サムライとナデシコ(2)

 わたくしは小学校の時は算数少年で、いわゆる文章題(鶴亀算など)は計算間違いさえしなければ間違えることはないと自信を持っていた。しかし麻布中学にはいると、自分より頭がいいのがゴマンといることがすぐにわかり、挫折して、今度は小説ばかり読んでいるなまけ学生になった。(この時に、「赤と黒」とか「ボヴァリー夫人」とか外国文学に走ったのは失敗で、日本の文学を読んでいれば、日本語についてもう少しは感覚が違っていただろうと思う。高一で太宰治を読んではじめて文学とは物語とか登場人物が抱く考えのことばかりでなく、それを描く文章でもあることに気がついた。)
 というようなことで、高校のはじめくらいまでは文学部にいって国語の先生にでもなるかと思っていたのだが、(これははっきり覚えているのだが)たまたま大江健三郎の「われらの時代」を読んで文学の方面にいくと碌なことはないと感じ、ではさてどうしたものかと考えた。人付き合いが大の苦手であることは自覚していたのでひとの集団(会社など)に入ることも考えられず、基本的に一人でできることは無いかと考え、たまたま自分と気質が似ている父も医者(小児科医)であったので、あいつができるかなら俺にもできるかという安易な考えで医者になる道を選んだ。
 「男性が抽象的なものに、女性は具体的なものに秀でているというのがわたくしが抱いている偏見」と前稿で書いたが、会社に殉じるなどというのは男にしか起きないことである。四十七士は(当然ながら)みな男である。ごく最近まで(今でも?)社会は男によって運営されてきた。だから男女雇用平等法などというのは、「男がすなるという」仕事というものを女にもさせろということであって、女も男社会に参加させろ!ということである。
 ここで問題になるのは、A)男と女は根本的に異なるが、それでも男女差を越えて人間であることには変わりはなく、男であること女であることは自分では選べないのだから平等にあつかわれるべきである、と考えるのか、B)そもそも男女差などというものはないが、たまたま社会を支配した男が自分の支配に都合のよいように作り上げた人工的産物であると考えるのかということである。
 わたくしの抱く偏見では、どうもウーマンリブというのは後者のB)であるような気がする。そして男はB)の運動をしている女性のことを「顔の美醜で女を判断するな! その能力で判断せよ!」という主張なのだという超偏見でみているのではないだろうか。昔々のことだが丸谷才一さんがどこかのエッセイで「一度ウーマンリブの集会を見に行ってこよう。少しは美人もいるかもしれない。」などという今ではとても書けないようなことを書いていたことを思い出す。美人・不美人という言葉は日常茶飯に使われるが、美男(そもそもその反対語は?醜男?)という言葉は日常にはほとんど使われないようである。(最近きいた話では、ハンサムという言葉も死語で、イケメンというのだそうである)。昔は普通に使われていた「寿退社」という言葉も今では禁句である。
 話がどんどんとタイトルから離れてきたが、前稿でも書いたように、スポーツの世界では男女は別々に扱われている。そしてこれに文句をつけるひともいない。しかし知的な分野においては男女に差はないというのが昨今に支配的な見解なのであろう。
前稿でも書いたように「男性が抽象的なものに、女性は具体的なものに秀でている」というのがわたくしの抱いている偏見であるが、医療というのはどちらが向いているのかを考えると、臨床の現場は女性、研究の場は男性なのではないだろうか? わたくしは最近入院していたが、圧倒的に多く接するのは看護師さんで、看護師さんはまだまだ女性が多い。その看護師さんもガラガラとパソコンが載っている台車を引っ張ってきて、盛んにデータをパソコンに入力している。時代は変わってきているなと思う。
 わたくしの偏見であろうが、医療の歴史のなかでも医者がなにごとかをなしうるようになったのは比較的最近のことであり、それ以前には呪い師、加持祈祷師とさして変わりのない存在だったのではないかと思う。それが近年になってようやく「科学」の仲間入りできてきた。
それに対して看護はおそらく人類の歴史とともに古く、とにかくも病者の傍にいるということ自体が看護行為である。しかし逆に、それが看護というのが専門家でなくてもだれにでもできることではないかという一種のコンプレックスを看護職に生んだため、最近では過度の専門志向を生んでいるのではないかと思う。ケアというのはそれ自体が高度の専門性を有するものであるが(ナイチンゲール「看護覚書」をみれば歴然であろう)、おそらく現在ではそれが医療の一分野としての専門性とはとらえられていないのであろう。
 以上のように、わたくしは男女には差があるという偏見を抱いているが、いまではそれは少数意見らしい。医療のなかの非常に狭い分野、理屈にかんしては確かに差はないであろう。しかし共感する能力は女性のほうが男性よりはるかに優れているはずで、男性のしていることの多くはコンピュータでも代用できるが、共感はコンピュータでは代用できない。
 しかし、今では理屈のほうが尊ばれ、もっと人間的なもの・人間でなければできないもの(動物でなければできないもの?)が軽んじられるようになってきているように思う。これは時代の趨勢であっていかんともしがたいのであろうが、いささか行き過ぎではないかということをあらためて今回入院して感じた。