J・グループマン&P・ハーツバンド「決められない患者たち」(1)

   医学書院 2013年3月
 
 わかりにくい題名だが、原題は「Your Medical Mind : How to decide what is right to you 」で、自分にとって最良の治療は何かであり、それを決めることがいかに難しいかを論じている。「患者の治療選択」というような題名の方が本の内容に沿っているのではないかと思う。
 同じグループマンの「医者は現場でどう考えるか」が面白かったので買ってきたのだが、今一つだった。それは著者たちが無理にでも何らかの指針を提示しないと無責任であると思っているのか、あるいは医師としての沽券にかけても本を書く以上は何らかの結論がないといけないと思っているのか、本書を読んでいけば、最善の選択などというのはありえないという方向がはっきりと見えてくるにもかかわらず、こうすれば今よりはよくなるというようなことが最後の方で書かれているので、何をいいたい本であるのかがよく見えなくなる。単に症例を提示だけすればいいではないだろうか?
 
 症例1:一過性の心房細動(不整脈の一種) 健診で偶然発見され、再検時には整脈であったが、24時間心電図では出現していた。この不整脈は心臓内に血栓をつくりやすく、それが心臓内から動脈を通って脳へ飛んだりすると脳梗塞を起こす危険がある。一方、血栓を予防する薬は出血などの副作用がある。薬を飲むべきか否か。
 
 症例2:高コレステロール血症:症状なし。薬をのむべきか?
 
 症例3:軽度の高血圧:服薬すべきか?
 
 著者は最善の選択というものは存在しないが、患者がどのような選択をするかについては、患者がどのようなタイプであるかによって違いがでるという。
 タイプ1:疑うひと。治療について懐疑的なタイプ。治療は少なければ少ないほうがいいと考える。
 タイプ2:信じるひと。できることならなんでもしたいというタイプ。
 
 症例2は45歳の女性。仕事は病院の健康相談担当。総コレステロールが240。HDLが37。LDLが179。医者はスタチンの内服を薦める処方するが、彼女は服薬していない。患者の相当多くは、処方された薬をのまないが、のみはじめても途中でやめてしまうことが調査で明らかになっている。彼女がのまない理由:父は元気で天寿を全うしたが、薬をのんだことのないひとだった。父もコレステロールは高かった。わたしは父に似ている。わたしも薬などのまなくても元気でいられると信じている。
 統計学的にいえば、彼女がとっている態度はたった一個の症例(n=1)ですべてを決めるという言語道断なやりかたである。
 医者はいう。「この薬をのむと、10年のあいだにあなたが心臓発作を起こすリスクを30%も減らせるのです。」 インターネットでは、年齢、コレステロールなどの検査値、喫煙の有無、血圧の値などを入力すると、10年以内に心臓発作をおこすリスクを計算してくれるところがある。彼女の場合、そのリスクは1%とでた。
 これからわかること。彼女が治療しない場合、10年以内の心臓発作のリスクは100分の1。同じようなひとが300人いるとする。10年で3人の心臓発作の患者がでる。スタチンをのむと、それが2人に減る。この2人は薬をのんでいたのもかかわらず心臓病がおきた。残りの297人は本来飲む必要がないひとが薬をのんでいたことになる。
 「この薬をのむと、10年のあいだにあなたが心臓発作を起こすリスクを30%も減らせるのです。」といわれると、のまないと100%発作がおきてしまうような気がする。しかし、上のことからは全然そういうことではないことがわかる。上がいっているのは一人のひとを助けるためには300人を治療しなければいけないということである。この薬はまれに横紋筋融解症という筋肉痛を主とする副作用をおこすことがある。
 米国のガイドラインでは、このような症例は、食事と運動でコレステロールが下がらない場合には治療の対象とされている。彼女はコレステロールの治療は拒否しているが、もしも自分が癌になれば積極的に治療をうけるといっている。
 
