S・ピンカー「人間の本性を考える 心は「空白の石版」か」(4)


 前に続いて id:jimyaza:20069426 ピンカーのいう5つのホットな問題のうちの4番目の問題である第17章「暴力」(ちなみに残りの一つは芸術なのだが、これはなにをいいたいのかよくわからない章なのでとりあげない)。
 西洋社会では過去千年の間に殺人の発生率は10分の1から100分の1程度まで減少した。しかしまだアメリカ男性の死因の 0.5%は殺人である。
 現代では暴力を生み出すのは無教育と差別と貧困と病気であることになっている。最近ではメディアの暴力シーンも問題にされる。あるいは個人主義がいけないというものもある。男性性の強調、マッチョの強調がいけないというものもある。
 しかし、これらにはほとんど何の根拠もないとピンカーはいう。たとえば、メデイアの暴力シーンの影響については関係ないとする研究の方が多い。かりに影響をうけるとしても一時的なものであって、永続的な影響は受けないとするものが多い。暴力的なコンピュータゲームがでまわる前の方がひとは暴力的だった。差別や貧困についても同様にはっきりとした関連を示す研究はない。
 どの文化でも男が男を殺す率は女が女を殺す率の20〜40倍である。その殺人者の大半は15歳から30歳までの男である。さらに若い男の一部が顕著に暴力的である。若い男の7%が79%の暴力犯罪にかかわる。暴力傾向にある人たちは識別可能である。それらは衝動的で、知能が低く、多動で、注意欠陥があり、反抗的気質を持つ。その究極がサイコパスである。
 進化から見てみよう。男が平均して女より大きいのは、進化の過程で、オスとオスがメスを争ったことを示す。
 人間が一番暴力的なのは赤ちゃんから小児の時代であるといわれている。2歳の子どもは叩いたり噛みついたり蹴ったりは普通である。かれらにナイフや銃を与えたら、殺し合いをするであろう。問題は、子どもがどのようにして攻撃をしないかを生育の過程で学んでいくかである。
 ホッブスは「リヴァイアサン」において、合理的で自己中心的な人間が集合するとどういうダイナミックスで暴力が生まれてくるかを分析した。彼は人間の本性の中に3つの不和の原因を見出した。競争・不信・栄誉である。
 ホップスの3因子を現代的に分析してみよう。
 1)競争:人間は自然淘汰の産物であるから、自分の生存と繁殖につながることならなんでもするはずである。国家成立以前の社会では、男たちが戦争を始めたのは、食べ物や土地を求めてというよりも、女を誘拐するため、あるいは過去において女を誘拐されたことへの報復としてである。彼らはそれを主な目的として他の村を襲っている。
 われわれはサイコパスでない限り、他者への共感という能力をもっている。しかし、ここでいう他者とは、しばしば同じ氏族や村のメンバーを指すのであり、その外のメンバーは共感の対象とはならない。
 大多数の兵士は戦場で銃の引き金を引けないという知識人の間での神話がある。しかし、彼らの多くはしばしば喜々として人を殺している。
 2)不信:ほとんどの哺乳類と異なり、ヒトのオスは性的に成熟してからも集団を離れない父方居住の傾向がある。そういう性質をもつチンパンジーやイルカもやはり攻撃的であることが知られている。民族集団というのはその拡大版である。
 ヒトは道具をつくる動物であるといわれるが、殺人の道具をつくる動物でもある。
 不信にともなう安全への懸念、とそれによる軍拡競争の典型が冷戦時代であった。
 3)名誉:1969年のエルサルバドルホンジュラスの戦争はサッカー試合のもめごとから始まった。法の力が及ばない社会はしばしば暴力的になる。「だれかにコケにされたら、落とし前をつけなくてはいけない」というのは暴力的な若者にだけ通じる論理ではなく、名誉の文化一般に通じることである。
 ホッブスは、これらに起因する暴力を抑制するために武力をもった権威者により裁定が必要と考えた。刑事裁判制度が存在することが、無政府状態にくらべて暴力抑制に絶大な効力をもつという点にかんしては議論の余地はない。これは西洋社会での殺人率の低下につながったのではないかと思われる。
 ホッブスが軽視したのは、その権力もまた人間がつくるという点であった。
 
 ピンカーは「心の「空白の石版」」説を批判するのであるから、暴力が文化によって誘発されるのであり本来人間は温和であり平和的であるという方向での説明を批判する。
 それで想起したのが、岡田尊司氏の「脳内汚染」(文藝春秋 2005年12月)である。鹿島茂さんが絶賛していたので買ってみたのだが、要するに子どもの暴力を誘発するものはテレビゲームである、という趣旨の本である(と思う。途中でやめてしまったので、確実なことはいえないが)。ここであげられているデータがそもそもピンカーのものと全然異なる。たとえば、ピンカーが神話であるとしている、兵士は戦場で容易に銃の引き金を引けないという説を本当の説として紹介し、それを克服するために兵士の訓練にテレビゲームのようなものを使っているというような話が紹介されている。どちらが本当なのか?
