R・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」 その2 第1章「言語の偶然性」


 この章の骨子は、

 世界は話さない。ただ私たちのみが話す。

 である。言語をもっているのは私たちだけなのだから、これは当たり前なのであるが、これが、

 文のないところに真理はない。

 というところにつながってくる。
 これまた、真理というのは言葉であるのだから当たり前なのかもしれないが、さらに、

 世界はそこに在る、しかし世界の記述はそこにはない。世界の記述だけが、真か偽になることができる。

 というのもその通りであるのかもしれない。
 しかし、記述をおこなう生命体が存在しないところでは、真も偽もないのであろうかというのがわたしくの抱く疑問である。地球の上に生命が生まれたのはまったくの偶然であり、それが人間に至ったのもまったくの偶然のなせるわざなのであろうが、宇宙には巨視的には物理法則が働いており、その動きは偶然ではなく、地球の上に人間という奇妙な生物が生まれようと生まれまいと宇宙に貫徹するものなのではないかと思う。
 重力の法則というものは人間の理解できる言語で表現されている(数学というのも一つの言語体系であるとすれば)。もしも、どこか別の星に知的生命体がいるとすれば、その生命体が持つ言語?体系はまったくわれわれには理解不能であろうが、それでも、その生命体がもっている重力法則の表現とわれわれのもつ重力の表現は共約可能なのではないだろうか、と思う。
 もちろん、そんなことはローティもわかっていて、

