橋本治「失楽園の向こう側」 

  小学館文庫 2006年4月1日初版
  
 コミック誌ビッグコミックスペリオール」に2000年3月から2003年3月まで連載されたコラムを抜粋再構成した文庫オリジナル作品ということらしい。「貧乏は正しい!」も「ヤングサンデー」というコミック誌に連載されたわけだし、コミックを一切読まないわたくしの知らないところで橋本治はいろいろと書いているわけである。
 バブル崩壊後の日本を論じたものである。まず、引用から。

 「誰もで守れるようなルール」は、そんなにめんどうくさいルールではない。では、なぜそんなルールがあるのか? 人間が、そんなに大したものではないからである。(p333)

 そして、

 「失楽園の向う」にあるものは、「なんでそんなにも特別にいいことがあるなんて思っていたのさ?」という、いたって当たり前の当たり前なのである。「ひどいことばっかり続くから、目の前が真っ暗になる。この先に希望はないのか・・」なんていう考え方をする人は、もしかしたら、「特別なこと」ばかりを求め続ける欲張りかもしれない−そういう考えだってあるのである。(p334)

 後でも述べるように、「失楽園の向う」とはバブル崩壊後の日本なのだが、ここでいわれていることは、アダム・スミスなのではないだろうか! ユートピアなどはないということである。橋本氏によれば、バブルの時に日本人は「ついにユートピアに到達した!」と思った。なぜそう思ってしまったのかといえば、ユートピアというものが実現できると思っていたからである。特別にいいことがこの世で実現できると思っていたからである。でも、この世に特別なことなんてないんだよ、だからわれわれは地道に働くしかないんだよ、というのが橋本氏の身も蓋もない本書での主張である。本当に身も蓋もない。「この門に入る者一切の望みを捨てよ」(ダンテ「神曲・地獄篇」)である。
 ところで吉田健一が18世紀ヨーロッパについて、こんなことを言っている。

 十八世紀のヨオロツパの場合は状況が多少違ってゐて中世期の狂信とも言えるものの後に来てこの時代に始めて人間の理性で考え得ることと考え得ないことの区別、或は対立が明確に認められて考え得ないことに就て所謂、希望的観測をすることの無意味が実感になつた。(中略)併しその考へ方が何を教へるものであるか、それが倦怠と忍従と諦念といふ人間が地上で長い歴史を過して来て得た智慧であることを思ふ時に清新といふことが意味を失ふ。(吉田健一「ヨオロツパの人間」新潮社1973年)

 吉田健一は18〜19世紀のヨーロッパ、橋本治は20〜21世紀の日本を論じるのであるが、どこかそこには共通するものがある。
 20世紀には、人間は特別であるという思想が世を覆った。それが21世紀に入って崩れてきているのだと橋本氏はいう。橋本氏が20世紀の異常というところを、吉田健一なら19世紀の異常というであろう。
 なにしろ吉田健一は19世紀末を18世紀ヨーロッパの復活であるとし、二つの大戦で人が多量に死んだことにより近代は終わり現代となるという見方をするのに対して、橋本氏は20世紀の異常が今まさに終わろうとしているというのであるから、二人のタイムスパンのとりかたはまったく異なっている。それでも両者が似ているのは、一時的な思い上がりによる異常が正され、平常の当たり前の人間が帰ってくるという視点である。その当たり前の人間というのは、何だかぱっとしない冴えない像ではあるのだけれども。

 貴方は幸福になることを諦めたとおつしやいます。・・・そのやうな望みを今まで持つてお出でになつたことの方が不思議ではありませんか。凡ての人間の経験は気違ひでない限り人間が平静の状態にしか達することが出来ないことを教えてくれます。(吉田健一「ヨオロツパの人間」に引用されているデツファン夫人へのホレス・ワルポオルの手紙の一部)

 われわれが幸福になれるという希望自体が間違いであるというのである。
 さて、「失楽園の向こう側」の楽園とは、上にも述べたようにバブル時代である。そうなら、失楽園とはいうまでもなくバブルの崩壊ということになる。バブルは崩壊し楽園は消えたけれども、多くの人がまだバブル時代の「ここは楽園だ」という意識から自由になっていない、それが問題だという。みんな年金がもらえて当たり前と思っているのも、バブル時代の意識が消えないのである。その意識に応えなくはいけないので、失われた楽園がまだどこかにある、あるいは将来にはまた楽園に戻れるという幻想を、われわれは捨てられない。

