R・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性」 その1 序論

  岩波書店 2000年
  
 この本は東浩紀氏の「文学環境論集L」の「新しい批評のための20冊」の中の一冊として紹介されているので知った。東氏によれば、ポストモダンの本質である「自分が信じていることをひとに伝えるときに、それを皆が信じるべきだと言えなくなること」の葛藤についてもっとも簡単に書いている本ということである。この葛藤と折り合いをつける強さのことをローティはアイロニーを読んでいるとp107にもある。それで読んでみたのだが、とてもそんな簡単な本でではない。実はそのあと同じくローティの「アメリカ 未完のプロジェクト」を読み、それも大変面白かったが、同じ著者の本だろうかと思うくらい「偶然性・・・」とは肌合いの違った本であり、さらその後に入手した「哲学と自然の鏡」にいたっては難しくて全然ついていけそうもない本であった(ローティが議論の相手としている相手の説をこちらはまったく知らないのであるから、議論の方向が読めない)。とにかくも「偶然性・・・」は大変面白い本であったので、少し細かく読んでいきたい。ローティはアメリカの哲学者。
 まず、「序論」を要約してみる。
 プラトンの「公正であることが、なぜ利益になかうことになるのか」という問題と、キリスト教の「完全な自己実現は他者への奉仕を通じて達成される」という命題は、公共的なものと私的なものを融合しようとする試みである。その背景には、人間には共通の本性があるという認識がある。プラトンキリスト教の主張である人間の連帯感を疑うものであっても、権力への意思とか、リビドー衝動といった人間本性論を基底にもっている。
 一方、ヘーゲル以来の歴史主義の思想家は、そのような人間本性を否定し、社会や歴史環境が人間を作るとした(「一個の人間であるとはどういうことか」という問いから、「豊かな二十世紀の社会に住むとはどうういうことか」という問いへ)。
 この歴史主義的見方の出現によって、神学と形而上学から次第にわれわれは自由になってきている(「真理」から「自由」へ)。
 しかし「真理」から「自由」へという転換がおきたあとでも、私的なものと公共的なものの間の昔からの緊張関係は残っている。
 本書で以下述べようとすることは、自己の創造と私的な自律を、つまり私的なものを重んじる思想家(たとえばハイデガーフーコー)と、公正で自由な人間共同体への欲求を、つまり公共的なものを重視する思想家(たとてばデューイやハーバーマス)のどちらが正しいか、と議論することは過ちなのであり、そのどちらも重要であり、それらは異なった目的のために用いるべきだという主張である。
 つまり、「自己創造」と「正義」、「私的な完成」と「人間の連帯」を単一のヴィジョンで包括しうるということはありえない、そういうことを可能にする哲学や理論は存在しない、ということである。それらは共約不能なのである。なぜなら、人間の本性などは存在しないからである。
 シュクラーは、リベラルとは《残酷さこそが私たちがなしうる最悪のことだと考える人々》のことである、とした。自分の持つ信念や欲求は偶然性に由来することを認める人、時間と偶然を超えた何ものかに由来するものではないことを認める人、すなわち、歴史主義的で唯名論的な人を、ローティは「アイロニスト」と呼ぶ。したがって「リベラル・アイロニスト」とは、「人が受ける苦しみは減少していくであろう、人間存在が他の人間存在を辱めることをやめるかもしれない」という希望をもつものであるが、その自分の希望には何の基礎づけもないことを認めている人のことである。
 リベラル・アイロニストとにとって、「なぜ残酷であったはならないのか」という問いへの答えはない。また「いつ不正に立ち向かうべきで、いつ自己創造に没頭すべきか」についての答えも持たない。
 この問いに答えがあると考えるものは神学者形而上学者である。時間と偶然を超えた何らかの秩序が存在すると信じる人間である。
 そのような秩序は存在しないとするアイロニストは知識人の中でも少数派である。知識人以外の人のほとんどは、いまだに宗教的な信仰か、啓蒙の合理主義の中にいる。
 しかし、ポスト宗教の文化が可能であったのならば、ポスト形而上学の文化もまた可能であるはずである。
 人間の連帯は「偏見」を除去したりすれば達成できる問題ではなく、想像力によって達成されるべきものである。ほかの人々への感性を広げることは、理論の課題ではなく、文学の課題である(「理論」から「物語」へ)。 そのためには、われわれの生を規定する単一の語彙などはないということを承認することが必要である。それは永遠に達することのできないユートピアへの際限のない過程ではあるのだが・・・。
 