 そこに在って発見されるのを待っている真理、という考えを棄てるべきだと述べることは、そこに真理などはない、と私たちが発見したのだ、ということではない。

 という。
 ローティは、アリストテレスよりもガリレオの方が真理に近づいたとする見方を否定し、ガリレオは以前からある説明よりもより有効な道具を思いついたのだ、という。要するに、正しいか間違っているかではなく、より役に立つかどうかであると。
 ほとんど何も理解していないことについて、以下のように言うのは間違っているのだろうとは思うけれども、ここで言われていることは、マッハの認識論に通じるように思うし、量子力学の世界観にも通じるものであるように、わたくしには思われる。量子力学がする説明はわれわれには絶対に了解できないものである。しかし、その説明は現在までのところは、われわれの観察と矛盾はしていない。われわれはそれを真理であるとはどうしても思えないけれども、それはわれわれのまわりでおこる事象の説明としては、現在までのところ綻びをみせていない。(なぜ、理解できないのかといえば、それはわれわれが昔むかし、樹の上で果物を探すことで生き延びてきた生物の子孫だかである。だから、当然天動説の信者でもあるわけであるが、まだ、りんごを地球とおきかえるという比喩によって、それは理性によって矯正可能である。しかし位置が確率的分散としてしか表現できないい物質といったものは、了解不能である。)
 わたくしのマッハ理解はすべてポパーの「果てしなき探求」経由の間接的なものであり、またわたくしは哲学音痴、物理学音痴で、物理と数学ができないので医者になった人間であるので、以下書くことにははなはだ自信がない(おそらく間違っているのだろうと思う)のだが、「観察できないものについて、考えることは、無駄である」というのがマッハのいったことではないかと思う。だから絶対空間とか絶対時間などという観察不能なものを導入するのは間違いであり、原因と結果という見方は間違いであり、二つの現象の間の相互関係だけがわれわれの知りうるものであるのだと、マッハはした。それがアインシュタインの相対性原理につながった、というのは科学史での通説であろう。
 マッハは検証不可能な命題はみとめられないとしたので、原子の存在を否定したとされる(現在は電子顕微鏡で原子の存在は検証できるのだそうであるが)。観察できないものは存在しないというのは、バークリーの観念論(唯心論?)に通じるという方向からの批判もあるようである。
 インターネットでマッハについて検索したら、カール・ポラーニがマッハを論じている文が紹介されていた http://homepage3.nifty.com/thinkers/pkmchess.htm 。ほぼ100年前に書かれた文章である。そこでは、マッハは「最終原因」とか「本質」とか「真理」とかは科学には必要のない概念なのであるとしたとされている。「真理」を追究するというのは、すべてのものの「背後に」なんらかの「本質」を求め、現象の「深部に」何らがの謎めいた「真理」を求めるということになるが、それは子どもじみた遊戯に過ぎないのであり、科学は「これは何か」ということは問わず、「これはどのようになっているか」だけを問うのだとした、とポラーニはいっている。
 マッハは科学を形而上学と区別しようとしたのだというのがポラーニの説であり、「科学は、いつでもさまざまな答えがありうるような問いかけをし、一つの答えが他の答えを排除するやりかたをとる。形而上学では、答えが他の答えを排除しない(もっといえば、本当は何を答えるかなどはどうでもいい)。科学の主張は真でも偽でもありえ、それを決めるのは(それが“正しい”かではなく)明瞭性と功利性なのであるのに対し、形而上学の主張は真ではなく偽でもなく、そもそも何も主張していないのだ」とマッハはしたのだ、という。
 ポラーニがまとめるマッハ説は、「科学の主張は真でも偽でもありえ、それを決めるのは事実との対応である」とすれば論理実証主義になるように思う。そして、ローティは「真理の対応」説を否定することによって、科学と形而上学の境界をとりはらい、科学の効用を“役に立つ”という点に絞り込むのである。ローティは、宗教と形而上学をとりのぞくためにそのような主張をするのであるが、こういう見方もまた形而上学なのではないかという批判が当然でてくることは、当然予想される。
 世界にも本有的特性はなく、自己にも本有的特性はない、とローティはいう。後者については問題がないと思う。人間が神による被造物であるという考えを棄てるならば、それは誰からも承認されるものであるはずである。前者が問題である。
 本有的特性という言葉がいいかどうかは問題として、要するに物理法則がある、ということを言ってはいけないのだろうかということである。
 われわれには物理法則の正否を判断する能力などはなく、ただそれが簡潔な説明であるか(オッカムの剃刀)、有用であるということを知ることはできる、というのがローティのいわんとするところであるように思う。
 しかし、宇宙というのはどのようになっているか、ということを問うことはわれわれの役にはほとんど立たないだろうと思う。それは「どうなっているか」という疑問に答えるものなのだろか? 実際、宇宙科学は、それが何の役に立つのだ?という方向からの攻撃にさらされて、研究予算が縮小される方向にあるようである。
 数学は科学ではないから、議論の方向が違うかもしれないが、数学は「これがどのようになっているか」の「これ」に相当する実在をもたない。しかし、それでも数学は「役に立つ」のであろうか? フェルマーの最終定理の証明などというのが、どういうことに役に立つのかは、わたくしにはわからない。
 ローティのいいたいことはこういうことなのではないかと思う。宗教の権威が衰えてきたことにより、本来はわれわれが神を認めなくなれば自動的に消滅するはずの「人間の本性」とか「事物の本質」といった考えが、宗教の権威が衰えた後でも、どういうわけか形而上学の中に残ってしまった。それは、科学が「真理」とか「本質」とかいう言葉の保証場所になったことによる。
 だから、われわれにとって有害無益である「人間の本性」とか「事物の本質」とかいう言葉を駆逐するためには、自然科学においても「本性」とか「本質」といったものは存在しないことを示していくことが近道である。