 世の多くの人達は、「どうすれば不況を打開できるか?」と考えている。これは、「どうすれば不況を打開して、もう一度好況に至り着くくとが出来るか?」である。私がそういう考えをしないのは、「もう好況というものは来ない」と思っているからである。
 「好況」というのは、「二十世紀に特徴的だったある事態」で、それを可能にする二十世紀という特殊な時代は過ぎ去ってしまった‐‐だから、好況というものはもう来ない。(中略)つまるところ、「貧乏人には好景気も不景気もあまり関係ないのだから、みんな貧乏になってしまえ」というだけの話である。(p281)

 本当に身も蓋もない話である。またまた、われわれが幸福になれるという希望自体が間違いであるという話である。これが本当なら未来には何の展望もないというものがたくさん出てきそうである。将来が今よりもよくなるという展望がないならば、生きるに甲斐のない世の中ではないかということである。
 しかし、そんなことで自棄になるのは、俺は俺なりに生きていく!という覚悟がないということである、と橋本氏はいう(←ここら辺りは養老孟司風)。就職以外に選択肢がないという考えが人間を過つのである、ともいう(←ここら辺りは村上龍風)。
 それを即物的に言えば、

 日本が現在の禍を転じて福となす方法は一つしかないことがわかる。それは過去の贅沢の産物として身につけた社会主義という皮下脂肪をそぎ落とし、不良債権という腫瘍を切除し、世界最悪の財政赤字を治して、普通の市場経済、普通の資本主義という健康体に復することである。普通の資本主義の下では、・・・いやでもさまざまな格差が目立つ社会になる。・・・日本の「会社主義」も、「会社」に守られて生きてきた「サラリーマン」も、遠からず消滅する運命にある。・・・中流層も崩れ去ることになる。・・・日本の運命が個人の運命を決めるのではなくて、個人の運命は個人が決めなくてはならないのである」(竹内靖雄「衰亡の経済学」PHP 2002年)

 ということになる。竹内氏は、福となすといっているのであるから、氏はまだ幸福というものを信じているのかもしれないが、ここでも示唆されているように、みんなで幸福というようなことはありえないというである。格差社会は必至であるということである。だから、「貧乏人には好景気も不景気もあまり関係ないのだから、みんな貧乏になってしまえ」という究極の“平等主義”?に立つ橋本氏とは正反対であるのかもしれない。しかし、それでも似ている。
 竹内氏とは異なり、橋本氏は市場経済も普通の資本主義もまったく信用していないが、福祉にすがることを否定し(みんな貧乏になってしまえ)、村上(龍)氏のように会社や組織に頼らない生きかたをすすめ、養老氏のように個人として生きる覚悟をアジテートするのである。
 竹内氏によれば、人為によって社会を運営しようというのは、人間の能力に対する過信なのであって、その人為の極致にある社会主義は早晩崩壊する運命にあった。竹内氏は、ハイエクフリードマンらのシカゴ学派に連なる人である。シカゴ学派はヒューム、スミスに連なるということを渡部昇一氏がいっていた。ポパーもまたハイエクに連なる人であろう(「ハイエクは私の命をもう一度救ってくれた」(「果てしなき探求―知的自伝」))。
 ポパーもまた以下のようなことを言う。

 この態度(批判的にものごとを見るという態度・・引用者)に暗黙のうちに含まれているのは、われわれは永遠に不完全な社会に生きざるをえないであろうという認識である。そうであるわけは、(中略)解決しえない諸価値の衝突が常に存在する―道徳的諸原理がぶつかりあうので解決できない多くの道徳的問題が存在する―という事実である。
 紛争のない人間社会はありえない。そのような社会は友人の社会でなく、蟻の社会であろう。たとえそのような社会が達成できたとしても、その達成によって消滅させられてしまうであろうような最も重要な人間的諸価値が存在する。それゆえ、われわれはそのような社会をもたらそうとする企てを思い止まるべきである。他方、われわれは確かに紛争を減少させるべきである。こうして、すでにここでもう、われわれは価値または原理の衝突の実例にであう。(K・ポパー「果てしなき探求―知的自伝」(岩波現代選書 1978年)

