西内啓「統計学が日本を救う」(3)

 第3章「医療を受ける患者とコストを負担する私たち」
 
 平成25年度の医療費は40兆円を超え、その過半が65歳以上の高齢者で使われ、75歳以上の後期高齢者で1/3以上が使われていることが示され、高齢者の人数が多いというだけでなく、一人ひとりの医療費がとても高いことがいわれる。
 しかし1960年ごろまでは、65歳以上の高齢者の受療率はむしろ低かった。
 1961年に国民皆保険制度ができた。それにより高齢者の受療率が高まったのにくわえて、1973年の田中角栄内閣での70歳以上のものへの自己負担ゼロが拍車をかけた。
 問題はひとりあたりにかかる医療費の増加である。しかし、それだけ医療費が増加していても寿命はあまり伸びていない。つまり高コストの割りに成果のでない医療がおこなわれていることになる。
 西内氏はこれだけデータがそろってきた現代においてはあらかじめその医療がどの程度の有効性をもつかはわかるはずであるという。80歳以上で他の臓器にすでに転移している肺癌患者の余命は1年以内がほとんどである。そういうものに積極的医療をおこなう意味があるか? このままでは医療経済がいずれ破綻する可能性が高いのであれば、「どのような医療は削減してかまわないか?」「どのような医療は削減してはならないか?」について今から検討をしておくことには意味があると西内氏はいう。
 そのための「医療技術評価」が紹介される。この分野で日本は世界に遅れをとっているという。5年間投与して投与しない群にくらべて1000人中5人を救命できる薬があったとする(無治療群で20名の死亡が治療群では15名に現象する)。その薬は5年で20万弱かかる。すると一人の命を救うために4千万弱の費用がかかることになる。後期高齢者の自己負担は1割だから、3千万円強は公的なお金が使われていることになる。しかもこの計算には薬代しかはいっていない。
 では寿命を延ばすため一年あたりいくらまでの公的負担を日本人は許容するだろうか? 実際に調査があって平均値は600万円なのだそうである。とすれば現在の医療はこれをはるかに超えている。
 ではコストにくらべて割高な治療をどうするか? 公的なお金ではなく私費の医療にする。効果の程度にまで価格を下げる。出来高払いではなく、医療行為に対して支払うなどの方法が考えられる。どれにも一長一短がある。
 医療費の高騰を抑えることを一つの目的として介護保険制度が導入されたが、病院で医療保険で死んだ場合と介護施設介護保険で死んだ場合でコストは変わらないというデータも示されている。また自宅で死んだ場合にかかる費用は入院の場合と割高というデータもあるらしい(どこまでをコストと計算するか難しいところがあるらしいが)。
 といういささか八方ふさがりのデータを示したあと、高齢者が要介護になるか否かを規定する要因として、転倒歴と咀嚼力、あるいは社会参加の有無といって点に注目する。とすれば高齢者にもっと働いてもらうことができれば、要介護状態に陥るものを減らせるのではないかと西内氏はいう。実際にそいう介入は有効らしい。しかしそれは要介護の先送りなのだろうか? その可能性があることが示唆されている。
 結局、著者は高齢者の就労率をあげることとりあえずの解決策として提示している。この対策は前章でも提案されていた。
 
 どうも医療費を抑制するための魔法の弾丸はないらしい。高齢者の就労率を上げるというのは著者が重視する有効策なのだが、そもそも定年制などというものがあるのは日本くらいであるらしい。定年制というのは年齢による差別なのであるから、性差による差別と同様あってはならないことであるというのが多くの国での認識であるらしい。前のエントリーでも述べたがしかしこの定年制は四月新卒一括採用というこれまた日本のほぼ特有であるらしい制度と表裏一体になっているものであるから、定年制だけいじるということは不可能であるらしい。
 そしてこの四月新卒一括採用という制度は最近大きな問題となっている過労死とも大きなかかわりがあると思うので、産業医療にかかわっているものとしては無関心でいるわけにはいかないのだが、濱口桂一郎氏がいう日本に独特のメンバーシップ型の雇用という慣行から生じているものであるので容易なことでは変えられないのだろうと思う。
 この濱口氏の用語を知ったのは最近なのだが、以前から山本七平氏の本などでみていた日本では組織がある程度大きくなると共同体化しないと機能しなくなる、単なる機能集団のままでは日本の組織は動かないという話と深くかかわっているのではないかと感じている。濱口氏はメンバーシップ型と対比させる欧米で主流のジョブ型の雇用というのは山本氏の本では渡り職人といわれているものに該当するように思われる。この渡り職人は決してお店の中枢にははいれず、丁稚、手代、番頭、大番頭、宿這入り、暖簾分けといった序列をたどっていったものが本流なのである。享保のころからの年功序列の世界が今に生きているとすれば、これを変えるのは容易ではない。
 そして日本で数少ないジョブ型の雇用がみられるのが医者や看護師、薬剤師の世界であり、そこでは包丁一本晒に巻いた職人として病院を転々と渡り歩いていったりする。そういう日本の組織原理のアウトサイダーである医者や保健師産業医療という日本の組織原理をそのまま体現している会社組織でのさまざまな問題点にかかわっていくということは本当に難しいことであるということを、最近とみに感じている。医者や看護師は履歴書の転職の多さが必ずしも傷にならない日本においては数少ない職業なのだと思う。そういう帰属意識にいたって乏しい人間が一社懸命の従業員をみていくということは本当に難しいことである。