J・グループマン「医者は現場でどう考えるか」(5)

 
 第10章は、最近の医療で頻用される判定システムにつき論じている。判定システムというのは、患者さんの診断名、状態あるいはデータなどがわかると、そこからどのような治療法を選択すぼきかを自動的かつ機械的に導出するシステムである。このシステムに従えばある患者さんについての治療法は一つに決まることになる。
 章のはじめで提示される症例では、この判定システムをそもそも使用してはいけない症例であることに研修医が気づいておらず、しかもデータの変化(急激に悪化している)に注意せず、数字のその時の絶対値のみから判定システムにもとづいて治療法を提案する場面が示されて、現在の医療の場でしばしばみられる「自分で考えることを放棄して、判定システムやアルゴリズムに、自分に代わって考えてもらおうとする若い医師たち」のことを問題にしている。
 それの何が問題なのだろうか? そもそも、データが自動的に方針を決めるというようなことがあるのだろうか? このような判定システムを使用する場合、一番の問題となるのが、治癒できる可能性が非常に低い病気に対してどのような治療法を選択するかといった場合である。うまくいく可能性は極めて低いがうまくいけば治癒が期待できる(しかし、多くの場合は治療によりかえって命を縮める可能性が高い)治療法と、治癒は期待できないが、ある程度の期間、ある程度の良好な状態を維持できる可能性が高い治療のどちらを選択するか? そのような場面では、積極的な治療法を選択する傾向の医師もあり、支持的で維持的な治療を選択する傾向の医師もある。患者もまた同様である。そうであるならば、データから方針が決まるはずなどない。そう著者は主張する。
 ある患者にとっての良い医師が、別の患者にとっては悪い医師でありうる。もちろん、すべての患者にとっての良い医師というのが存在すればいうことはないのだが、現実にはありえない。たとえば多くの患者は現在、抗がん剤について非常に悪いイメージを持っている。現在の治療薬の進歩や副作用を軽減させる薬の進歩についてはあまり知らない場合が多い。あるいは医師自身にもそういう過去のイメージをものがまだ少なからずいる。そういうマイナスイメージから治療に拒否的である患者にどう対応していくのがいいのだろうか? 患者の意思を尊重すべきなのか? 強く治療を勧めるべきなのか?
 患者が何を望んでいるのか、それを聞き出す能力がまず医師には求められると著者はいう。少しでも長く生きるためであればどんな強い副作用の薬の使用も甘受するという患者もいるし、そのような強力な治療にはとても耐えられないとして拒否する患者もいる。それならばその患者には何もしないのか? 副作用が少ないが効く可能性もまた低い薬を使うべきなのか?
 医療のおいては患者と医者の間の相性の良し悪しということが存在する。患者は自分と似た性格の医師のもとで治療したほうがよい結果をもたらすという説もあるがそうなのだろうか? 以前にもいわれていたように、患者さんに評判がよい医者の臨床能力が必ずしも高いとはいえない。患者が医者の臨床能力を見抜けるとは限らない。医師からみると合理的と思われる思考法も、患者にとってはそうではない可能性も高い。
 もう一つ現在の医療において無視できないものとして、このようにしておけばかりに医療訴訟となったとしても負けることはないだろうという思考の介入があることも指摘される。そのような思考がブレーキをかけて、本来なされるべきである治療がなされないこともまた多いのではないかと著者はしている。判定システムに従って結果的に悪い結果になったのであれば、それは自分の責任ではなく、判定システムを作った人間の責任であるのだから、万一の事態が生じても、訴訟などで自己の責任は問われないだろうという思考回路である。
 
