「病の起源」1・2

  NHK出版 2009年2月・3月
  
 NHKスペシャルで放映された全6回の放送の内容を3回づつを2冊の本に収めたもの。(1)が睡眠時無呼吸症候群、骨と皮膚の病気、腰痛を、(2)が読字障害、糖尿病、アレルギーを収める。たまたま「腰痛」の番組をテレビで見て面白かったので読んでみた。「病の起源」というタイトルは、病気というものを主として進化の観点からみてみようという視点を示している。
 生物学(あるいは医学)も問題は、目的論的な記述から自由になれない点で、手はものをつかむためにあるとか、インスリンは血糖を下げるためにあるとかいう記述が普通になされる。しかし、それではそのような目的をもって作った設計者の存在を暗黙の内に導きいれてしまう。一方、生物学の基礎は進化論である。進化論の根底はそのような設計者の仮定を排することにある。したがって、説明はたまたま偶然に生じた変化が有利に働いたので選択されて残ったというようなまわりくどいものとなる。しかし、それではわれわれにみられるさまざまな不都合はなぜ残っているのだろうかという疑問が生じる。それに対して、それは全体としてはよい方向の変化に随伴した不都合であるという方向と、われわれの身体はずっと以前の生活(狩猟採集生活)に適応しているであって、農業以後の生活の変化には適合していないのだという方向からの説明がおこなわれる。本書のその行き方をとっている。
 
 a)睡眠時無呼吸症候群
 これは一言でいえば、ヒトの口蓋が小さくなったことによって生じた病気である。口が小さくなり気道が狭くなり、睡眠時の舌根の沈下によって呼吸がとまる。なぜ口蓋が小さくなったのか? 石器の使用により柔らかいものを食べられるようになったから。それは無呼吸という不利益をもたらしたものであるのだが、言語の使用を可能にしたものでもある。
 そのような病気であれば、昔からあった病気なのであろうが、これはまた肥満とも関係する病気であるので、人類の大部分の歴史においては問題にならなかったのかもしれない。しかし別名ピックウィック症候群で、ピックウィックはディッケンズの小説に由来するらしいから、そのころからあった病気なのであろう。しかし、恥ずかしながらわたくしは2003年の山形新幹線の居眠り運転事故までこの病気のことをまありよく知らなかった。本書によれば、1979年のスリーマイルス島原発事故、1986年のスペースシャトルの爆発事故、同年の旧ソ連チェルノブイリ原発事故などもみなこの病気によっておきたという説もあるらしい。人口の少なくとも3〜4%、中年に限ると9%くらいがこの病気をもっているという説があるらしい。
 
 b)骨と皮膚の病気:
 ヒトの祖先はアフリカのサバンナで暮らしていた。そこで移動するためには体毛を持つことは熱の発散には不利である。そこで体毛を減らし汗腺を増やした。しかしそれは同時に紫外線にさらされる脅威を増加させる。たとえば胎児の成長に不可欠な葉酸は紫外線で破壊される。そのバリアとしてメラニン色素が発達し皮膚は黒くなった。しかし十分な紫外線がないとコレステロールからのビタミンDが産生が促進されず、骨がもろくなる。赤道直下のアフリカでは合理的であった皮膚の色は、移動した地では不適となり、それぞれの土地であわせた皮膚の色となっていった。
 一方、太陽光は皮膚がんの原因となる。オーストラリアの白人には皮膚がんが多い。
 ビタミンDはがんの予防効果があり、糖尿病予防効果もあるらしい。心臓発作や脳卒中とも関連しているらしい。100年以上前の結核には日光浴がよいという話は、それがビタミンDの作用によるらしいことがわかってきた。インフルエンザが冬に流行するのも冬にはビタミンDが不足するからという説もあるらしい。ビタミンDは免疫を賦活するので自己免疫疾患はビタミンDの不足と関連しているのだそうである。アフリカ系アメリカ人アメリカで生活しているとさまざまなビタミンD不足からくる病気にかかりやすいとのことである。
 ここで書かれていることは、過ぎたるは及ばざるがごとし、何事も中庸が肝心ということである。日光浴は大切だがほどほどに、と。ビタミンDはがんの予防効果があるのに日光に過度にあびると皮膚がんを増やすというのも難しい。
 
