中井久夫「笑いの生物学を試みる」in「「昭和」を送る」

 
 人間は自分が優れているのだぞと言いたくて、いろいろなものをこれは人間にしかないと言い張ってきた。笑いもその一つである。それもまた人間の傲慢の一つであるのかもしれないが、笑いはヒトのおごりをも笑える。笑いはパンドラの箱に最後に残った希望の変形かもしれない。
 肺が魚のウキブクロからの転用であるように、生物の形態の違いも転用によることが多い。それならば、笑いは何の転用か?
 前頭葉前野こそがヒトのヒトたる所以とみな思っている。ではそれはなんのためにできたか? それが何をしているかはよくわからない。どうも何かを抑制しているらしい。中井氏は私見として、脳のほかの部分が複雑化しすぎてコントロールが効かなくなったので、やむなく開拓されたのではないかという。従来コントロールに大きな役割を演じていた小脳だけでは足りなくなったのである。人間の複雑さと不安定さがそれを必要とした。
 最近の研究によればヒトはほかの哺乳類よりも感覚が一万分の一ぐらい鈍感なのだとされている。言語というのは感覚を減圧することがでができる。
 笑いは前頭葉前野が破壊されても生じる。笑いは前頭葉前野のできなかったことを補うためのものではないか? 前頭葉前野による抑制により生じる緊張を一挙に解除するためのものではないか?
 笑いは免疫力を増進させる。笑いの本来の機能はそれで、それが転用されたのではないだろうか? 笑いは癌などの難病の治癒に促進的に働くとされている。それは無理に笑い顔を作ることでも有効である。脳はだまされて免疫能力を増加させるであろう。カズンズの「笑いと治癒力」を見よ。
 笑い茸を自ら服用した医師の報告がある。まずおこるのが絶望であるという。それがとことん深くなったところで、笑いがおき、それが一気に増大していくのだそうである。
 笑いは全身の筋肉を弛緩させる。あるいは脳を含めて総身の緊張を一気に緩める。
 大笑いは詩にならない。詩になるのは微笑みである。微笑は対人関係にかかわる。
 ヒトは今のところ天敵がいない。ほかの獣に食べられることは通常ない。その代わり、同類であるヒトに歓迎されるかどうかが大問題となる。出生直後の新生児の微笑はそれによる。それは生き残りをかけた行為である。山道ですれ違う登山者が「こんにちは!」と言い合うのは、私は無害ですという表明である。だから、ひとが自分と仲良くなっているときにも微笑はおきる。微笑がなければ、人類は現在まで持っていなかったかもしれない。
 座談会の記録に、(笑い)という付記がよくある。これを言語でおきかえようとすればどれだけの長文を必要とするか、しかもそれはひとをしらけさせるであろうことを想起せよ。
 笑いは人間の複雑性から必要となる。複雑性は言語を発達させたが、それは解毒剤を必要としたのである。
 
 この短い文(20ページに満たない)の中で一番印象的だったのが、《ヒトはほかの哺乳類よりも感覚が一万分の一ぐらい鈍感》なのだという部分であった。ヒトの嗅覚などはほとんど退化寸前のようなものだし、こんな鈍感さでは、もしも人間に天敵がいていつ食われるか解らないのであれば、あっという間に絶滅してしまうであろう。それでも自然に近く生きているひとはまだわれわれよりはずっと増しらしくて、土に残った足跡をみて、それが何という動物の何日前の足跡で、それが何匹で、そのうちに子供が何匹いるかというようなことがすぐにわかるのだそうである。都会に生きるわれわれからはそのような能力はまったく失われてしまった。
 そして、天敵がいなくなった代わりに、われわれの敵はわれわれ人間ということになってしまっている。そして微笑も生き残りのための大事な武器というわけである。大分以前、動物行動学の本をいろいろ読んでいるときに、確かアイブル=アイベスフェルトの「愛と憎しみ」だったかを読んでいて、微笑みというのが万国共通のサインであるという話を読んでびっくりしたことがある。それは文化の産物だと思っていたのである。他人が微笑んでいるのを見て、それがどういう効果をを発揮するものなのかも見て、そういう効果をねらって自分も微笑んでみるというようなことが繰り返されているのだと思っていた。アイブル=アイベスエルトの説が正しいのであれば、微笑というのは生得的なものであることになる。
 動物行動学を読んでいて一番びっくりしたのが《生得的》という概念で、生得的解発機構(雁のうまれたばかりの子供が、最初にみた動くものを母親と認識するという「刷り込み」など)というのには本当に驚いた。つまり、それがまったく機械的なものに思えたのである。自分を世話してくれるものが母親なのではなく、最初に見た動くものが母親なのだから。
 微笑も何かこころ楽しいことがあるから自ずと浮かぶものではなくて、自分は敵ではありませんよ、という信号として人間の生得的に備わっているものだということになる。赤ちゃんは何かうれしいことがあるから微笑んでいるのではなく、無力に生まれ来たものとして必死で生き残りのための戦略として微笑んでいることになる。
 微笑も笑いの一種である。笑いが前頭葉前野の緊張をとくためのものであるとする。いわば前頭葉前野がいつも戦争状態にあるとすると、それでは持たないから、一時的に武装解除する、それが笑いであるということなのだろうか? 昔読んだ福田恆存の「チェーホフ」にこんなところがあった。「ひとびとはむだ話においてしか完全にたがひを愛しえぬといふことを、チェーホフは本能的に感知してゐた。ひとびとはそこにおいてのみ、完全に自我を抛棄しうるであらう。しかし、この無防備の、構へをまつたく抛棄した快楽のうちに身をゆだねてゐるとき、相手がほんのすこしでもこの生理的快感に不協和な心のうごきを見せたならば、チェーホフの触覚があやまたずそれを感知する。このとき、ひとはチェーホフをサイコロジストと呼び、インプレッショニストと称するのだ。が、かれは見ようとして見たのではなく、たんに生の快楽を邪魔されたのにいらだち、その防衛本能が敵の所在をかぎつけたといふだけのことにすぎない。」 ここでのむだ話が笑いでもあるのだろうか?