 ここでいわれていることはまことにその通りであると思うのだが、そんなことを言っても仕方がないのではないかという気もする。命というのが一回限りのものであるという厳然とした事実があって、それが医療行為の一番根底にあるからである。ある患者さんに同時に3通りの治療をしてみることなどできない。ある患者さんに同時に3人の医師が主治医となることもできない。選択をしなくてはならない。その選択がよかったかどうかは、その選択の結果がでた後でないとわからない。非常にうまくいく可能性の高い治療法を選択したにもかかわらず最悪の結果がでてしまうこともある。そのようなことは20回に一回しかおきないといわれても、おきてしまえば100%である。20回に一回しかうまくいかない治療法を選択しても、それがうまくいって完治してしまうこともある。
 そしてあることを知る前と後でひとは同じひとではないかもしれない。養老孟司さんがどこかで書いていたが、癌と宣告される前と後では見える景色も同じでなくなる。桜を見ても、綺麗だなではなく、来年もまたこれを見られるだろうかと思うようになる。患者さんが何を望むのかを知るのが大事といっても、多くの場合、重病を告知された患者さんあるいは家族は、何を望んでいるかさえよくわからなくなってしまっているかもしれない。
 一番の問題は、このような場合にはどのような選択が最善であるのかということを、情報をたくさん収集することにより決定することができるという考え方にあるのではないかと思う。それはあまりにも人智というものへの過信であって、そんなことは不可能だろうと思う。多くの情報を集めても、そこから得られるのは納得ということだけではないかとと思う。最善かどうかは神のみぞ知る。いろいろ情報を集めても、そこから得られるのは出来る限りのことはしたという満足感であって、正しい選択ではないはずである。
 医師の側に求められるのも患者さんあるいは家族に納得してもらうということであって、その納得の結果よい結果が得られるか否かは運である。運がよければ治る、運が悪ければ治らない、などといわれたら怒るひとが多いと思うけれども、納得した結果生じたことであれば、なんとか受け入れられるかもしれない。それに、治療行為に納得していることは、ひょっとして何がしか免疫系統などにいい方向に働いて、結果として、いい運勢に少しは加担することになるかもしれない。
 判定システムの欠点がここで指摘されているが、以前には逆にまったく根拠のない恣意的な治療の選択がなされていたということがあると思う。前の患者にはこの治療が効いたといったことで、次の治療法が決められていたことも多かったと思う。あるいは高名な先生がいいだすとみなその治療法を採用するといったこともあったと思う。その高名な先生がなぜそれを言い出したかといえば、自分はそれでうまくいったというようなことだったりした。それに較べれば、評判は悪いがEBM(Evidence based Medicine )にだっていいところはあるだろうと思う。ただEBMは患者を納得させる力が弱いということはあると思う。まさにそれはここでもいわれているように、患者さんがどのようなひとであるかを顧慮しない。たくさんの症例を集めて統計をとる意味は、まさにそのような患者さんの個性による影響という因子を消して、疾患そのものがもっている特性を抽出することにあるのだから。
 あるやりかたにはいいところもあれば悪いところもある、というのはきわめて当たり前のことである。あるやり方を過信しないこと、人智の限界を忘れないこと、そのために、つねに複数の視点に目配りできること、それが大事ということになるのだろう。
 
 「おわりに」は本書の結論部分である。
 もしもある診断をしてそれに対する治療をして、それでうまくいかない場合は原点に立ち返るべきであると著者はいう。もう一つ著者がいうのは患者が何を心配しているのかが大事であるということである。医者は逆流性食道炎と思っているが、患者は胃癌を心配している。あるいは極端な場合は肺塞栓を心配している。なぜなら最近身内でそれで死んだものがいるから。
 ある治療をする。しかし患者はよくならないといってまたくる。その場合、「あなたはどこも悪くはないです」ということを言わないようになったと著者はいう。神経症や不安症というような患者さんは医者から敬遠される。しかし「心気症」もまた病気なのだと著者はいう。
 