 ローティの本能寺は形而上学なのである。しかし、形而上学は裏から科学の概念をちゃっかりと借用しているのであるから、そこを叩かなければいけない、ということである。だが、科学をやる人間は(マッハとかボルツマンとかアインシュタインとかの大物を除けば)形而上学などには何の関心もない。哲学者はそれをいいことに、形而上学の内部だけでは自明のものとはなりえない「真理」とか「本性」といった概念を、自然科学では通用しているものとして、自明のものであるかのごとく装って平然としている。それを論破せねば、ということである。
 もう少しローティの論を見ていく。
 今から約200年前のフランス革命の時に「真理は発見されるのではなく、作られる」という考えがヨーロッパ人を捉えることになった。その革命に前後して、社会関係の語彙や社会制度の見方が一変したからである。
 「神の意思」や「人間の本性」が政治の形態を決めるのではなく、われわれが何を望むのかが決めるのだ、というユートピアの政治が当然のものとされるようになった。ほぼ同じ時期から、芸術は模倣するものではなく、自己創造するものだとされるようになった。従来、宗教と哲学が占めていた地位を芸術が要求するようになった。
 ユートピアの政治とロマン主義的な自己創造が現在の趨勢になっているが、哲学の分野はそれにより二分されるようになった。
 1)自分を科学の大義と同一視し、科学と宗教、理性と非理性の戦いはまだ続いているとするもの、
 2)理性も真理も発見されるのではなく、作られるのだとするもの、
 である。
 1)の立場の哲学者は、科学こそが人間活動の範型なのであるとし、政治と芸術の分野には「真理」という考えがあてはまらないとする。
 2)の立場の哲学者は、物理学の記述からは道徳的な教えも精神的な慰めも得られないのであり、科学はテクノロジーの侍女に過ぎないとする。
 1)の哲学者は、「堅い科学的事実」対「主観的なもの、メタファー」という見方をする。
 2)の哲学者は、科学を人間活動のたんなる一部であるとみなし、科学には「堅い実在」と「人間存在」を仲介させる力などはもたないとする。
 カントなどのドイツ観念論者は、科学に現象界のついての真理という二流の真理をわりふり、人間存在は真理を発見するのではなく創造するという見方をとった。カントもヘーゲルも真理が「そこに」在るという考えを否定しなかったのである。心、精神、人間の自己の深みには本有的特性がある、それを発見するのが哲学という非経験的な超科学の役割でありとした。
 なぜ、かれらが本有的特性という考えを放棄できなかったかといえば、《本有的特性があるという見方を放棄すると、時空の世界を存在させるのは人間存在であり、時空が非実在的であることになってしまうという誤った考えを持ったからである。《世界がそこに在る》と《真理がそこに在る》は違う、ということが理解されなかったのだという。
 それが冒頭の《世界はそこに在る、しかし世界の記述はそこにはない。世界の記述だけが、真か偽になることができる》に繋がる。
 ここがわからないところである。「宇宙はビッグバン以来膨張を続けている」という記述は真であるか偽であるかである。だが、そのような記述をしないと、宇宙は膨張しないのだろうか? そんなことはない。膨張している。それは「事実」である。「堅い実在」である。そして、「事実」というのも観察によってはじめて生じるではないだろうか?などと考えだすと、泥沼にはまってしまうことになる。
 「これはどのようになっているか」の「これ」も「どのように」も観察から生じる。「世界は話さない。ただ私たちのみが話す」のであっても、それは世界が持つ法則を私たちに理解できる形に翻訳しているということであって、世界には法則があるとするほうが世界はシンプルになるようにわたくしには思える。
 一方、ローティの後半の主張、偶然の産物である生命にかんすることには「真理」はありえない、というのは充分に肯定できる主張である。たとえば「生命」の本質とは何か、人間の「本性」とは何か、というような問いは避けよということである。そういう問いは非生産的であるという主張は理解できる。
 だが、この問いに答えを出そうとしているものが進化からの説明なのであろうと思う。われわれの存在は偶然の産物である。しかし、過去においてどのような偶然がおきたのかということは、探求が可能なことであって、たとえば、人類の過去の時間の大部分が狩猟採集生活であったという「事実」がわれわれの《擬似的な》「本性」を形成している、という議論は、「神」なしの人間本性論である。
 つまり人間の「本性」を「神」なしで導入することも可能なのではないかということであって、わたくしにはこの議論が真っ当なのではないかと思う。
 しかし、進化論にもとづく説明というのは、実はあらゆることを説明してしまう現状肯定の論になるのではないかということは非常な問題でって、今われわれがこうなっている、それはなぜか?という問いから出発するのであるから、過去の多くの偶然の中からその説明に合致する事実のみを抽出する、あるいはそういう事実を過去に想像(創造?)することで、説明できたとしてしまうことが充分に可能であるからである。
 だが、ローティのいいたいことはおそらくそういう方面のことではない。われわれは何か新しい見方を得ることによって新しい存在になる、ということなのである。《事物が実際にどのように在るかの理解の増進》ではなく、《メタファーがどんどん便利になっていく歴史》として人間の歴史をみよう、ということなのである。
 言語が何かを再現する媒体であるという見方を棄て、《新しい言語を発見することにより事柄を一新する人が続く》歴史として、われわれの歴史を見ようということなのである。自分の外側にある事実を言葉で説明するのではなく、自分が新しい言葉を獲得したので外側にある事実が説明できるようになるということである。
 「事実」と呼ばれる言語以外のものが存在するという考えと、「意味」と呼ばれる言語外のものが存在するという考え、そのどちらも否定し、新しい言葉が発見されたときに、そこに「事実」と「意味」が同時に生じるとするような、そういう言語観で人間の歴史を見ようというようなことである(という要約は違っているだろうか?)
 メタファーということになれば詩人の領分である。だから、ローティの描く人間の歴史は、物理学者ではなく、詩人が主人公である。あるいは、物理学者もまた新しいメタファーを発見した詩人として扱われるということである。
 ということで、第二章の「自己の偶然性」に続く(のではないかと思う)。