 テレビ・ゲームをやる人間はそれこそゴマンといるであろう中からコロバイン・ハイスクールのようなケースがでてくるのはごくわずかである、というようなことの説明がされておらず(要するにそういう事件をおこすのはサイコパスと呼ばれるような人たちなのではないかという疑念を否定できない)、そもそも因果関係が逆なのではないかという疑問もある(ある種のテレビゲームに熱中するとある種の性格になる、ではなくてある種の性格のヒトがある種のテレビゲームに熱中するではないか?)。そういうわけで岡田氏の本は学問的手続としては随分と杜撰な本であるが、こういう本が一部の人たちももてはやされるのも、「心の「空白の石版」」説の根強さを示している、とピンカーなら言うであろう。
 ヒトはその本性として暴力の性向をもっているが、なんらかの文化装置でそれを抑えている。その装置がなんらかの理由ではずれたときに暴力が剥き出しになるというのが事実に近いのではないかと思う。そして問題はその文化装置が及ぶ範囲、あるいは共感がおよぶ範囲である。
 進化の過程で、ある範囲には本性として共感がおよぶのかもしれない。それを文化装置で人為的に拡張しているのが現代であるが、その拡張は付け焼刃であり、本性に根ざすものではないので、いざという時にはあっけなく縮小してしまうのかもしれない。元気だったころの栗本慎一郎氏が「パンツをはいたサル」などでいっていた「砂かけババア(だったかな?)」説である。今、本棚を探したが見つからなかったのでうろ覚えであるが、人間は共同体の内外で人をみる目がまったく変わり、共同体内では人は同朋となるが、共同体外では理解不能の「謎の怪人フー・マンチュー」「砂かけババア」となるのである、というようなものではなかったかと思う。要するに共感が働くのは共同体内の人間に対してだけであるということである。共同体外の人間は「不信」の対象でしかない。
 この共感のおよぶ範囲が一定の範囲に限られることが進化論的に説明できるのだろうかということが問題となる。
 そもそも共感という能力がほぼ人間に限られているとしたら、ある大きさの群をつくる他の社会性動物について考察しても、それに対する回答は得られないことになる。狩猟採集時代のわれらの祖先が、自分が属するある大きさの集団内の人間のみを共感の対照とし、その外の人間は人間以外の動物と変わらない生き物に過ぎないとしていたのであり、われわれはその祖先の行動様式を引き継いでいるだけなのだろうか?