 わたくしは間違いなく、ヒューム、スミス、ポパーの系列に親近感を感じる。シカゴ学派の経済理論が正しいのかどうかについては判断する能力をもたないけれども。
 それならば、吉田健一も橋本氏もまた、この系列につらなる人なのであろうか?
 吉田健一の不思議なところは、散々19世紀の悪口をいいながらも、それでも進歩というものを信じているように見えることである。伝染病で死ぬ人が少なくなるのはいいことであるし、洗濯機ができて主婦の労働が軽減されたのはいいことなのである。啓蒙主義者たる由縁である。
 橋本氏はどうなのだろう? 労働が人の手を離れて機械化することが不幸のはじまりのような疎外論みたいなことをいうのだから、あまり進歩といったものは信じていないのであろう。橋本氏のいうことが時にあまりにも原理論という印象を与えるのは、人間というのは怠けたがる楽をしたがる動物である、という現実から乖離しているように見える部分が感じられることがあるからである。橋本氏は刻苦勉励の人なのである。あるいは三島由紀夫流にいうならば、「道徳的マゾヒズム」?
 橋本氏のいうように「豊か=じっとしていて楽な状態」、働かないでも生きていける状態というのは、二十世紀のある時期の成長が作り出した達成不可能な幻想であるのかもしれない。しかし、かけなくてもいい手間は省けるならば省いたほうが人間的なのであり、そういう「楽な状態」がそのまま「豊か」ということではないとしても、それは求めるべきことなのである( human use of humanbeings )。そして20世紀はそういう“楽”あるいは“便利”を達成するために豊かさを追い求めたのである。現在は(橋本氏もいうように)かけなくてもいい手間を省くというような人間的な楽は、すでに達成されてしまった。しかし、人間は何かをするものだよ、と橋本氏はいう。機械によって得られた便利が生んだ時間で、あなたは何をしたいのか、と。
 何年か前、「構造改革」は、すでに時代に適応しなくなって不要になった部門から現在必要とされているが人が足りない部門への人の移動のために必要なのだといわれたことがあった。しかし、事実は古い産業で余った人を吸収する新しい産業はあらわれてこなかった。今でも、Human use of humanbeings を達成するための労働がおこなわれているところがある。そこでは、貧しさから脱却して便利を快楽を得るため、みな懸命に働いている。中国とかの日本の外にある国々である。そのため、日本ではつねに人があまるようになってしまった。だからこそ、日本では「貧乏人には好景気も不景気もあまり関係ないのだから、みんな貧乏になってしまえ」という主張になる。それは、究極の社会主義の主張であるのかもしれない。
 もう必要のなくなった、そしてもう戻ってくるはずのない「豊かさ」への欲求と飢えが消えるならば、われわれは現在の不幸からは脱出できることに原理的にはなる。しかし、これはほとんど、今の中国の賃金で働くならば、われわれもやっていけるということであって、「もっと豊かな生活を!」という高度成長からバブルに至る時代に植えつけられた心情をもつ人びとからは、とても容認されないものであろうことは、橋本氏も認めるのである。
 かつてはわれわれもともて貧しかった。それ故、豊かになり電化製品を買えるようになることは福音であった。

 一生のうちで最も忘れられない感動は、電気洗濯機を使ったときだった。(中略)私はあのときのことを思い出すと今でも血が騒ぐ。男に明治維新があるならば、女には電化という生活維新がある。(中略)
 月賦で買った洗濯機が届いた。ほんとうに感動してただ呆然と立ち尽くした。洗濯機の中をいつまでものぞきこみ、機械ががたがた廻りながら私の代わりに洗濯してくれるのを手を合わせて拝みたくなった。こんなぜいたくをしてお天道さまの罰があたらないかと、わが身をつねって飛び上がった。
 絞り機は手で廻すローラー式だった。これだって最初に考え出した人はノーベル賞級の天才だ。(中略)絞り機に御神酒上げたくなった。(重兼芳子「女の揺り椅子」講談社 1984年。吉川洋「高度成長 日本を変えた6000日」 読売新聞社 1997年 より引用)