 そこから今度は著者たちの個人的な病歴の紹介になる。
 グループマン:
 1963年、11歳のときに急に家庭でコレステロールのことが話題になるようになった。テレビでも新聞でもその話題で持ちきりで、医師もそれを検査するようになった。父の数値は高かった。卵黄が食卓から消え、バターもなくなった。その一年後、癌と喫煙の関係が報告された。父も母も喫煙をやめた。やがて父に高血圧が発見され、食卓塩がテーブルから消えた。
 1974年、父は心臓発作をおこし、55歳で死んだ。後年、医者になって考えると、その時に父がうけた治療はきわめてお粗末なものだった(瀉血に近い治療)。肺水腫の状態であったにもかかわらず、挿管もされず、呼吸器も使われなかった。
 それを振り返り、医者になった著者は、最新の医学の信奉者となった。指導医は治療についての最大限主義者で、できることは何でもやるのを主義としていた。その当時、白血病の骨髄移植にもかかわった。当時の治療成績は惨憺たるものだったが、やがてそれは白血病の標準的な治療法の一つとなっていった。その当時、精巣癌が新しい抗癌剤のシスプラスチンで完全治癒する症例も経験した。
 1980年に著者が医師になった当時はエイズは不治の病であった。しかし10年後には救命しうる病気になっていった。モノクロナール抗体などの開発でリンパ腫などが寛解にいたるようになった。新しい治療法の多くは失敗に終わるが、なかには成功に至るものもある。
 ある時、著者はひどい腰痛をおこす。原因は不明であったが、当時、最大限主義者であった著者は、もっとも積極的な治療法である脊椎の融合術をうけたがまったく効果はなかった。この当時においても、腰痛の多くには明らかな解剖学的異常はなく、基本的には何もせずにいるうちに痛みが去るのを待つだけで勝手によくなるとする学派もあった。しかし、著者はその当時、そのようなことは信じられなかった。だがこの経験によってだんだんと慎重派の見解にも目をむけるようになっていった。
 40代になりコレステロールが高くなっていった。父は心臓病で死んでいる。しかし、腰痛の経験から筋肉痛の副作用の可能性のあるスタチンをのむ気にはなれなかった。運動と食事でわずかにコレステロールはさがったが、微々たるものであった。それで著者は常用量の半量のスタチンをのむという妥協をした。それでもコレステロールは240から160までさがった。
 
 ハーツバンド:一番下の妹が5歳のときに、熱を出し腹痛をうったえた。医者はただのウイルス性の胃腸炎と診断した。しかし翌週症状が悪化した。虫垂炎の破裂による腹膜炎だった。医者がいつでもただしいわけではないことを学んだ。
 自分は最小限主義者であるという。10年前に甲状腺機能亢進症を発症している。
 
