今日入手した本

統計学が最強の学問である

統計学が最強の学問である

 この本が売れていることは知っていたのだが、タイトルがいやで敬遠していた。若手のばりばりの統計学者が統計学がいかに有効であるかと鼻高々に滔々と述べてブイブイいっている本だろうと思っていた。だが、最近のディオパン事件というひどい話をみていて、やはり統計学についてすこしは知らなければと思って買ってきた。内容はいたって穏健な統計学入門の本のようである。やはり偏見はいけないなと思った。
 著者紹介によれば、西内氏は東大の医学部をでたひとらしい。もっとも臨床にはたずさわっていないようである。そのためか医療関係の話題も結構でてくる。たとえば「人類の寿命は疫学が伸ばした」という項がある。「タバコを吸えば肺がんをはじめとしたがんになるリスクが高まるということも、血圧が高ければ心臓病や脳卒中になるリスクが高まるということも、現代に生きる我々にとっては当たり前の常識である。しかし、ほんの50年前に、アメリカのフラミンガムという田舎町で行われた大規模な疫学研究での結果が公表されるまではまったく明らかではなかった」として、医学研究と健康政策の方針は変わり、50年前よりも我々の寿命はずいぶんと伸びた」という。
 タバコが肺がんをふくめた癌のリスクを高めること、高血圧が心臓病や脳卒中のリスクを高めることは、事実であると思う。また50年前よりも我々の寿命が伸びていることも事実である。しかしそれが「医学研究と健康政策の方針が変わった」ことによるといっていいのかについては疑問を感じる。
 われわれの(少なくとも日本人の)寿命を伸ばした最大のものは経済成長による栄養状態の改善ではないかと思う。おそらく日本人の身長はこの数十年で相当に伸びていると思う。そのような短期間に遺伝子が変わることはありえないから、これは栄養状態の改善の寄与が圧倒的に大きいはずである。途上国の人々の寿命を伸ばす最善の方策は、政情の安定と飢餓の克服であるはずである。ソヴィエト崩壊前後でロシアの平均寿命が大幅に短くなったことはよく知られている。不安定な政情はわれわれの健康に非常に大きな影響をあたえる。健康について医療が果たしてる役割はそれほどは大きくないのではないかだろうか。
 タバコが喫煙者の癌や心臓病のリスクを高めるということは間違いはないと思う。著者は「リスクを覚悟のうえでタバコを吸うなら、それはそれで自由である」といい、さらに「副流煙による家族や知人の健康リスクもできれば考慮していただきたいところ」という。
 わたくしが未だによくわからないのが「副流煙による家族や知人への健康リスク」というのが統計学的にはっきりと明示されているものなのだろうかということである。受動喫煙の害ということを最初に言い出したのは平山雄氏であると思うが、平山氏というのは毀誉褒貶いろいろとあるひとで、論文のもとになった基礎データについては公開を拒んでいたのではないかと思う。とにかくタバコというのを悪魔のように嫌っていたひとのようで、生前、学会で氏の発言を聞いたことがあるが、なんだか宗教家のようであった。わたくしは禁煙運動というのが嫌いなのであるが、どうもそれが宗教運動のような匂いがして仕方がないのである。とにかく清教徒的な運動というのがいやで、嫌煙運動の総本山はアメリカだと思っているので、アメリカの一番いやな部分がでている運動であると思っている。倉橋由美子さんの「城の中の城」のなかの、(宗教家というのは)「己れの意に従はない強情者に出会ふと、業病にかかつてゐることに気付かぬ憐れなる者よ、といふ目付きで相手を見る」というのに深く共感する困った人間であるので、医療の世界では敬遠されつつあるパターナリズムへの共感を捨てきれない人たちが、禁煙運動のもとに結集しているのではないかという偏見を捨てきれない。その偏見のもとで書くと、受動喫煙の害の最大の根拠は、低温でのタバコの燃焼が高温での燃焼以上に様々な有害物質を産生するということにあると理解している。タバコを吸う場合、タバコの燃焼している部分は高温になる。吸っていないときは、タバコは低温で燃焼している。