 本当に欲求されるものがあり、その生産のために世の中が好況になるということは別に否定されなくてもいい。最後のそういう大きな需要が携帯電話であるといわれている。しかし、携帯電話に一生最大の感動を覚えて御神酒を上げる人はいない。まして携帯ストラップになんかには。

 「携帯電話のストラップ」をヒット商品だと言われて、あなたは目を剥きませんか? (橋本治「天使のウインク」中央公論社 2000年3月)

 「労働とは、他人の需要に応えることである」というのは橋本治の第一法則とでもいうようなものであるが、電気洗濯機は間違いなく「他人の需要」であったのである。しかし、携帯ストラップは?? 今の日本で「ヒット商品」と呼ばれるもののほとんどは、「オモチャに類するようなもの」、と氏はいう(「天使のウインク」)。
 橋本治がいうのは、われわれにはもう本当に欲しいものなどはなくなってしまったのであり、本当に欲しいものがあった20世紀はもう終わったのであり、これからは成長しない時代、好況のない時代に生きるという覚悟をしなければいけない、ということである。
 当然、それはどこかで禁欲主義につながる。それは氏も気にしていて、われわれにこれから必要とされる禁欲は「仕方なくて」の結果であり、「情けない」ことなのである、ということを強調している。それをカッコのいい美学にしてはいけなという。われわれは「能なしで不器用」なのであるから、禁欲が必要なのであるという。つまりわれわれ人間は大したことがない存在なので、それでいくしかない、ということである。
 ヒュームもスミスも人間の欲望を肯定する。シカゴ学派もまた然りである。それなら、禁欲をいう橋本氏は欲望を否定するのだろうか? それで氏は、性欲を論じることになる。今時、性欲ということをまともに論じられるのは橋本氏くらいであろうと思う。氏によれば、性欲は現状をつきやぶり未来を志向するものである。性欲は「世界が自分ひとりでは完結しない!」ということを教えるものなのである。「自分が世界でいちばん偉い!」ということを否定し、ひとに社会性を教えるものでもある。つまり、ここでは性欲とは《人間の他者とのつながりへの希求》の代名詞なのである。
 しかし、性欲とは橋本氏もいうように「無人島のど真ん中にエアコンのきいた寝室だけある」というような状況を求めるものでもあるかもしれない(渡辺淳一失楽園」の世界? 読んではいないけれど)。しかし、エアコンのきいた寝室には人生がないぜ、と氏はいう。「愛の中にあって人生に直面しないですんでいる」なんて態度は間違いだせ、という。「愛は高価なもの、人生は貧乏なもの」というガキの錯覚を打破せよ!という。
 橋本氏が何よりも重要とするのは人生であって、人生とは他人との関係である。だから、労働もまた金を得ることよりも他者との関係という視点から考察されることになる。
 しかし、人は他人との関係にだけ生きるのではない。氏もいうように、自分の知る人間の中で、誰よりも複雑で厄介な人間は「自分」なのだから、まず必要なのは自分のなだめ方を知ることである。「自分」というものを維持するには、かなりの「秘密」が必要とされる。「自分」というものは、けっこうくだらない満足を求めるものなのであり、それに時間を相当割かないと、「他人のため」を実践する「立派な自分」は生まれない。まず自分を大事にしなければいけない、と。しかし、「無人島のど真ん中にエアコンのきいた寝室だけある」というような状況は、他人との関係というよりも、自分を維持するための「秘密」の時間に属するようにも思われる。
 どうも、スミスもヒュームも第一に考えるのは自分であり、 independent な人間であること、恒産や不労所得があって稼がなくてもやっていける、働かずに暮せるだけの財産があること、その恒産が他から侵されることのない社会をつくることなのであるが、橋本氏が第一に考えるのは人生であり、他人との関係であり、自分というものを確立することが必要なのも、そうしないと他人との関係を取り結べないからであり、恒産や不労所得があって稼がなくてもやっていけるなどというのは、他人の需要とのかかわりが切れてしまうことなのである。スミスもヒュームも、自分のための欲望を肯定する。橋本氏は、他人との関係を構築するために、自分の欲望の制限を主張する。
 そういう主張を見てくると、唐突であるが、橋本氏はお酒を呑むひとなのかなあ、ということを思う。お酒を呑むひと、あるいは少なくともお酒を楽しむひとは、ちょっと違ったことをいうのではないかなあ、と思う。

