(14)文士は変わっている

 それにしても、この文士は変わっているという考えでごまかし、又ごまかされているのは世間の方だけでもないようである。文士自身が、文学者は政治に関心を持たなければならないなどというふざけたことを言っている。文学をやっていると頭が変になって来て、政治に関心を持つことさえも出来なくなるから、気を付けろ、という意味らしい。そんな文学なら止めてしまったらいいではないか。文学で政治がやれるというのも可笑しな考えで、鼻をかむことで耳の掃除が出来たら重宝だろうが、そんなことをする人間がいたらお目に掛りたいものである。金のことに疎いのだって、それはその人間が薄のろだからなのだろう。何も文学のせいにすることはない。

 随筆集「三文紳士」のなかの「家を建てる話」の一節。この「家を建てる話」もまた吉田氏の随筆のなかでも優れたものの一つではないかと思う。要するに「家を建てる話」で、そのために建築の資金にいかに苦労をしたかという話である。例えば「こっちもどうにもならなくなって、銀行から金を借りることも考えた。・・この時、始めて銀行の支店長というものに会った。・・雑誌社から貰った小切手を現金に換えに行く窓口されもが恐しげに見えるのに、支店長の机に肘をついている人物に会いに行くというのはなかなかいいものである。・・何でも、日本中の銀行の預金を全部合わせても、日本中の銀行が方々に貸し付けいるだけの金高にはならないのだそうである。それで足りない金をどうしているかと言うと、不足分は銀行の方が又日本銀行から借りて来るのだということで、つまり、どこの銀行も日本銀行の出店のようなものであることが解り、・・・」ということで、丁重に断られたということなのだが、みな文士は世間知らずで金に疎いと思っているから建築のために渡したはずのお金がどこかに消えてしまい一向に建築が進まない。ということで最初にかかげた文に繋がるわけである。
 「文士が変わっている」のかどうかは知らない。吉田氏だって逸話に事欠かない変わった人だった。しかしここで「変わっている」というのは文学というのは「虚」であって実業とは正反対のところにあるというという見方のことをいうのだと思う。小説などは法螺話であって「虚」の最たるものである。そうであれば金のことになど疎いに決まっている。文士の側にもそういう引け目があって、だからこそ「文学者は政治に関心を持たなければならないなどというふざけたことを」いうようになる。何か「実」とかかわっていると思えないと不安なのである。世間の役にたっていると思いたい。三島由紀夫がああいう死に方をしたのも、小説を書くということが虚しくて堪えられなくなったからかもしれないし、私小説というのも小説が法螺話であることに堪えられなくなって自分のことを書けばせめて嘘の話ではなくなるというところからでてきたのかもしれない。
 そういう風潮が瀰漫しているからこそ、荒川洋治氏は「文学は実学である」という。「目に見える現実だけが現実であると思う人たちがふえ、漱石や鴎外が教科書から消えるとなると、文学の重みを感じるのは容易ではない。文学は空理、空論。経済の時代なので肩身がせまい。・・文学像がすっかり壊れているというのに・・文学は依然読まれているとの甘い観測のもと、作家も批評家も学者も高所からの言説で読者をけむにまくだけで、文学の魅力をおしえない。語ろうとしない。」
 吉田健一という文学者の魅力は、氏に文学というものの実体がありありと見えていたことに尽きるのではないだろうか? そういうものが見えないのなら「文学などやめてしまったらいい」のである。今、村上春樹が売れているのは、氏にも文学というものがありありと「実」のものとして見えているからなのだと思う。ただ最近の氏は、そのつくる世界がいささか「虚」に傾いてきているようにも思える。「読む人の現実を生活を一変させる」「激しい力」(@荒川洋治)が失せてきて、読者を慰撫する方向に傾いて来ているのではないかと思う。

三文紳士 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

三文紳士 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

文芸時評という感想

文芸時評という感想