 著者の二人は自分の病歴などを検討することにより、自分たちの治療への姿勢が、自分の家族歴、病歴、社会歴などに影響されることを確認できた、という。
 
 患者にも最大限主義者と最小限主義者がいるように、医者にもその両方がいる。それを分けるものは何なのだろうか?
 一つには科学というものをどの程度信奉するかということがありそうな気がする。科学というのは冷徹で非人間的であるばかりでなく、原子力をその頂点として人類に大きな惨禍をもたらしているとする見方はごく一般的なものである。しかし、科学についてかなり懐疑的にみているひとでも、医療についてもそうであるかはさまざまであるように思われる。科学哲学の異端児で、科学は単なる西欧の偏見にすぎない、どんな見方もOK、なんでもあり!、といっていたファイアアーベントが晩年、脳腫瘍になると西洋医学の治療を積極的に受け入れていたという話を読んだことがある。
 わたくしが知っている人は肺癌になった時、あちこちの親戚から癌にはこれがいいといってサプリメントだとか自然食だとかが山のように送られてきて困ったといっていた。効くなんて思えませんが、そうかといって全然使わないのも送ってくれたひとに悪くて、と。その方はきわめて知的なかたで、処方された薬もきちんと服薬している(肺癌としては例外的に薬が効いていた)のであるが、それでも癌に効くといわれるラジウム温泉とかにもいっていた。その温泉にいく専用のバスというのが定期的にでているのだそうで、そこでお互いにきく癌治療についての情報は非常に参考になるといっていた。
 医学は文科系か理科系かといえば、理科系に分類されている。どういうわけだか、医者になりたがる人間が増えてきて、医学部の入学がどんどん難しくなってきている。そうすると数学ができないと入学できないことになって、数学的な頭脳の人間が医者になる率が高くなってきている。数学では、正しいか間違っているかが決定できることになっている(ゲーデル不完全性定理などというのがあるらしいが、それはもっと高級な話である)。
 数学は論理であるから正しいか間違っているかであるとしても、物理とか化学ということになると、正しいことがあるのかもしれないが、本当に正しいかどうかは人間には知ることはできないという立場もある。生物学となるとさらに厄介で、これはたまたま地球上に生命が生まれたという偶然がなければ生じることがなかった学問で(学問というのは知的生命体ができたからできてきたといえば、数学だってそうなのではあるが)、地球の重力や酸素や炭酸ガスの濃度といった個別の条件が、その学問の前提となっている。だから地球上の生物は地球を離れては生きていけないし、地球に大きな天変地異がおきて、環境が激変すれば、多くは生きていけない。医学となるとさらに厄介で、それが生物学を基盤にしていることは確かであっても、それが関心をよせている生物は人間だけである。もちろんラットや培養細胞などを実験で用いるにしても、それはあくまで人間に利用するためであって、ラット自体に関心があるわけではない。そして人間だけに関心を持つ学問としては人文学があるわけで、そうなると医療をおこなう人間は人文学とも無関係とはいえないことになるのかもしれない。
 しかし、数学と人文学は正反対である(「虚数の情緒」などというひともいるが・・)。医療行為のなかでは数学が必要になることはほとんどない。必要なのは算数レベルで、足し算、引き算、かけ算、わり算ができれがほとんど用が足りる。統計学の理解は必須で、それにはもう少し高級な数学がいるのだろうと思うが、統計学にはわけのわからない部分があり、なんだか哲学ではないだろうかと思えることもある。
 個々の事象がマスのなかではどのように位置にあるかというのが統計学が示すものではないかと思うが、それは判断の材料は提供してくれるが、判断そのものはしてくれない。しかし、数学的な頭脳から見ると、統計処理で51%有効な治療は、49%のものよりも優れていることなる。
 そこに本書でしばしばでてくる価値観の問題がからんでくる。価値観の問題には、どのように生きたいかということがからんでくる。一方、統計学にでてくるのは生命予後(端的にはどのくらい生きるか)である。前者は「質」、後者は「量」。「太く短く」対「細く長く」ということにはならないだろうが、「生命の長さ」は計測できるとしても、「生命の太さ」はそうはいかない。だから医療者は謙虚に生命の長さだけを考えればいいので、生命の質などという難しい問題は、哲学者にあるいはお坊さんにまかせておけばいいという見方もでてくる。しかし、病院のなかにはふつう哲学者もお坊さんもいない(あちらの病院には神父さんや牧師さんがいるという話をきいたことがあるし、日本の病院でもキリスト教系の病院では、そういうひとがいるところもあるようである)。
 それで医者がにわか哲学者にならなければならなくなるのかもしれない。本書のいささか頼りない印象は著者らがにわか哲学者になっているが、泥縄で身についていないということによるのかもしれない。しかし、それ以上に、著者らが基本的に理科系的、数学的思考から脱しておらず、あるひとにとっての最善の人生といったものをわれわれは考えることができて、目指すことができるという信念を捨てられない点にあるような気がする。
 人生にはどうにもならないことがある。いくら努力してもいかんともし難いことがたくさんある、ということが哲学の出発点で、それでもなおというのが哲学なのではないかと思うが、養老孟司さんの言い方を借りれば「ああすればこうなる」というように人の生が操作可能であるとする都市主義(@養老さん)的思考から著者らが自由になっていないことが本書を窮屈にしているように思える。本というのは何らかの処方箋を提示するもので、どうしようもないとか対策はないなどというのではいけないと思っているのかもしれないが。