 患者さんがなぜ外来に来たのかということはすごく重要である。たとえば、なぜ風邪くらいで病院に来たのだろうかと思う。よくきくと明日から旅行にいくので早く治したい、あるいは孫がもうすぐ来るのでうつしてはいけないと思ってとか何らかの理由があることが多い。あるいは頭痛を主訴に来院した患者さんの場合、普通、医者はその原因として血圧を考えることはない。しかし血圧があがって頭痛が起きていくのではないかと思って外来にくるひとはすくなからずいる。このごろは自宅に血圧計をもっているひとが多いから、頭痛がすると血圧を測るひとは多い。測ってみたら高かった。これが原因か、ということになる。実際には頭が痛いから不安、不安だから血圧が上がるということがほとんどであると思うのだが、患者さんは血圧が原因と思ってしまうらしい。
 来院の原因が身近なひとの病気というケースはとても多い。いろいろ話をきいても、この患者さんはどんな病気を心配しているのかさっぱりわからない。最後のほうになって、ポツリと、実は親戚が急に心筋梗塞になって、わたくはそれではないでしょうか? といいだす。それなら早く言ってくれよ、と思う。しかし、患者さんは医者に素人判断での意見をいうのは失礼だと思うらしい。それで延々とまわり道をすることになる。背中が痛い。インターネットで調べたら心筋梗塞でも背中が痛いことがあると書いてあった。親戚の叔母が倒れたら、いままで気にもしていなかった症状が急に気になってきた、というような回路なのだが、「ずっと以前からある軽度の背中の痛み」などという訴えだけであると、そもそもなぜそれだけのためで病院に来たのかさえわからない。
 そしてここでも書かれているように、外来での問題は心気症的なものなのである。外来で初診の患者さんがきた場合、医者が考えていることは「数日で急変して死んでしまうような病気はないだろうな」あるいは「緊急手術が必要になるような病気ではないだろうな」ということであって、そうでないと思われれば診断がつかなくても、あるい自分の診断が間違っていてもあまり気にしない。大部分の症状は何もしなくても、あるいは薬を使ったにもかかわらず治ってしまう。だからまずあたりさわりのない薬を出してみて、それでもよくならないか悪化する場合には、ひょっとすると何か本当に病気があるのかなと腰をすえて考えても遅くはないと思っている。だから患者さんとの信頼関係というのは大事で、あの医者の薬は効かない、別の医者のところに行こうと思われたのでは、このポリシーが成立しなくなる。もちろん、後医は良医であって、あそこにいって薬をもらってけど全然効きませんといってきた患者をみたら、次の医者はひょっとして何かあるかもしれないと思ってみてくれるであろうが。それで自然治癒力に委ねていいような症状の場合は、自然経過でよくなるまでのあいだ、対症療法的に症状を軽減していれば問題は自動的に解決してしまう。心気症的な訴えの場合は必ずしもそうはならない。軽度の心気症は治ってしまうことも多いが、つねにどこかの身体の不調を訴え続ける患者さんも一部いて、動悸の訴えが続いたあとは胸が痛み、それがよくなったと思えば今度は胃が痛むことになる。医者からいうと、あ、また来た、という感じで、ろくに話をきかないし、はじめから、どうやってこの場を帰ってもらおうかなというようなことばかり考えている。心気症のひとが本物の身体的疾患にかかった場合、発見が遅れるだろうと思う。がんノイローゼのひとだって本物のがんになる。
 現在、外来では初診の場合、待ち時間のあいだに問診票を記入してもらう場合が多い。だから患者さんが診察室に入ってくる前に、医者は先にそれを読んでいて、すでにかなりの診断の方向を作ってしまっている。やらたと細かくたくさん書いてある場合は大抵なんにもないことが多い。「5年前から」などと書いてある場合もまず何もない。もちろん、例外はあるわけだが、すでに問診票を一瞥しただけで予断をもってしまっているわけである。細かくたくさん書いてあるものは心身症、5年前からも心身症であろうというバイアスが最初にかかってしまう。そうすると患者さんの訴えを真剣にきくのではなく、どうやってあなたは病気ではありませんということを納得してもらえるだろうかという方向にはじめから頭がいってしまう。(真剣にきいているふりはする。しかし、それがふりであることは敏感な患者さんにはわかってしまうだろうと思う。)
 もちろん、この患者さんはグループマンもいうように病気である。しかし患者さんが想定している病気ではない。だから「あなたの症状を説明できる病気は今のところみつかりません。少なくとも、すぐに命にかかわるとか、早めに治療をはじめないととりかえしがつかなくなるような病気の心配はまずありません。そうだとすると何か精神的な要因が今の症状の原因である可能性が高いと思いますが、その考えられる要因の一つは重大な病気への懸念であると思います。その懸念については安心してもらっていいと思います」というようなことを説明することになる。納得しないひとも多いが、その場では安心するが、またしばらくすると心配になってきてやってくるものもある。「先生、本当に大丈夫ですよね。もう一度大丈夫と言ってください」などとやってくる。極端な場合は、こちらが何もいわないうちに「やっぱり、大丈夫ですね、安心しました」などといって帰っていく。「先生の顔をみたら安心しました」などとわけのわからないことをいって、薬もなしに帰ってしまうひとまでいるので、つくづくと医療が科学になるわけはないなあと思う。そしてそういう患者さんの中に、本物の白血病であるとかグルテン不耐症の患者さんが混じってやってくるわけである。
 著者がいうようにプライマリーケアというのは医療のなかで一番難しい領域なのだろうと思う。
 

医者は現場でどう考えるか

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