雑感2

 
 ネットで記事を見ていたら、ニューヨーク・タイムズが、米大統領選の結果を受けて、「選挙結果は劇的で予想外だった。トランプ氏が全く型破りだったため、我々メディアは彼に対する有権者の支持を過小評価したのか。なぜこのような結果となったのか」などといって「我々は新大統領に対し、公正な報道を続ける」などといったメッセージを公表したといったことがあった。そもそも言論というのはある立場からしかなされないものであるのだから、公正な報道などといったものはありえないわけで、われわれはトランプ氏に反対してきたが、今度の選挙結果を受けてもわれわれの見解はかわらない。今後もトランプ氏の言動につき問題と考える点については批判を継続していくつもりである、といった方向こそがまともな言論のありかたではないかと感じる。
 もしも問題があるとすれば、ニューヨーク・タイムズをふくむ言論が選挙結果に大きな影響をあえたることがなかったという点にあるはずで(もちろん、彼らの言論がなければトランプ氏がもっと大きく勝っていたという可能性は否定できないが)、何だか方向が違うという気がする。
 巷間伝えられていることでは、トランプ氏は主として貧しい白人の支持を得たのだそうであって、その貧しい白人たちからするとごく一部の成功した白人たちには自分たちの気持ちはわかるわけはないということになるらしい。そういう人たちからすると、ニューヨークタイムズで論陣をはっているひとたちなどは例外的な成功者であり、そもそも額に汗して働いていない口舌の徒であって信用できないひとたちということになるらしい。言論の人たちからすれば人種差別は悪であり、トランプ氏はその側のひとということになるのかもしれない。しかし移民に職を奪われている人たちからみれば言論人は綺麗ごとだけ言っているひとということになるのであろう。
 また伝えられるところではトランプ氏の勝因の大きなものに、オバマ・ケアの不評ということがあるらしい。働いていない怠けているひとたちを国が面倒をみるという方向が多くのひとには憤慨にたえないものと映るらしい。もちろん言論のひとはオバマ・ケアのような福祉の拡充の方向に反対するはずがない。
 日本には人種といった問題がほぼ無いに等しいので、余計、われわれからはアメリカの問題が見えなくなっているのかもしれない。だからトランプ氏の言動は知性のかけらもない粗野なものとしか見えないし、そういう人が当選したということに信じられない思いを禁じられない。そういう観点からすれば、われわれ日本人はほとんどがニューヨーク・タイムズの側の人間ということになる。
 それでは日本においてクリントン対トランプに匹敵するような対立点に相当するものは何なのだろうか? それは「国」と「個人」というものではないかと思う。今次大戦の前の日本においては、国の重みというものがあまりに大きかった。敗戦によって、国の重みはとても軽くなった。
 国の重さの象徴が戦争である。だとすれば、憲法第九条というのは国が軽くなったことの象徴である。国というのは国民が仕えるものではなく、国民に何かをしてくれるだけのものとなった。
 遠藤周作の「どっこいしょ」などは戦前の国の重さを描いたものである。丸谷才一の「笹まくら」もまた国家の重さを描いている。この両著において個人は国家に対抗する重さを持てていない。丸谷氏でいえば「たった一人の反乱」において個人は国家に対して「たった一人で反乱」をおこせる程度にはその存在を向上させた。
 明治における国の重さは国民国家を急造する要請から生じた。江戸においては藩はあっても国家はなかった。渡辺京二「逝きし世の面影」で描かれた人々が美しいのはかれらが小さな共同体で生きているからである。明治期以降の国民国家という大きな共同体の強引な建設で息がつまっていたひとたちは、敗戦によって頭の上にいつもあって自分たちを押さえていた国家の重さが消えたことに驚喜した。「瓦礫の中」には青空だけがあり、国家の姿は見えなかった。
 明治維新以降、重臣たちはひたすら国民国家造成の設計図を描いていったが、一方、知識人たちは西欧から個人という概念を輸入してきた。いくら歪んだものであっても私小説はその産物である。
 そして、敗戦により国家の重さが消えると、後にはただ個人だけが残った。そして個人を輸入してきた知識人たちが言論の世界での勝者となった。もちろん国民国家あるいは国家概念そのものを輸入した知識人たちもまたいたわけだが、敗戦とともに権威を失った。
 個人を超えるものは同時に国家を超えるものを目指したマルクス主義の思想に吸収されていったが、それも東欧の崩壊によって権威を失った。
 後には単に個人が残ったが、知識人による理念的な個人(市民?)と実際の日々生活する個人とに分裂した。今回の米国の大統領選挙は、後者が世界を規定していく流れが決定的となろうとしていることを示しているのだろうか? 吉本隆明がいっていた「大衆の原像」を繰り込まない思考は弱いことが露呈されてきたということなのだろうか?
 今、町山智浩氏の「さらば白人国家アメリカ」を読んでいるのだが、原像の大衆もまた碌なものであるようには思えない。この町山氏の本で面白かったのは、トランプという人はポリティカリィ・コレクトなどということは気にもしていないようであることであった。ニューヨーク・タイムズなどはポリティカリィ・コレクトの総本山であろう。今から思うとであるが、今度の都知事選はミニチュア版の今回の大統領選であったのかもしれない。多くの政治家たちが今トランプ氏の戦術を熱心に研究しているのではないだろうか? もちろん電通博報堂といったところはいうまでもないであろう。
 自分の感性としては吉行淳之介の「戦中少数派の発言」といった方向にもっとも近いと感じているわたくしとしては、群れること集団でいること自体がいやで一人でいることを好む性分であるから、政治の季節というのがとても苦手である。そして同時にがさつなもの無神経なものむきだしのものが嫌いなのであるから、トランプさんのようなひとは生理的に駄目である。しかしわたくしがいやであるからといってそれは時代の流れを変える力など一切持たないのであるから、しばらくはじっとしているしかないのであろう。

どっこいショ (講談社文庫 え 1-9)

どっこいショ (講談社文庫 え 1-9)

笹まくら (新潮文庫)

笹まくら (新潮文庫)

たった一人の反乱 (講談社文芸文庫)

たった一人の反乱 (講談社文芸文庫)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

さらば白人国家アメリカ

さらば白人国家アメリカ