 笑いは免疫力を増進させるという。一般に免疫にかかわるさまざまな物質というのは非常に産生にコストがかかるものなのだそうで、しかもそれは将来に使われるものであるので、今現在がすべてという状況ではそんなものを産生している余裕はない。持てるものすべてを今現在につぎ込まねばならない。
 笑いがある状況というのは、今は安全で現在がすべてという状況ではないということである。とすれば、免疫にかかわる物質を産生する余裕があるということである。逆に、免疫関連のさまざまな物質というのは相当な投資のもとに産生されたものであるから、無駄に使うことはできない。もしも近い将来にそれが必要とされる事態がありうるのであれば、今現在に使うことはまずいかもしれない。笑いがあるということは近未来に免疫物質を使う事態がおきる可能性は低いということである。そうであるならば今使ってしまっても大丈夫かもしれないことになる。
 もしも、癌や難病になって貯蔵された免疫物質を使うなら今、という状況になっても、免疫関連物質が使われるか否かは自分の意思とはかかわらず、身体が感じている状況判断に依存しているわけである。身体は笑いがある状況であれば、Goサインがでることになる。
 笑いというのは、今は安全かどうかということを感得するシステムと、いまは自分は武装解除していますと対外的に発信するシステムとが結びついた、あるいはどちらかがどちらかへ転用されたものであるということが、この文で中井氏がいいたいことなのかもしれない。
 われわれは悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのであるというジェームズ=ランゲ説は、ある情動を最初に感じるは肉体であって、その肉体がおこした反応を脳が感知して、ああ自分は今悲しいのかと理解するというような仕組みを想定した説なのであろうと思う。ここで中井氏がいっていることはその変形で、われわれはうれしいから笑うのではない、笑うからうれしいのであるということなのである。とすれば無理にでも笑い顔をつくれば、脳はそうか今自分はうれしいのだと信じ込み、自分は今安全なのだと感じて免疫反応を開始することにGoサインをだし、癌や難病にたちむかうことにプラスにはたらくというそういう仕組みを想定しているのであろう。
 医療における非常に大きな問題がプラシーボ効果であるが、おそらくその効果のかなりの部分は、薬理効果のないプラシーボであってもそれが患者さんに安心感をあたえ、それが免疫物質のリリースにつながり、結果として大きな臨床効果をだすというようなことなのではないかと推定される。中井氏は薬を処方するときに、「これが効くといいね」とこころのなかで唱えてわたすのだそうである。おそらくそう念じることが表情にもあらわれ、それが患者にも伝わり、それがプラスの効果を生むということを期待してなのであろう。なんだかオカルトじみた話ではあるが、「(うるさいなあ、この患者! なんか薬ださないと帰りそうもないから、何でもいいから薬だしとけ!)はい、わかりました。じゃあ、この薬で様子を見てくださいね。(ああ、終わった、やれやれ)」で薬をだす場合とはすこしは効果が異なるのではないかという気もする。
 バリントという精神科医(その著作の多くを中井氏は翻訳しているようである)は「一般臨床で、断然最もしばしば用いられる薬は、医者自身であり、問題になるのは、水薬や錠剤だけではなく、医者がそれらをどのようにして患者に与えるかということである。−事実薬が投与されたり、受け取られたりする時の雰囲気の全体が問題となる。・・(だが)医者という薬の投与量、薬形、投与回数、治療量と維持量などについては、どんなテキスト・ブックにも教えられていない。さらにいっそう心配なことには、この薬の投薬に伴う恐れのある危険性、個々の患者にみられ、慎重に監視しなければならない、さまざまなアレルギー状態、あるいはその薬(医者)の望ましくない副作用についての文献がなにも見当たらないことである」といっている。こんなことがいわれるようであれば、臨床の場は永遠に科学にはならないわけであるが、中井氏は「昔も今も「怒鳴り系」といわれる医師が少なくないのが現実で、精神科医はましなほうであろうと思いたい」という。確かに怒鳴って薬を出したのでは薬の効果は期待できないだろうなあと思う。
