身内と余所者

 
 今のアメリカの騒擾を見ていると、わたくしのような団塊の世代には既視感があって、どうしても60年安保のことを思い出してしまう。その時にも、全学連を中心とした人たちは国会敷地内に入り込んだはずである(議事堂内にははいらなかった。入れなかった?)。その乱入をきっかけに、それまで学生たちの運動を心情的に応援しているようにみえたマスコミは掌を返すように「議会制度を守れ」などというようになった。

 もっと最近では68年の騒動である。学生たちは、線路に敷きつめられた石をとっては機動隊に投げていた。パリでも同じようなことがおこなわれていた。これまた、マスコミは心情的にそれを応援していた。

 両者の背景には《前衛》という思想、目覚めた少数者が世を動かしていくべきという考えがあった。(今でも、日本共産党の月刊の機関紙は「前衛」というタイトルであるはずである。)
 目覚めた学生・労働者たちは、地域のしがらみでいつも自民党に投票しているような意識の低いひとたちとは自分達は根本的に違い、深くものを考える人間なのだから、その自分達の考えや行動は当然尊重されるべきであるという思いがそこには存在してした。つまり、議会主義などというのは一向に尊重はされていなかった。

 わたくしの前半生というか2/3半生には、まだ共産主義国家というのが現実の国家として存在した。それが崩壊したのが1991年、今から約30年前である。その時には心底驚いたものである。あの軍事大国がこんなにも簡単に自壊するものだろうかと思った。自分が生きている間に地上からソヴィエト国家が消失することがあるなどとは想像さえしていなかったのである。

 いまだに中華人民共和国はあり、朝鮮民主主義人民共和国も存在し、中国共産党朝鮮労働党も存在する、しかし中華人民共和国朝鮮民主主義人民共和国がこれから日本の向かうべき方向であると考えているひとは、われわれのまわりにはまずいないように思われる。

 現在のアメリカをみると、アメリカは白人が建国した国であり、したがってこれからも白人が主導する国家であり続けなければいけないと確信している人間が非常に多数存在しているようにみえる。
 その人たちからみれば、今のアメリカの現状は根本的に間違っている、あるいは間違った方向に進もうとしているということになる。だから、その間違った方向が選挙で過半数の人間によって支持されたとしても、それが間違っていることには少しも変わりがないことになる。つまりそのような問題は根源的な問題であって、多数決などということで方向が決まるなどということはありえない。

 最近のコロナ騒動で問題になっているビジネス往来というのは実はその過半が技能研修生というような名前で呼ばれている日本の底辺の単純労働を支えている、主として東南アジアからの労働力に関することであるらしい。
 現在すでに低賃金で働く彼等の存在なしには日本の多くの産業現場あるいは農業の現場は回らなくなっているらしい。

 日本の少子化の急激な進行をみれば、これは今後それはますます急速に進行することは明白である。しかし、ほとんどの日本人はその問題から目を背けていて(たとえばビジネス往来などという美名)、正面から見ることをせず、議論しようともしない。

 むかし何かで上野千鶴子さんが、「日本は移民を受けいれるべきではない、日本人は移民への対応がきわめて苦手で稚拙であるから」といったようなことを言っているのをみて、あの上野さんがと意外に思ってことがある。

 現在は技能実習生というのは移民ではなく、ある期間日本にいてまた帰国している、しかし、そんなことでは追いつかなくなって、本格的に移民をうけいらなくてはならなくなった時、日本人はどのような態度をとるだろうか?

 すでにヨーロッパでは多くの国で、移民の労働力なしには経済がまわっていかなくなってきているらしい。

 日本がまだ遠い将来かもしれないが、移民をうけいれ、やがてそれが日本の人口の過半数をしめるようになったとき、日本人は一体、どのような反応を示すだろうか? 「日本人 ファースト!」というようなことを言い出すだろうか? その時点では、移民もまた日本人となっているはずなのだが、3代前まで日本人であった人間のみが本当の日本人! それ以外は日本人とは認めないとかいい出すのだろうか?(トランプ大統領の「アメリカ、ファースト!」というのを、多くの白人は「白人、ファースト!」ときいていると思う。)

 自分達が正しいと信じることほど恐ろしいことはない。
 かつては何が正しいかは《政治に関する理論》が決めると信じているひとがたくさんいて、それが数々の悲劇を生んできた。
 しかし最近では《思想》や《理論》の威力はめっきりと低下して、その代わりに《自分達》と《余所者》の峻別という、人間が農業を開始する以前の狩猟採集時代にすでにわれわれの遺伝子に組み込まれたと思われる行動原理が前面にでてきている。余所者が自動的に《砂かけ婆あ》(栗本慎一郎さんの用語)に見えてしまう、《自分達》と《あいつら》が峻別されてしまうという実に厄介な心理である。

 いままでわれわれは、18世紀の啓蒙思想に由来する西欧由来の価値観をなんとなく深く考えることもなく、正しいものとして受け入れてきた。たとえば、《民主主義》。
 それが問われようとしている。第一次世界大戦第二次世界大戦などの戦乱があるごとに、それはその命脈がたたれるのではないかと思われながらも、何故か現在までしぶとく生き残ってきた。
 だからわたくしも、今はいかに形勢が悪いようにみえても、それは生き残って、またいずれ思想のメイン・ストリートに戻ってくるだろうと思っている。それだけが人を人として遇することを可能にする唯一の行き方であると思うからである。
 しかし、啓蒙思想とは他者への寛容を説くものであるから、他者を否定することが主潮になっている時代においてはきわめて旗色が悪い。
 寛容は不寛容を寛容するか? というのは昔から延々と議論が続いている命題である。しかしながら、わたくしは不寛容と敢然とたたかうといった方面は生来苦手で、傍観者というのが自分の立ち位置であると思っている。
 できることは、ぼちぼちと感想を書いていくことくらいである。

 しかし、それにしても、今のアメリカでおきているような事態が、わたくしが生きている間に西欧世界でおきるとは、想像もしていなかった。
 人間というのは過去を解釈することは得意であっても、未来を予見することはいたって苦手な生き物であることを強く感じる。過去についての解釈はいくらでもできても、それは未来の予見には少しも結びつかないのである。