 もちろん、どうしようもないわけではなくて、以前なら治療不可能であった疾患が治療の対象になってきている。わたくしが医者になった当時は前骨髄性白血病はまったく手の打ちようのない病気であった。それが今では薬で簡単に対応が可能になってきている。わたくしが専攻した肝臓病の分野でも、医者になった当時は臨床のほとんどが診断学で治療はないに等しかったが、いまではエイズ研究の副産物の抗ウイルス剤で病気自体が消滅しかかっている。肝臓の医者はあと10か20年すると飯の食い上げになるといわれている。最大の患者層であるB型肝炎C型肝炎が、B型肝炎は母児感染の予防法の確立によってほぼ新たな慢性患者の出現がなくなり(性交渉感染からの慢性化はこれからも散発的にでてくると思われるが)、C型肝炎は抗ウイルス剤の進歩によって、根治が期待できるようになり、また輸血スクリーニングの徹底により新たな輸血後肝炎の発症もほとんどみられなくなっているからである。やむなく肝臓の医者は脂肪肝などの生活習慣病に活路を見いだそうとしている。医療の理想は医療が必要ない状態になることだから、まことに好ましい事態になっているわけだが、そうなると今まで病気でさえなかった状態が病気と認識されるようになり、やっぱり患者は減らないのかもしれない。
 本書でもいたるところで述べられているが、健康の定義はどんどんときびしくなってきている。以前では病気とは思われなかった状態が病気とされるようになる。コレステロールが測定できない時代には高コレステロール血症(今では脂質異常症という。HDLコレステロール低値も異常とするから)などという病気は存在しえない。尿糖や血糖が測定できない時代にも糖尿病はあった。それは糖尿病は口渇、多飲、多尿といった症状をおこすから症状から診断がつくからである。患者の尿をなめてみた勇敢な医者もいたらしい。血圧を測定できなければ高血圧という病気は存在しない。
 脳梗塞とか心臓発作というのは以前から認識されていた(半身不随が脳に起因する病態であることはすぐにはわからなかったかもしれないし、急に生じる呼吸困難が心臓が原因と特定することも簡単ではなかったとしても)。そのような脳梗塞とか心筋梗塞が、高血圧や高脂血症によるという病態の解明が医学の主たる進歩であった。
 わたくしが医学を学びはじめた今から40年以上前には、臨床の講義といってもほとんどが病態生理学であった。なぜそのような病気がおきるのかという理論が延々と説明され、最後に一行、治療法はないとかあるのだった。
 その当時は免疫学が花形で、病気のかなりが免疫の異常として説明できるのではないかと考えられていた。免疫グロブリンの分類、その構造、その発見者がいつノーベル賞をもらったかなどが講義の大部分を占めていた。当時は喘息患者にはなるべくステロイドを使うなと教わったし(今は治療の第一選択)、胃潰瘍は胃酸が原因と習った(今はピロリ菌感染症)。癌の疼痛コントロールにも麻薬はなるべく使うなと教育された(中毒になるといけないから!)。ブロンプトンカクテルが使われだしたのはいつ頃からだったのだろうか? ターミナルケアという言葉も今から40年前にはなかったように思う。
 医者になったばかりの頃、患者さんに得々と説明していたことの相当部分は今から見れば嘘である。だから今患者さんに説明していることのかなりも10年もすれば嘘になってしまっているのだろうと思う。
 ということは医学が進歩しているということでもある。多くの説が提示され、そのほとんどは淘汰され、ごく一部が生き残る。そうであれば、最新の知見というのは明日には否定されてしまうかもしれないものも多くふくんでいることになる。とすれば、最大主義者は最新の治療の恩恵をうけるひとになるかもしれないし、後から見ると間違っていたとわかる治療の犠牲者になるかもしれないわけである。ただこのような勇敢なひとがいないと新しい試みの有効性は試されないままとなる。
 5%から10%の患者さんにしか効かない抗癌剤があるとする。副作用も相当に強い。それを使うかどうか。宝籤ではないが、当たりたいなら買うっきゃないのなら、治りたいなら使うしかない、といえるだろうか? そう思う医者がいて、患者さんもいる。同時にそれって何か変ではないと思うひともいるのも当然である。
 最近、癌が怖いのではない、癌の治療がこわいのだといっているお医者さんがいるようである。本書でもシスプラスチンで精巣癌が治癒した例が報告されているが、この薬の副作用たるやとんでもないもので、非常に強い吐き気が必発である。現在では薬も改良され、吐き気をおさえる薬もずいぶんと進歩した。しかしわたくしが若いころ、この薬を使うときは本当に憂鬱だった。治療がはじまる前から患者さんがすでにおかしくなるのである。ふるえがきたり、動悸がしたり・・。医者の側は吐き気くらいなんだ。命のほうが大切ではないかということなのだが、目の前の患者さんがそうなるのであれば、それはいえない。
 最近、さまざまな分子標的薬といわれるものが開発されてきて、今まで治療が困難であった病気が治療可能になってきている。しかし、皮膚などに副作用がでるものが多い。皮膚の症状くらい我慢してくれないかなあ、今までこの病気に薬はなかったのだから、薬を使えるようになった今に生きているあなたは幸運なんですよ、というのが医者の本音かもしれない。
 それにこれらの薬はみなとても高価である。完治が期待できるのであればいいが、延命の効果しかないのであれば、どうなのだろうと思うひともいるかもしれない。これから医療財政は窮屈になっていく一方であるのだから、どこかで歯止めが必要と考えているひとも多い。しかし、具体的な線をひくことはまずできそうもない。
 癌の治療をして、結局、効果はなくつらい思いをしただけというひとはたくさんいるはずである。そういうひとから見れば、結果的には治療はしないほうがよかったということになる。しかし、治療の前には結果はわからない(今後、遺伝子の分析などにより、治療効果を前もって予想できるようになる可能性は高いが)。宝籤は買わなければ当たらない、ということでいいのだろうかと思うひとは多いはずである。下手な鉄砲を数打っていれば、そのうち当たるだろうというのでは変ではないかと。そして、一方には、少しでも可能性のあることはすべてやってみたいと思う医者も患者も相当数いるのである。
 わたくしなどは、どのタイプの医者に当たるかということは運なのではないかと思う。志向がうまく合う患者と医者の組み合わせになればラッキーである。そうでない場合はしばしばトラブルになる。本当にいいのは人をみて法を説く、患者さんの性格をみきわめて、その患者さんにあった治療を提示することであろうが、医者にだって志向があるのだから、どうしてもバイアスがかかるに違いないのである。とすれば、やはり運である。
 しかし、所詮は運であるなどというのでは、何のために本を書いたのかということになる。それでなんだかわかったようなわからないようなの話が続く。
 心房細動の治療についての議論は次に。
 

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