 いつもというわけではないのだろうが、中井氏は一人の患者に1時間とか2時間をかけるわれわれからすると夢のような外来をしていたらしい(現在、もう臨床はしていないようである)。それは大学教授というものの特権なのかもしれないし、氏のような高名なひとだから許されることなのかもしれないけれど、精神科というのは診療単価がきわめて安いので有名であるのだから、一般の診療所であれば明日つぶれてしまう。われわれのように一日に50人とか60人とかの外来をこなさねければいけない医者にとっては、せいぜい一人にかけられる時間は10分である。実際には多くの患者さんは本当に3分間診療である。病院にくるのに往復2時間かかって、2時間〜3時間待たされて3分間診療ではよく暴動がおきないと思う。患者さんが怒りださないのが不思議である。それに対する数少ない対策としては、「いざというときがくれば、あなたのためにちゃんと時間をとりますからね、今日は変わりがないで3分で我慢してくださいね」オーラを出しながら診察することではないかと思う。そのオーラがうまく伝わるかどうか保証の限りではないけれども、少なくとも患者さんと敵対関係にあったら通じるはずもない。「怒鳴り系」がなりたつのが不思議である。
 われわれは自然に対する感受性が限りなく鈍麻していて、その代わり、多くの動物が生き残りのために周囲の天敵に敏感にアンテナを張っているかわりに、対人関係の問題にきわめて多くのエネルギーを割いている。ヒトの天敵はヒトなのである。とすれば医者=患者関係が医療のパフォーマンスに大きな影響をあたえるのはいたって当然の話である。臨床の場が無駄話や微笑みが交わされる場となり、その結果医者という薬の効果が最大限に発揮されるようになればいいのだろうなと思う。しかし、それはそれで医者が権威になりカリスマになり教祖になるという、現在では忌避すべきであるとされているパターナリズムの方向にどんどんと近づいていってしまうのである。
 内田樹さんが、ニーチェが「ツァラツストラ」を書いていた時代にはそんなことを言っていたのはニーチェひとりだった。だからその言が批評性をもった。しかし現在では、みんな自分が「超人」のような気分でいるようになった。超人たちが社会の主要な構成員となるというとんでもない時代になった。大衆自身がニーチェ主義者となってしまった、というようなことを言っている。現在におけるモンスター・ペイシェントとかモンスター・ペアレントというのは自分が「超人」であると思っているのである。ヘイト・スピーチを大久保辺りで叫んでいるひとも自分を「超人」であると思っているのであろう。そういう時代にパターナリズムが成り立つはずもない。
 それでもかりにパターナリズムが成り立つことがあるとすれば、自分は本来パターたる資格をまったく持たない人間ではあるが、今自分に与えられた役割にとってはパターを演じることが有効性を持つと判断されるので、やむなくそうするのであるというような意識的行為としてではないかと思うのだが、そういう場合に邪気のない微笑みというのが自然とでてくるのかどうか、それは難しい問題のように思う。
 同じ内田氏が別のところで、病気になるということは一時的に社会生活から降りることを許されること、一人前の大人でないことを許容される状況になることであるといっている。つまり「子供」になれる状況ということである。とすれば医者が臨時の「父」、代理の「父」となる関係がそれ故に生じるうるのかもしれない。
 従来、医療の世界におけるパターナリズムは情報の非対称性といったことから説明されることが多かった。専門知識を占有しているのは医者のほうなのだから、患者と対等の立場であるはずはないという論理である。その点にかんしても、ポパーはそのような専門性の神話は専門家がお互いの権威を保つために相互批判を控えることから生じるのであって、専門家は相互批判をすることによってそれを壊さなければならない、と主張している。
 だが、おそらく専門家の権威を突き崩せるものがあるとすれば、それは硬い相互批判よりも、笑いである。笑いはヒトのおごりをも笑えるものなのだから。「寛容」を主張したポパーも、自分への批判にはいたって不寛容なひとだったといわれる。笑いが苦手だったのかもしれない。
 つくづくと人間というのは難しいものだと思う。
 

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