J・グループマン&P・ハーツバンド「決められない患者たち」(3)

 
 整形外科的治療
 症例1)42歳女性。足の痛み。第1中足関節の骨棘、ガングリオン、関節炎。
 整形外科医は手術をすすめる。彼女は若い時からSLEに苦しんできて、イムランとステロイドの副作用にも苦しめられてきた。数年で寛解にはいり、今は服薬は必要としないが、その闘病の経験から「自分の意見はしっかりと主張すべき」ということを学んできた。それで整形外科医の意見に抵抗してステロイド注射を希望した。それで8ヶ月は痛みなしで経過したが、ふたたび痛みがでてきた。整形外科医はいう。「だから言ったでしょう。手術が必要なんです。」 彼女はもう一度ステロイド注射を希望し、それでふたたび痛みはきえたが、それでも彼女は手術を受けてしまった。先生とやりあうのはいやだったし、やはり先生が一番よくわかっているだろうと思ったから。(一般的に、患者は医師から面倒な患者と思われたくないと感じているし、医師の意見に異をとなえたりするとちゃんとした治療をしてもらえないのではないかということをおそれている。また普段は強い意志を発揮するひとであっても、病気のときにはそうならなることがあることも知られている。) 手術しても痛みは消えなかった。彼女は後悔した。
 
 症例2)50歳男性。膝の変形性関節症。
 8年前に発症し、関節鏡手術でよくなった。8年後ふたたび痛みが出てきたときには、軟骨が前回にくらべ大幅に減少していた。もう一度、関節鏡手術を希望するが、整形外科医はこんなに軟骨が減ってしまっていては、手術は意味がない可能性が高いという。「こういう場合、医者ができることは多くはないのです。」 それでも彼は手術を希望した。手術はうまくいかなかった。それでも彼は後悔することはなかった。
 
 一方は後悔し、他方は後悔しなかった。それはなぜか? ここでトゥバースキーとカーネマンがでてくる。買った株がすぐに下がった場合と、もっていた株が下がった場合のどちらが後悔の念が強いか? 前者であるという。 今回の場合、調子がよかったのに手術して悪くなったのと、もともと調子が悪かったところで手術してうまくいかなかったのでは、前者のほうが後悔の念が強いであろう、と。さらに医療においては、自分が治療の選択に積極的にかかわったにもかかわらず結果が悪かった場合には後悔の念が強いことが知られている。
 医療の世界ではある状態に対する対処法が一つではない場合が非常に多い。そうであるなら誰が最終的に決めるのか? それは患者の選択によるということでいいのだろうか? 最近の患者の自立性尊重重視の風潮のなかでは、患者まかせにしすぎる傾向がめだつと著者はいう。医者はガイド役としての役割を放棄すべきではないとする。患者の自立性の尊重はしばしば患者に強い後悔の念をもたらすのだ、と。
 
 次が前立腺癌。
 軽度のPSAの上昇から前立腺癌が偶然みつかったケース。医者は触診でも超音波検査でも異常なしといい、念のためとしておこなった生検で癌が見つかった。(一般に医者は患者の不安や心配をなだめるたにしばしば大した根拠なく大丈夫と保証する。そして医者はしばしば間違えるものである。) ネットで検索すると、どこでも手術、放射線治療、経過観察の3つが対処法としてしめされていた。いろいろな医者に相談すると外科医は手術を、放射線科医は放射線治療を勧めることがわかった。そしてどの医者も自分の見解を支持するデータをもっていた。腫瘍内科医は「監視的待機」つまり慎重に経過をみることを提案した。
 
 次が乳癌。
 42歳女性。偶然に左脇の小さなしこりに気づく。検査で乳房の小さな癌とリンパ節への転移がみつかった。たまたま2ヶ月前にうけたマンモグラファーにはなかったものなので、緊急性のあるものと考えられた。ベストの医者の探求がはじまった。手術が必要であるとしても、その後の治療で化学療法か放射線治療かではいろいろな見解があった。彼女は放射線治療にすることに決めたのだが、BRCA遺伝子の変異がみつかった。この遺伝子をもつものは乳癌と卵巣癌のリスクが極めて高い。彼女は両側乳房切除と卵巣摘出の手術をうけた。
 
 次がホジキンリンパ腫。
 44歳女性。背中の痛みでとったレントゲンで腫瘍がみつかり、CT下の生検で診断が確定した。どの医者も同じ治療法をすすめた。なぜなら現在、ホジキンリンパ腫の治療法はほぼ標準化されているから。これは過去数十年間の体系的な研究の成果である。
 