その場合のほうが有害な物質を多く産生するので、喫煙している本人だけでなく、タバコを吸うひとの周囲にいるひとの健康にも大きな影響をあたえるということなのだと思う。仮にこれが本当であるとしても、閉鎖空間にいる場合ならともかく、オープンな場所においては、低温燃焼で生じた有害物質は大気中に拡散してしまうはずでとても健康被害をおこすとは思えない。だから路上喫煙の禁止などということが健康対策として有効であるとは思えない。わたくしはタバコは吸わないし、タバコの匂いも好きではないが、それは香水の強い女性が苦手というのと同じであって、本人がいいと思っている以上、わたくしが嫌でも、それをやめろという権利はないとわたくしは思っている。
 西内氏は、ナイチンゲールが戦争に従軍した兵士の死因を集計した結果、戦闘で追った傷自体で亡くなった兵士よりも、負傷後に何らかの菌に感染したせいで死亡する兵士のほうが圧倒的に多いことを明らかにして、戦争で兵士ひいては国民の命を失いたくなければ、清潔な病院を戦場に整備しろと主張したが、清潔な病院を整備すれば戦死者を減らせるか、そして病院の整備にどれだけのコストをかければそれだけの命が救われるのかという点については何も答えていない、といっている。わたくしの理解が違っているのかもしれないが、ナイチンゲールは具体的に戦場の病院で、患者同士の距離をなるべく離すということをしてそれで具体的に戦病死が減るというデータを出していたと思っている。ナイチンゲールの凄いところは、抽象的な理念を述べるのではなく具体的な対策を示しているところであると思っているので、この部分には違和感を感じた。
 最後のほうで、「To err is human, to forgive devine 」というのを聖書の言葉であるとしているが、詩人ポープの言葉なのではないだろうか? 邦訳書の「人は誰でも間違える」にもそのことは書いてあったように思うのだが・・。
 わたくしはヘソが曲がっているので、統計学の本というと、谷岡一郎氏の「データはウソをつく」とか「「社会調査」のウソ」とかいった、統計というのがいかにまやかしをおこなえるものかといった方向の本を多く読んできた。それで「データはウソをつく」を本棚からだしてきてみてみたら、以下のような部分があった。ディオパン事件のことを書いているようにも読めたので、そのまま引用してみる。「学問に向いていない人々」というところである。「自分の研究に対し、資金を提供してくれる人がいるとします。その研究において、スポンサーが期待する結果と異なる、どちらかと言えばスポンサーが望まない結果が出たものとしましょう。そんな時、自分の研究結果の発表を躊躇するような人間は、そもそも研究の道を歩むべきではなりません。・・ある大学病院の教授が、ある製薬会社の新薬を試す依頼を受け、巨額の研究費を毎年もらっているとしましょう。ところが新薬には、何の効果もなく、古い薬のほうがマシだということが判ってしまいました。こんな時、あたりまえの話ですが、効かない薬は効かないと報告すべきです。なのにデータを隠したり、もっとひどいのになるとデータを捏造するケースすらあるのです。・・研究は真理の追究を優先すべきで、それができないなら研究者になるべきではありません。残念ながら、データの改竄や捏造は、世の中にいくらでも例がありまして、最近でも国立大学や有名な私立大での不正行為が報じられていました。」 この本は2007年、初版である。
 また谷岡氏はいう。「実社会で自分の信じることを堂々と主張すること。言うは易いが行うは難しいのは、百も承知であえて言います。人間関係を気にして、正しいと思うことを言えない人は、会社で言えば部長止まりの人間です。・・してみると、日本という国は、学問に向いていない人が大半のような気がしてきました。」 
 日本の医学部の教授というのは、大半が本来は部長どまりの人間がトップになっているということなのかもしれない。
「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ (文春新書)

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