 この序論だけ読んでも、東氏のいう「アイロニー」とローティの「アイロニー」は全然違っていることがわかる。ローティによれば「アイロニー」とは人間が歴史の産物であることを受け入れ、人間を超える原理を認めないということである。ローティは公共的なものを否定するわけではない。それに根拠をあたえるものがないというだけである。
 東氏のいう「大きな物語」の終焉も、「人間の連帯」を包括しうる単一のヴィジョン(たとえばマルクス主義)がなくなったということである。しかし、それは単になくなってしまったという受身の感じであって、積極的になしくたというものではない。なくなったことについては中立的であり、いいとも悪いとも判断を下していない。
 ローティは宗教的な超越的な存在、形而上学的な超越的な存在は人間の自由を掣肘するものであるとしており、それらがなくったことを是としている。自由という明瞭な方向を持っている。なによりもローティは「個人」というものを信じているのに対して、東氏は統一的な「個」というものについてかなり懐疑的である。
 本書の冒頭にクンデラの「小説の技法」からのかなり長い引用が掲げられている。この本につていは前に論じたことがありid:jmiyaza:20020128 id:jmiyaza:20020130、その時引用した部分が、本書の冒頭にもそっくり引用されている。以前、この本はヨーロッパ人が持つ「個人」への信頼、「人間の多様性」への信頼を表明した本であるというような感想を述べた。おそらく、「個人」というのはヨーロッパの発明品なのであり、小説もまたヨーロッパの産物である。「源氏物語」が小説の嚆矢であるとしても、(読んでいないけれど、たぶん)それは神話でもある。まったく無名のとるにたらない人間の話としての小説はヨーロッパのものである。そしてヨーロッパが世界を席捲したのは、科学技術の力もあるかもしれないけれども、「個人」という思想の力もまた大きかったのではないかと思う。おそらく「個人」を形成したのはキリスト教思想なのであろうから、宗教と形而上学がかりに歴史の表面からは消えることがあっても、その深層には「個人」という形で、その力は依然として残っていくわけであろう。とすると「アイロニスト」が自分を超える存在が規定する何かを一切信じないとしても、「アイロニスト」を作ったのも、またキリスト教であるということになるのかもしれない。もちろん、ヨーロッパがキリスト教を信じるようになったのはまったくの歴史的偶然なのであるが。
 「なぜ残酷であったはならないのか」という問いへの答えはない、とローティはいう。残酷であってはならない、と感じるのも歴史的偶然でたまたまわれわれがそう感じるようになっているだけということなのだろうか? しかし、残酷であってはならない、というのは文明的なことであって人間的なことなのではないか、とわたくしは思う。人間の本性として、人間は残酷であることを忌避するということはない、というのがローティのいうことなのであろう。残酷でないということは、人と人の関係を穏やかにする。険悪な関係より穏やかな関係がいい、というのもたまたま歴史的に偶然そうなっているだけなのだろうか? 仮に歴史的とするのであっても、進化の過程でそうであるものが生き延びてきたとすれば、それはほとんど本性といっていいのかもしれないが。しかし残酷であるよりも穏やかであることが、生き残り上有利ということは、なかなか説明が難しいのかもしれないが。
 フォースターは「私の信条」でこういっている。

 社会の基礎に力があることは、分かっている。だが、偉大な創造的行為やまっとうな人間関係は、すべて力が正面に出てこられない休止期間中に生まれるのである。この休止期間が大事なのだ。私はこういう休止期間がなるべく頻繁に訪れてしまし長くつづくのを願いながら、それを「文明」と呼ぶ。(「フォースター評論集」岩波文庫

 ここに「まっとうな人間関係」という言葉がでてくるが、なにが「まっとう」であるのか、われわれはわかるのではないだろうか? 一切が歴史的偶然によるのであり、なにが「まっとう」であるのかも、時代によって変る相対的なものである、という見方もあるであろう。しかし、少なくとも文明といわれるものが生じてから、数千年はたっているわけで、その文明がわれわれをそうさせたのであるとしてはいけないのであろうか?
 ローティはまた「ほかの人々への感性を広げる」ということをいう。しかし、これについてもフォースターが「寛容の精神」でこういっている。

 ポルトガルで暮している人が、まったく知らないペルーの人を愛しなさいなどという―これはバカげた話で、非現実的で危険です。こういう精神が行きつく先は、危なかしく怪しげなセンチメンタリズムです。(中略)われわれは、じつは、直接知っている相手でなければ愛せないのです。そして、それほど多くの相手を知ることはできません。文明の再建といった公の問題にはもっと地味な、あまり感情とは縁のない精神が必要で、それは寛容の精神です。寛容という美徳は、まことに冴えません。(中略)これは消極的な美徳なのです。要するにどんな相手でもがまんする、何事にもがまん、という精神なのですから。

 フォースターのいうように、ローティというひとにはどこかセンチメンタルなところがあるような気がする。それが欠点なのかもしれない。
 以下、各章を見ていく。

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性