 次が慢性リンパ性白血病。50代男性。経過観察をしているうちに急性転化をして骨髄移植をうけたエース。ちょっと不思議なのが経過観察期にイマチニブが使われていないことで、かなり古い症例なのだろうか?
 この患者は「患者にもある程度の決定権があるなどというのは嘘で、実際には患者が知らないところで多くの決定がなされているのだ」という。だから多く書かされる同意書も茶番である、と。臨床医学のようなきわめて不確実性の高い分野では合理的決定をすることなど不可能である。だが医者は自分の権威をまもるために合理性を装っているで、確信をもっているように見せかけているだけなのだ、と。
 
 痛みというのは日常臨床できわめてありふれた症状であるにもかかわらず、わからないところの多い不思議な症状である。腰痛の半分は器質的なものではなく心因的なものであるらしい。夏木静子氏の「腰痛放浪記 椅子がこわい」は日常生活がまったく不可能になるくらいの激烈な腰痛が心因的なものであったことを描いたものである。なぜ心因的なものであることになったかといえば、心療内科的な治療でよくなったからである。明々白々な整形外科的な異常があってもまったく症状がないひとも多いらしい。だから逆にひどい腰痛がありはっきりとした形態学的な異常があってもそれが原因とは限らないことになる。そうであればその整形外科的な異常を手術などで治療しても痛みはまったく軽快しない場合があるのは当然である。整形外科の先生は本当に大変だろうと思う。
 前立腺癌もきわめて問題の多い病気である。相当の高齢で亡くなった男性を解剖してみると半数くらいに潜在的前立腺癌がみつかるらしい。一方、最近PSAという前立腺癌の血液検査が普及してきていて、いわゆる腫瘍マーカーのなかでもっとも実用性のあるものとなってきている。まったく症状がない段階で血液検査によって癌を早期発見できるという、腫瘍マーカーとしては理想的なものなのである。しかし、PSAを用いた前立腺癌の検診はするべきではないという見解もまた強力なものとして存在する。日本では厚生労働省PSA検診は公的な検診としては推奨しないという立場である。一方、泌尿器科学会はそれに強く反発している。PSA検診は前立腺癌の早期発見には有効という点においては双方の見解は一致する。しかしこの検診には死亡率を減少させる効果は証明されていないというのが、厚生労働省が公費でおこなうことを推奨しない理由なのである。なぜ早期発見しても死亡率が減少しないのか? 治療する必要がない癌を見つけているだけなのではないか、という見解が当然でてくる。いわゆる近藤誠さんのいうガンモドキがあるではないか、そういうものをPSA検診は拾い上げてくるので、それで死亡率が減少しないのではないかということである。しかし、前立腺癌で骨転移などで悲惨な状態になったひとをたくさんみている泌尿科医としては、それを未然にふせげる可能性がある検査をしないでいるというということはどうしても容認できないという立場なのであろう。本書でちょっと理解できなかったのが前立腺癌の治療法としてホルモン療法がまったくふれられていない点である。わたくしの印象ではこれは相当に有力な方法で、PSA高値で発見され生検で確定した前立腺癌のかたがホルモン療法でまったくPSAが正常値のままで何年も経過しているひとをみているし、骨転移の状態になっていても疼痛のコントロールがそれによってできているひとも知っている。
 形態学的(病理学的、つまり顕微鏡検査での細胞の顔つきでの判断)には同じ癌であっても、きわめて進行が遅く人間の寿命を考えれば放置してもいいものがほとんどであるなかに一部進行の早い癌が混じっているというのが前立腺癌の実態なのではないかと思う。今後の進行を予知できる検査があればいいが、ないのであればどうすればいいのか、ということになればそこにでてくるのは価値観の問題であるのだろうと思う。厚生労働省の価値観と泌尿器科学会のもつ価値観が異なるわけである。あるいはマスをみる公衆衛生学的な見地と個々人をみる臨床医学的な見地がことなるということである。
 それで思い出すのが神経芽細胞腫のことである。これは小児に多くみられる癌の一種で乳幼児に多い。尿の検査で診断が可能であることから、一時期新生児すべてに尿のスクリーニング検査がおこなわれていたことがある。しかし最近ではしなくなった。新生児の神経芽細胞腫では非常に多く自然退縮がみられる(要するに、なにもしなくても消えてしまう)ため、診断すると過剰な治療がおこなわれてしまう可能性が高い。それで診断しないほうがいいということになってしまったのである。前立腺癌もひょっとすると過剰な治療がおこなわれているではないかという疑念はありうる。アメリカ政府もPSA検診は推奨しないという立場のようである。現在の臨床で唯一はっきりしていることは、PSA前立腺癌の治療経過をみるうえでは有効ということである。それ以外については価値観によるということなのであろう。