 本当を言うと、酒飲みというものはいつまでも酒が飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどいうのは決して本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、というのが常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止っていればいいのである。庭の石が朝日を浴びているのを眺めて飲み、それが真昼の太陽に変って少し縁側から中に入って暑さを避け、やがて日がかげって庭が夕方の色の中に沈み、月が出て、再び縁側に戻って月に照らされた庭に向って飲み、そうこうしているうちに、盃を上げた拍子に空が白み掛っているのに気付き、又庭の石が朝日を浴びる時が来て、「夜になったり、朝になったり、忙しいもんだね、」と相手に言うのが、酒を飲むということであるのを酒飲みは皆忘れ兼ねている。(吉田健一「酒宴」)

 わたしは、こういう自分のなだめ方が好きだなあ、と思う。こういう自分のほうが本当の自分であって、社会にでている自分、他人とのかかわりの中の自分、「立派な自分」というのは役割を演じているだけではないかなあ、という気がする。
 自分がどういう存在であろうと、他人から必要とされるのはそれとは別の何かなのだから、その需要に応えることで自分は社会とかかわる。しかし、その役割というのは代替可能なものであって、絶対に自分でなければいけないということはない。
 一方、「愛」というのは、代替不能であり自分でなければいけないものなのではないかという錯覚あるいは妄想をひとにもたらす。だから人生より愛を選ぶひとがでてくる。それはわれわれの仕事が他人の需要がみえない巨大な組織の中でおこなわれるようになってしまったのがいけないので、本来は労働も代替不能なそのひとでなければいけないものなのだよ、と橋本氏はいうであろう。
 
 というようなことをぐだぐだと考えているのは、わたくし自身は、ヒューム、スミス派にシンパシーを感じているにもかかわらず、やっている仕事は医療という、もろに“社会主義”的発想に依存した場所であるということがあり、しかもそこが企業組織がつくった病院であるというということがあるからである。
 医者という素人からみても、今の企業の多くは何をつくったらいいのかよくわからなくなっているように見える。何かを作らねばと思っていても、何をつくったらいいのかが見えないみたいである。かって洗濯機、冷蔵庫、テレビが「三種の神器」などといわれていた時代には、何をつくるべきかははっりりしていた。橋本氏のいうように、企業は本当はもうものをつくらなくてもいいのかもしれない。しかし、小倉昌男氏によれば、企業の第一の目的は存続し続けることなのであるから、多分これは他人から需要されているであろうという希望的観測のもと、とにかく何かを作り続けることになる。
 病院は高度成長の金余り時代に福利厚生施設として採算度外視でつくられたものであるから、もともと需要についてのマーケティング・リサーチなどはしていない。他人の需要などはなから考慮していない。それで採算がとれない。もちろん、《みんな貧乏になってしまえばいい》のであれば、なんとかなるのかもしれないが(以前、素人計算してみたら、給料を6割にすれば採算がとれることになった)、そうしたら明日から職員はひとりもいなくなる。
 医療自体にしても、高度成長の時代は終わって、これからは好況はありえない世界で生きていくしかないのかもしれない。これは財政的なことを言っているのではなく、抗生物質というような「三種の神器」に相当するような明白な需要はこれからはなくて、携帯ストラップのような隙間産業的な部分のみが話題になるだろうということである。最近、メタボリックシンドロームの対象が中年男性の1/4、予備軍まで入れると1/2という記事がでていたが、一見健康な人の半分が病気などというのはどこかがおかしいのである。自分は健康で薬などいらないという人に携帯ストラップを売りつけようというのである。
 わたくしとしては、これからはきわめてローテクな部分、患者さんの話をよくきく、よく説明をする、余分な不安をとるといった部分に生きるしかないように思っているが、そういう部分はほとんど対価ゼロのようなものであるから、採算がとれるわけがない。ということでどうしようもない。しかし、《この世に特別なことなんてなどなく、われわれは地道に働くしかないのだ》とすれば、とにかくやっていくしかないわけである。
 医療の世界でも、医師会のトップなどのように、かっての高度成長期の夢が忘れられず、《われわれは地道に働くしかないんだ》ということに馴染めないひとたちもあるようである。まだ楽園の夢が捨てきれない人が少なくないのである。
 

失楽園の向こう側 (小学館文庫)

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