 ローレンツの「攻撃」は、種同士で殺し合いをするのは人間だけであり、他の動物においては種同士の殺し合いはない、ということを主張した本であったように思う。他の動物がそのようであるのかについてはその後いろいろな反論・批判もあるようであるが、ローレンツの「攻撃」は「心は「空白の石版」」仮説への重大な異議申し立てであったことは間違いがない。
 日本の共同体について、一番説得的な議論を展開したのが小室直樹氏と山本七平氏であると思う。小室直樹氏の「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」(中公文庫 1991年)では、「現代日本においては機能集団が共同体と化す」ことと、その帰結としての「アノミー」という観点から1975年ごろの日本の現状を分析したものである。非常に説得的な議論が展開されるが、デュルケームらに依拠する社会学的分析(社会を一つ有機体のようにあつかう議論)に依拠したものであり、生物学的、進化論的観点はまったく考慮されない。規範の崩壊→アノミーという説明であるが、人間が規範を必要とする生物であるということは自明の前提とされている。
 ホッブズのいう《競争・不信・栄誉》のうち、競争は生物学的基礎をもつかもしれないし、不信についてもある程度進化的根拠があるのかもしれないが、栄誉についてはどうなのだろうか?「だれかにコケにされたら、落とし前をつけなくてはいけない」というのは現代においても(愚かなことであっても)十分に戦争の理由になりうる。こういう心理をもつことも、進化の過程で有利だったのだろうか?
 「心は「空白の石版」」説においては、人間は良き物でも悪しき物でもない。「高貴なる野蛮人」説では、人間は良きものである。
 性善説性悪説という区分がある。「心は「空白の石版」」説は少なくとも、性悪説ではない。「高貴なる野蛮人」説は、性善説である。これらの説が現在において人気があるのは、われわれが自身をよきものであると信じたいからなのであろう。
 ホッブズは分類からいえば性悪説なのであろう。ピンカーがホッブズを取り上げるのは、生物学的にいえば、進化論的にみれば、人間はよき物とはいえないといえないとするからであろう。進化的“事実として”人間の本性は“悪”なのである。そしてそこから先ピンカーが展開する議論は、生物学を離れた議論である。本性が悪であるヒトの集団としての社会を良きものとするにはどうしたらいいかという議論である。ここはすでに事実を離れ価値の領域に入ってきている。
 わたくしは人間を悪であるとみるより愚かであるとみる方が好きなようである。競争心も相互不信も栄誉を求める心も、愚かなる人間の哀れな行動である。ピンカーが悪である人間から善を引き出すという問題に悪戦苦闘しているのは、ピンカーの深層にキリスト教的な価値観がしっかりと根づいているからではないかと思う。そういう点で、ピンカーの議論は科学的なものではなくて倫理的なものとなっているように思う。
 ここが西洋人の書いた進化論に依拠する議論がつねに内包している大きな問題点なのではないかと思う。心のどこかに、進化論から人間を見ると人間の倫理が壊れるのではないかという恐れをまだ持っているのである。人間もまた進化の産物である、そうであるなら人間が当たり前として受け入れている倫理観などというものには何の根拠もないことになるではないか?という恐れである。だから、人間を進化的に説明できるという“事実”の問題と、それでも倫理はこわれないという“判断”の問題を同時に提供できないと不安なのである。ウイルソンの「社会生物学」などはずっと淡々とした事実の提示であったように思う。それはウイルソン自身が認めているように氏は西欧的知識人ではない人であったからなのであろう。
 日本人は西洋人にくらべて性悪説にはあまりたじろがないのではないだろうか? 自分のうちに悪を感じるとしても、西欧人ほどは強く感じないので、たじろがないのかもしれない。西欧人は実は深く自分のうちに悪を感じているのである。三島由紀夫中村光夫の対談だったと思うけれども、西欧人の性欲というのは凄い。彼らの罪の意識というのは性欲の強さによるのではないか? 日本人がお前は罪びとだなどといわれてもぴんとこないのは、性欲が淡いせいなのではないか? といっているのを思い出した。罪の意識も性欲に依存するのであれば、まさに生物学的な根拠をもつことになるのだが・・・。
 しかし性の問題は、生物学的見地からだけではほとんど何もみえてこないことは誰でも知っている。
 

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (下) (NHKブックス)

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