 乳癌でも同じような問題があるらしい。現在は温存療法が主流である。乳癌には浸潤性のものと非浸潤性のものがある。浸潤性のものは癌の広がり方が早いわけで当然非浸潤性のものよりたちが悪い。ところが浸潤性のもので温存手術、非浸潤性のものではもっと広範囲な切除ということがあるらしいのである。医者の側の理屈としては浸潤性のものは手術時にすでに広がっている可能性が高いのでもとの腫瘍だけとってあとは全身治療をする。しかし非浸潤性であれば、ほかには広がっていないから、手術だけで根治可能である。そうでなるならなるべく取り残しのないようにしたほうがいいに決まっている、というようなことらしい。
 わたくしはかなり早くから近藤誠さんの本を読んでいたほうかと思うのだが、氏が出てきたときには乳癌の超拡大手術(大胸筋まで切除するハルシュテット手術)の批判者としてであった。乳癌は早期に全身に広がる全身病である。局所を大きくとるというハルシュテット手術は乳癌の性質を理解しない間違った手術であって、局所のみを切除してあとは放射線治療なりで残った病変の制御を計るのが理にかなった治療法であるというものだったように記憶している。つまり現在の浸潤性乳癌の治療法を早期から推奨していたわけである。癌は治療しないほうがいいなどといっていたわけではなかった。(今では非浸潤性の乳癌はがんもどきだから治療しなくてもいいというかもしれない。) もっと集学的に治療をすべきといっていた。日本の癌の治療は外科主導であって、放射線科医や化学療法をおこなう医者の発言力は弱く、その意見もほとんど無視されていた。放射線治療を専門とする近藤氏としては、一言も二言もあるのが当然である。日本は世界のなかでも、ハルシュテット手術が最後までおこなわれた国の一つなのではないかと思う。
 胃癌の手術の場合も、一時期どこまで広くリンパ節を切除するかを競った時代があった。しかしD2郭清とD3郭清には大きな生存率の差はないことが明らかになってきて、D3郭清(大動脈周囲のリンパ節までとる)はおこなわれなくなる傾向になっているのではないかと理解している。どうも外科医には、大きくとって何が悪い!というマインドがないとはいえないように思う。小さくとったのでは取り残しが不安、大きくとることにたいていの場合には意味がないにしても、まれにでも意味があるのであればやって悪いことがあるだろうかというような考えかた? これも、結局はどこかで価値観に結びつくのではないかと思う。
 最近、ある女優さんが、BRCA遺伝子の変異がみつかって、両側乳房切除したことが話題になっている。この場合は乳癌になって検査したら見つかったのではなく、検査をしたら陽性であったので手術をしたわけである。癌であっても手術をしないでいいケースがあり、癌ではなくても予防的に手術してしまうケースもあるわけである。どれが正しい選択であるかということをどのように決めるのか? 一意的な正しい解答などあるわけがない。
 ホジキン病や慢性白血病(とその急性転化)などの血液疾患の治療にかんしてはかなりな標準化がなされてきており、世界的にみても国々のあいだでの治療法の違いというのも少ないのではないかと思う。外科的な治療よりも内科的治療のほうが標準化しやすいのであろうか?
 とにかく急性白血病のような病気の場合、治療をしないで経過をみるというような選択肢はほとんどない(高齢でADLが悪い患者さんの場合にはないとはいえないが)。治療法は種々の抗癌剤の組み合わせであり、どの治療法がいいか患者さんに選んでもらうというような余地もまずない。そしてその治療でしばしば治癒(完全寛解という控えめな表現がなされることが多いが)が期待できる。医者はどんどんと相談なしで治療をすすめてしまう(もちろん患者さんに説明はするが)。これをパターナリズムとはあまり言わないように思う。
 「リンパ腫の治療は腫瘍内科医の「お気に入り」。自分が名医にみえるから」という医者の言葉が紹介されているが、そうなのだろうと思う。しかしわたくしが医者をはじめた40年くらいまえは白血病やリンパ腫の治療成績は悲惨なものであった。まれによくなることはあるが、かえって苦しめてしまっただけと思えることもしばしばあった。この当時の治療をみたら、近藤誠氏なら「こわいのは白血病ではなく、白血病の治療である」といったであろうと思う。そしてその近藤氏も血液系の悪性腫瘍の治療についてはその有効性を認めているのである。胃癌の手術もその初期には死屍累々だっただろうと思う。それが標準的なものとなるまでにはたくさんの悲惨がくりかえされてきたはずである。
 次はターミナルの医療の問題。
 

決められない患者たち

決められない患者たち

腰痛放浪記 椅子がこわい (新潮文庫)

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