高齢者医療―昨日の続き

 昨日、橋本治さんの「いつまでも若いと思うなよ」を論じて、どうも日本の高齢者の医療はこのままでいいのかなというようなことを歯切れ悪く書いたが、今日読んだ「新潮45」の11月号(橋本さんの本ももともとこの雑誌に連載されたものであったので、そういえばこんな雑誌もあったなと書店でたまたま手にとってみた)に里見清一さんというお医者さん(呼吸器内科 腫瘍学の専門家と書いてある)が「医学の勝利が国家を滅ぼす」という論を書いていた。
 よく効くけれども滅法高価な抗癌剤がでてきているが、そういうものを制限なく使うことがいいのだろうか、というところから論をはじめている。実はわたくしがいささかかかわる肝炎の分野でも一錠6万円とか8万円という薬が登場してきて同じ問題に直面している。肝炎の場合は12週、つまり84日使うだけだから、5百万から7百万という程度であるが、抗ガン剤の場合は有効であればエンドレスに続けることになり、ある薬は里見氏の試算で年3500万。もちろんこんな金額は患者本人で負担できるはずもないから大部分は国家負担(肝炎の場合は個人負担が1〜2万、治療3ヶ月で3〜6万)、つまり税金の負担となる。大丈夫か? 無論、大丈夫なはずはない。しかし、日本の医者は国民皆保険と高額医療費負担制度によって世界の中でもコスト意識がきわめて低い。
 里見氏の提言:
 短期的対策:治療開始早期に効果がない患者をみきわめ、なさそうであれば、投与はやめよ。あまり効いているとは思えないが、万一、あとから効いてくることがないともいえないので続けるというような使用法はやめよ。まして、効いてはいないがこれが効いていないと宣告することは患者の最後の希望を奪うことだから患者に希望をもたせるために使うというようなことはやめよ。患者の希望を打ち砕かざるをえないという現実から目をそむけるな。
 長期的対策:アメリカのエマヌエルという医師の「なぜ自分は75歳で死にたいのか」という随筆の紹介。エマヌエル氏は75歳になったら首を吊るとか薬を呷るとかしようというのではない。すべての「治療」を拒否する。しかしこの「治療」とは積極的治療であって、癌になって疼痛がある場合の除痛などは積極的におこなってほしい。しかし手術などはしない。W・オスラーの「肺炎は、高齢者の友であって緩慢な死から救うもの」という言葉を引用して、抗生物質も使わないという。「苦しいのはとって欲しいが、すべて寿命と諦める」のだ、と。エマヌエル氏は自分の場合はそうしてほしいというのであるが、里見氏はこれが自分の採用する長期的対策であるという。
 具体的には、白内障の手術はどんどんとすべき。大腸癌の根治手術はしないが、通過障害除去手術はどんどんとする。無症状の高血圧は治療禁。しかし境界領域については専門家がガイドラインを作る。それを破った医師については、医師免許剥奪、国外追放。どうしても延命治療をしたい患者も国外脱出は可。ただし国籍剥奪、帰国は不可。
 健診は今症状が生じていない病気をさがすことで、高齢者には無意味だから、上限は70歳。
 現実に考えてみる。高血圧の治療をしていた患者さんに、「ああ75歳ですね。今日から薬はなしですね」と言えるか。ほとんどのケースはもともと投薬がいらないのである。念のための治療である。高血圧や脂質異常の治療は、投与している大部分には最終的には無意味であるが、一部のひとには有効であるから、誰かを救えるのであれば、その誰かが誰なのかはわからないからとりあえず使っておこうというものである。抗癌剤の場合のように早期に有効か無効か確かめる手段がない。そして専門家のつくるガイドラインは専門家のほとんどに製薬会社の紐がついているのでまず治療を続ける方向の線になることは目に見えているし、そもそもそういうガイドラインの策定自体に製薬会社は反対するであろう。
 わたくしは中井久夫氏の「患者には希望も処方すべき」という見解の信者なので、患者の希望を奪う治療というのにはどうも抵抗がある。というのは最近の若い先生方の一部は、患者家族への説明で「検査の結果は癌でした。すでに進行していて根治不能です。この病気では今のところいい薬もありません。統計的にはこの状態では平均余命は8ヶ月です。一年は大丈夫かもしれませんが、3年は無理です。悪ければ半年以内だってありえます。ご自分の人生ですから、あとはよく自分で考えてください。じゃあ」という言い方をするようなのである。言葉はただであって、もう少し言葉で希望を処方できるのではないかと思ってしまう。実際は自然経過を見ているのだが、希望は処方しているというやりかただってあるだろうと思う。中井氏は「ごめん。今の医療では治療法がないが、医学の歴史では、予想外の有効な治療がしばしば発見されてきている。それに希望を託して、一緒に頑張っていこう」というような言い方を提言している。それをして悪いことはないのではないかと思う。
 わたくし自身のことをいえば、胃の内視鏡も大腸の内視鏡も受けたことがない(胃のバリウムの検査は25歳と35歳で一回づつ)。健診の簡単な血液検査などはしているが、これは勤務先の規定で、受けないと担当者に迷惑がかかるから受けているに近い。最近、それで成人病がみつかってしまったが・・。もしも胃癌とか大腸癌がみつかったら、運が悪かったと諦めるということだと思っている。こういう考えになるのは医療の世界の中にいて、その表と裏を知っているからで、医療者にもやたらと検査を受けるひととまったく受けないひとの双方があるようである。おそらく里見氏のような見解がでてくるのは里見氏が医者であって医療の光と影を知っているからで、マスコミで報道されるのは光の部分だけである。光の部分しか見ない人が医療に幻想を抱き、過剰な期待をよせるのは仕方がないのではないかと思う。オスラーの見解に反し、国は肺炎球菌ワクチンの接種を高齢者に奨励している。たぶんオスラーの頃には抗生物質がなかったはずである。ないからオスラーの言葉が残ってきている。知ってしまったということは絶対で、もう後戻りはできないということだと思う。なぜ抗生物質が発見されたのかといえば、「病」というのが人間にとって「災厄」であって、それを何とか克服したいと思ったからである。人間というのは「自分」という意識を持ってしまった動物で、自分の未来の死ということを知っている(おそらく)唯一の動物であり、医学というのはそれゆえに出てきてものなのだから、里見氏の提言は実際にはただ無視されていくのだろうと思う。そんなことは解っているよ!、でも・・。
 アメリカでは家族の一人が肺癌になると十三分の一の確率で家庭は五年以内に破産するのだそうである。