿らしいものと思える。しかしフクヤマがいいたかったのは、自由主義世界万歳ということではなく、原題である「歴史の終わりと最後の人間」の「最後の人間」の方にあったはずである。これはニーチェの「ツァラツストラ」でいう末人(手塚富雄訳)であり、超人の正反対の「欲望」と「理性」だけで生きる「気概」のない人間のことである。自由社会が勝利したなんていい気になっていると、これからそういう「最後の人間」ばかりの無気力な社会になっていくぞという警世の書として、フクヤマはこれを書いたのであろう。
 フクヤマの予言は外れて、世界には大きな対立が相変わらず続いているので、それが自由世界にそれなりの緊張を与えていることはあるのだろうと思う。フクヤマの理論での「気概」によれば、現在の中東の国々の人びとをどのように説明することになるのだろうか? 彼らもまた認知を求める闘争をしているのではないだろうか? おそらく東西対立に目を奪われて、中東の国々にはほとんど目がいっていなかったのであろう。
 フクヤマ自身が書いているように、「歴史の終わり」はヘーゲル、それもコジェーヴの「精神現象学講義」に依拠している。コジェーヴの「ヘーゲル読解入門 『精神現象学』を読む」(国文社 1987年)自体が「歴史の終わり」という視点をはっきりとうち出しており、フクヤマの本はそれを敷衍しただけのものなのだと思われるが、コジェーヴの本もフクヤマの本もとてもテンションの高い本で、「気概」のない人間への軽蔑が露骨に透けて見える。「ヘーゲル読解入門」は、日本を歴史が終わった、人間的な価値観を失って動物的にだけ生きている、骨のない末人ばかりの国として描いて(邦訳p246〜247あたり)、日本の知識人たちの間で自虐的な評判になったらしい。
 書き出しは以下のようなものである。

 人間とは自己意識である。人間は自己を意識し、人間としての自己の実在性と尊厳を意識している。この点においてこそ、人間は、単なる自己感情の域を超えぬ動物と本質的に異なっている。人間は「我」というときに−「初めて」−自己を意識する。したがって、人間をその「根源」によって把握するとは、言葉によって開示された自我の起源を把握することにほかならない。

 やれん、というような文章である。やっぱりヘーゲルというかドイツ哲学は苦手だなと思う(コジューヴはフランス語で書いたけれども、亡命ロシア人である)。いっていることはラヴジョイとそうは変わらないのだが、ヒュームやスミスを通していわれるとスムースに入ってくることでも、ヘーゲル経由だとごつごつして、飲み込めない。
 ここではっきり明示されているのは、人間と人間以外の動物はまったく違うということである。その点についてはラヴジョイも同じなのだけれども、精神というのか心というのかについての見かた、スタンスが全然違うわけである。一方では、人間は精神をもつが故に崇高な(少なくとも崇高になりうる)動物であるし、もう一方では、人間は心をもつことにはなったが、そのために反ってとても問題の多い(みかたによっては悲惨きわまりない)動物であることになったことになる。
 そして、そういう問題の多い動物でも、その問題点をうまく利用すればそれなりの社会がつくれるというのがヒュームやスミスの見解ということになる。しかし、それなりの社会は、ニーチェにとってはもちろん、ヘーゲルやコジューヴやフクヤマにとっては生きるに値しないものふやけたものなのであろう。
 さて、ピンカーは「空白の石版」を否定して、人間には本性があるという。ラヴジョイはその本性とは「高慢さ」であるという。これは文化的なものではなくて本性である(何について高慢になるかは文化に依存するとしても、高慢であることを欲望するのは人間の本性であるとされる)。
 であるなら、「高慢さ」は狩猟採集時代に適応的であったのだろうか? その当時、群れから排除されることは死を意味しただろうから、認知されることへの欲求は理解できる。それが農耕時代になって高慢さへと「文化的に」進化したのだろうか?
 あるいは認知への欲求は配偶者を求める闘いにかかわるのだろうか? 他の動物であれば羽を奇麗にしたりするところが、人間の場合は“見栄”となったのだろうか?
 いくら他人からよく思われても、子孫を残さない戦略は淘汰されて残らないはずである。どうも「高慢さ」などというのが進化心理学的にうまく説明できるようには思えない。さりとて、これが文化で規定されているとも思えない。人間にもっとも根深い感情であるとは思うのだが・・・。
 われわれが他人に心があることがわかるということは「心の理論」といわれているらしい。これが人間以外にもあるのかという点には議論があるらしいが(プレマックらid:jmiyaza:20060321)、チンパンジーにはその能力があるともされているようである。しかし多分、サルが「高慢」になり他者(他サル?)が自分をどう思っているかを気にかけるというようなことはなさそうである。
 自己意識がどういうものであるのかは、脳科学での最先端の話題であり、本当はそんなものは無いのだよというのが、すでに通説になっているのかもしれないが、怒っているとき、幸せであるとき、誇りに思うとき、脳の中で何がおきているかは事実上接近不可能であり知ることができないので、われわれにとってはそれは関係がないと、ラヴジョイはいう。われわれが幸せであるとき、fMRIでどこかが光ったとして、それは筋肉が収縮するときに横紋筋にどういう変化がおきるのかということと同じであるということである。
 胸が痛いのはなぜか? 胸膜に炎症がおきているから、という説明と、幸せなのはなぜか? 脳のこの部位が活性化しているからという説明が平行なものとはいえない。自己意識というようなものは嘘であるのだとしても、わたくしが幸せであることを感じるのと同じで、自分というものの存在を信じるという事態は、これからも変わらないはずである。
 ピンカーらの本を読むと、人間には本性があるが、共感能力もあるのだから、本性を認めたからといって道徳が崩壊するようなことはないという。しかし共感能力というのは奇麗な側面である。人間には高慢能力があるから道徳が崩壊することはないなどとはピンカーはいわない。
 高慢能力は道徳を崩壊させるほうにも、人類を滅亡させるほうにも行きうる極めて危険なものであるのであり、それでも、われわれがもし道徳や倫理というものを維持しようとするならば、そのようなはなはだ頼りないものを頼るしかないわけなのである。
 竹内靖雄氏の「経済思想の巨人たち」(新潮選書 1997年)の「ヒューム」の項に、

 ヒュームによれば人間は二種類に分かれる。物事を浅薄にしか考えられないために真理に到達できない人、もう一つは物事を深淵に考えすぎて真理を通り越してしまう人である。

 とある。
 竹内氏はもちろん、ヒュームやスミスが中庸を得て、真理を外さなかったひとなのであり、マルクスは考えすぎて通りこしてしまった人であるといいたいのである。
 脳の研究の一部というのは深淵に考えすぎて、もう真理をとっくに通り越してしまっているということはないのだろうか? あるいは真理とは全然関係ない穴を一生懸命掘っているというようなことはないのだろうか?


人間本性考

人間本性考