R・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」 その5 第四章 私的なアイロニーとリベラルな連帯

 
 正直いって、この章は何をいいたいのかよくわからなかった。ハーバーマスへの反論なのかもとも思うが、ローティの《公共性と私を統括する共通原理はない》とする主張の弱点があらわになった章であるかもしれない。ローティはニ方面を防御しなければならないが、ハーバーマスは一箇所を攻めればいいわけである。多勢に無勢、衆寡敵せず。
 ハーバーマスの攻撃‐ヘーゲルからフーコーデリダにいたるアイロニストたちの言説は社会的な希望を破壊するものである‐をローティは認める。だからローティは、かれらアイロニストを政治的にはほとんど無用であるが、私たちの私的な自己イメージの創出にはとても貴重であるという形で、それを救済しようとする。
 ハーバーマスは宗教が失権したあとでも社会を連帯させる何らかの接着剤が必要であると考えていて、それにあたるものとして「普遍性」や「合理性」を想定している。ローティはそれらは偽の概念であり、そのようなものは存在しないとしているのであるが、神が死んだ後、社会を連帯させる何かの接着剤が必要であるか、ということについては、まともに答えない。そのような議論に参加することが「普遍性」の側に参加してしまうことになるとしているからである。であるから、もし社会がそういう接着剤を必要としているなら、偽者でも提示しなければいけないのではないかという議論には何とも答えられないわけである。東浩紀氏のポストモダン論でいえば、ある「大きな物語」は死んだが、それに替わる別の「大きな物語」が必要である、という議論と、「大きな物語」は過去においては必要であったが、今の時代においては桎梏である、という議論、さらに、「大きな物語」はもともと嘘だったのだから、それが死んだからといって別の物語をさがすことには意味がない、という議論の鼎立である。
 わたくしにはハーバーマスの議論は(何も読んでいないのにこういうことをいうのは無責任であるが)政治を宗教や道徳の代理と考える、政治に過剰な期待をする、マルクス主義の欠点をそのまま引き継いだような頭でっかちなものであるように思える。しかし、左派はこういうところに多数逃げ込んでいるのだろうと思う。そういう人たちがローティの論に納得するとは到底思えない。世の中には政治が三度のメシより好きという人がいるもので、そういう人にはローティの議論など、なんのことやら、であろうと思う。
 とにかくも、ローティによれば、アイロニストとは、唯名論者でありかつ歴史主義者であるものである。
 哲学のかわりに文芸批評がこれからのわれわれの生きかたの指標になるのだと、ローティはいう。自分について考えるためには、自分と異質なものとの交際の範囲を広げなければいけない。そのための最良の方法は読書である、などと古風なことをいう。文芸批評家とは、もっともつきあいの範囲が広い人のことである、とされる。
 とすれば、アイロニストは読書人であり、典型的な近代知識人であることになる。要するに社会の少数派である。そうであるなら、アイロニストは社会から疎外され、反リベラルに走るのではないか?という疑問へのローティの反論は、説得的であるようには見えなかった。
 
 本を読むことが、交際範囲が広がることを意味するのだろうかと思う。人とのつきあいは、相互関係だが、本とのつきあいは一方通行である。本を読むことが人間関係の勉強になるとは思えない。むかし、どこかで読んだ開高健氏の言葉に「エロ本読みのセックス知らず」というのがあった。本を読んだだけでは得ることができないものはたくさんあるだろうと思う。
 小説というものにナイーヴな期待をよせるところなど、ローティという人は初々しいところがある人なのであろうとは思う。たとえば、カラマーゾフ家の物語が途方もないもであることは事実であり、おれを読む前とあとで人は同じではなくなるかもしれない。だが、それは神がまだ生きていた時代の物語である。神が生きていた時代のほうが、個人もまた顔立ちがくっきりとしていた。神が死ぬことによって小説が豊かになったかといえば、それには大いに疑問である。小説は19世紀で終った形式であるのかもしれない。また、クラシック音楽の創作が一番豊かであったのは18世紀から19世紀にかけてであったのも示唆的であるかもしれない。
 小説は個人のものであって、個人というのも西欧の発明であるかもしれない。フーコーがあるいは東氏がいっているのは、現在は統一的な個人というものがむかしほど無邪気には信じられなくなっていることかもしれない。そういう時代に、文芸批評家を哲学者の位置を簒奪するものとして描くということは、いささか時代錯誤ではないかという気もする。
 しかし、ローティは、次章で、プルーストニーチェハイデガーという文芸?の検討へとむかう。