G・シムノン「ちびの聖者」

  河出書房新社 2008年7月
  
 シムノンメグレ警視ものは、昔何冊か読んだことがある。手元にある「メグレ警視シリーズ」は1980年あたりに買ったらしい。面白くて全巻読破と思った記憶があるが、例によって、興味が別のほうに動いたのであろう。4〜5冊読んだだけになってしまった。その中で一番面白かったように記憶している「メグレ間違う」はなくしてしまったのか、見当たらなかった。いずれにしても、筋などはほとんど覚えていない。覚えているのは、おだやかで目立たないメグレ夫人の像といったものだけである。
 「ちびの聖者」はメグレ警視ものではなくて、《シムノン本格小説選》として河出書房新社から刊行されているシムノンの普通の(?)小説のひとつである。新聞の書評で誰かが薦めていたので読んでみる気になった。
 こういうのが小説なのだと思う。物語ではなく小説。ストーリーで読ませるのではなく、登場人物によって、あるいはその背景である町やそこにある建物の臭いによって、読者をひきつける。本書でいえば、第一次大戦前後のパリであり、そこに生きる人々の貧しさである。その日その日を食べていくことに精一杯である人々のもつ一種の生命力というか動物性のようなもの、それが感傷をまじえずに実に淡々と描写されていく。その中でいささか生命力を欠いた、少し植物的な(だからこそ、聖者とあだ名されるのだが)ちびの少年が、やがて画家として大成していくというのが本書の粗筋である。
 しかし、そんな筋はどうでもいいので、粗末な狭いアパートに6人の家族がひしめきあっての暮し、特に子供たち5人を養う母親への作者のまなざしは、一切の感傷がない。本書はシムノンの自伝的な要素もあるということだが、主人公の、将来画家となる《ちびの聖者》のどこか浮世離れした眼差しは、シムノンがこの小説の登場人物に注いでいるまなざしと、通じるものがあるのかもしれない。
 吉田健一のすすめで読んだ(といっても英語力がついていかなくてところどころを読んだだけなのだが)エリオット・ポールの「The Last Time I Saw Paris」が描いているパリは丁度、同時代であるが、ポールのほうがもう少し暖かい目で描いているように思う。「ちびの聖者」の表紙にあるパリの市場の写真と、ポールの本(Sickle Moon Books のペーパーバック)の表紙にあるパリの街頭の写真はなんだか雰囲気が似ているように思った。
 小説というのはこのくらいの長さがちょうどいいなと思う。訳者によれば400字詰め400枚ほどなのだそうである。どうもこの頃の小説はやたらと長いのが多くて困る。二日で読めるくらいがちょうどいい。村上春樹の長編小説など面白いのだが、どうも《物語》が濃すぎないだろうか?(わたくしには「神の子どもたちはみな踊る」とか「東京奇譚集」などの短編のほうが、しっくりくる)
 小説というのは大説の反対で、英雄の話ではなく、小人のことを描くものである。小人もまた主人公になりうるというのが小説の成立の根本である。物語が強くなるとどこか神話的になり、小人のうらに英雄が透けてみえてきてしまう。ただの小説、ただの小人の話などを書くのは、作者としてはいまさらなのかもしれないが。
 小説というのは西欧の産物で、それは西欧のおける「個」、あるいは「多様性」の擁護と深くかかわっているはずである。と同時に西欧はキリスト教の産物でもあるので、神という全能者による世界創造という神話を根底にもっている。作者は神となり、その作品は世界の隠喩であることにもなる。物語をつくり、神話をつくって、「世界」を創造するのは気宇壮大で楽しいことなのかもしれないが、そればかりしていると、小説の根底が少し揺らいでしまうのではないかと思う。
 本書のようにもっとつつましく、世界の一隅をきりとって、そこに生きる人々を描くというのが、小説の正道なのだと思う。こういうのが小説なのだと思う。
 

ちびの聖者 (シムノン本格小説選)

ちびの聖者 (シムノン本格小説選)