 c)腰痛:
 腰痛はヒトが二足歩行となったことによるヒトに科された宿命である、というのは嘘であるという話である。もしそうであるなら、長時間歩きまわる生活をしているタンザニアの狩猟採集民族は腰痛に悩んでいるはずである。しかし、そんなことはない。そうではなくてこれは農業がもたらした前屈みの生活(たとえば脱穀)がもたらしたのだという。
 本書によれば、腰痛がありながら原因が特定できない「非特異的腰痛」は腰痛患者の8割以上を占めるのだそうである。それで作家の夏樹静子氏を例とした心因性の腰痛の話となる。心理的に不安定なひとは安定しているひとにくらべ、30倍も腰痛になりやすいのだそうである。
 わたくしがテレビの番組をみていて、もっとも興味深かったのが、痛みを感じたときに脳のどの部分が活動しているのかという話であった。通常の痛みは視床を経由する。慢性腰痛の場合は視床ではなく、前頭葉が活動するのだそうである。
 内科の医者は腰痛を訴える患者さんはすぐに整形外科に紹介してしまうので、腰痛についての知識は素人の方とあまり変わらない。しかし、腰痛ではなく頭痛は内科でみることが多い。そのうちの筋緊張性頭痛といわれるものが、この慢性腰痛に近いのではないかと思った。筋緊張性頭痛はその名のとおり、頭をとりまく筋肉の緊張亢進によって生じるとされていて、ストレスに起因することが多いとされている。本書でも腰の筋肉の緊張はストレスで亢進するとされている。
 頭痛を訴えて外来に来る方は脳血管障害などを心配しているかたが多い。話をきいただけで脳腫瘍とか脳血管障害は否定的であっても患者さんはCTやMRをとってもらいたい、それが異常なしでないと不安がとれないというので、仕方なしにとる。異常なしと説明して、筋緊張をおさえる(とされている)薬をだす。この場合、検査は異常ないですという説明のほうが薬ように効いているのではないかと思う。
 腰痛がありながら原因が特定できない「非特異的腰痛」は腰痛患者の8割以上を占めるなどというと驚きであるが、考えてみればわれわれが外来でみている患者さんの症状の相当程度は原因不明である。検査をしたり、あたりさわりのない薬を出したりしているうちに何となく治ってしまう場合が多い。時間が一番の薬である。だから「非特異的腰痛」もそのような経過をとるひとが多いのではないかと思う。夏樹静子氏のような重症のケースはあまり多くないように思う。
 
 d)読字障害:
 この病気については全然知らなかった。アメリカやイギリスでは10人にひとり、日本では20人にひとりがこの病気である可能性があるというのにである。
 文章をすらすらと読めない、読み違えたり、読み飛ばしたりするという症状らしい。日本では漢字が表意文字であるため、アルファベットを用いるところよりも症状が顕在化しにくいらしい。
 文字を読む場合、まず文字の画像が脳の視覚野にいき、それがいったん脳の前方へと送られ、さらに39野と40野で音の情報へと変換される。その音の情報が言語野であるブローカ野に届くとはじめて言語の意味が理解される。読字障害のひとは39野と40野の活動が不十分らしい。
 文法能力をふくむ言語能力はヒトに生得的なものとされているようであるが、それは話言葉についてであって、文字を読むということは、文字自体の発明が進化的にはきわめて最近のことであるので、脳に生得的に準備されていることはありえない。39野と40野は「視覚と聴覚と体制感覚」を統合することを本来している領域であり、読字という能力はそれを借りているらしい。実は、目で見て対象にちょうどいい力でものをぶつけるというようなことはきわめて高度の能力であり、それを人間が獲得したことにより石器の使用が可能となったのだという。
 本書に指摘されているように、多くのひとが文字を読むようになったのはたかだかこの100年くらいのことである。これは生得的なものではなく、ピアノが弾けるようになるのと同じに、学習で身につけるしかないものなのである。
 むかし養老孟司さんの「唯脳論」を読んでいたときに、文字を読むということが視覚と聴覚をむすびつけるということであるとあって、そんなことを考えたこともなかったのでびっくりしたことがある。それが具体的に脳のなかでどのようにおこなわれているかについてもかなりわかってきているらしい。学問の進歩というのは凄いものである。
 訓練すれば手話もまた視覚と聴覚を結びつけることができるのであろう。
 
 e)糖尿病:
 さすがにここにはあまり目新しいことはなかった。狩猟採集時代において、ひとは食料があまるという事態がおきることはなかったという話である。だから目の前にあるものは食べられるときにたべておくことは(その当時の)ヒトにとって合理的な行動だったわけである。飽食の時代などというのはヒトの身体は想定していないのである。
 
 f)アレルギー
 スギの花粉症が日本ではじめて報告されたのは1964年なのだそうである。枯草熱は19世紀初頭にすでに報告され、牧草の花粉が原因であることも19世紀末にはあきらかになっていたにもかかわらず。
 アレルギーのもととなるIgEは、もともとはダニや寄生虫への対抗のためのものである。それがわれわれの環境が清潔になり、ダニや寄生虫が問題とはならなくなって、免疫反応が暴走をはじめたのがアレルギーなのであるという。
 
 通常、文明病というと高血圧や糖尿病・高脂血症や肥満などをさす。しかし、ここで紹介されている睡眠時無呼吸症候群骨粗鬆症も腰痛も読字障害もアレルギーもまた文明病であることになる。花粉症はもはやありふれた病気である。睡眠時無呼吸症候群もそうらしいし、読字障害もとても多いらしい。「文明」が農業文明であったり、最近の清潔社会であったりと、時間スケールはさまざまであるが、何十年かすると今はみたこともない、あるいはきわめて珍しいと思っている病気がありふれたものとなっているかもしれない。
 われわれは生態学的にはきわめて正常ではない生活をしているわけだから、それが今は想像もしていない病気を次々に生みだしていくのかもしれない。藤田紘一郎氏は過度の清潔志向社会に警告を発している。インドネシアの汚い川で遊んでいる子どもたちにはアレルギー性疾患などはほとんどないのだそうである。
 

NHKスペシャル病の起源〈2〉読字障害/糖尿病/アレルギー

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