内田樹 鈴木晶 「大人は愉しい メル友おじさん交換日記」

   冬弓社 2002年6月25日 初版


 内田氏と鈴木氏がインターネット上で、公開しながら意見交換した日記を本にしたものである。
 内田氏も鈴木氏もプライベートな日記はつけたことがなかったのに、インターネット上での公開日記ならいくらでも書けるようになったという。その理由についていろいろ議論されているが、つまところは公開日記には「本当の」ことを書かなくてもいいという点にあるのだと思う。私的な日記においては、たとえば「今日、○×さんを傷つけてしまった。今後そのようなことのないようにこころせねばならない」などと書いたとして、それが「本当」であるかどうかなど誰にもわかならいという居心地の悪さが常につきまとう。そう書いたのは事実であるとして、そう思っているのかどうかは判らないといういやな感じがぬぐえない。しかし公開日記では自分に都合の悪いことは書かないということが当然の前提とされているので、「本当の」ことを書かなくてはならないと強迫的気分から自由に書けるわけである。某田中知事の「ペログリ日記」のような例外はあるが(田中氏はそういうことを書いても自分の不利にはならないと計算して、書いているのであろうが)、普通は公開日記には自分の情事のようなことは書かないものである。自分のそとに出してもいい面だけだせばいいというのは非常に気楽である。
 内田氏は「ヴァーチャル・ウチダ」と「なまウチダ」があるという。「なまウチダ」は偏屈で底意地の悪い初老の男で、鬱々と馬齢を重ねている、のだそうであるが、「ヴァーチャル・ウチダ」は、元気者で東奔西走大活躍で、毎日機嫌よく人生を過ごしていているのだという。もちろん、この言は「ヴァーチャル・ウチダ」の言であるのだが。そういう自分とは違う闊達なもう一人の自分をインターネット上に作れるというのが、インターネット上の公開日記の楽しみなのであるという。
 わたくしもこういう読書感想などを公開しているのも、個人的な読書記録と違って、可能性としては他人の目にさらされるということが、それを非常に書きやすくしているということがある。少なくとも今までは、このようなことが長続きしたことはなかった。個人的な記録のほうがどうも嘘っぽくなり、こういう形のほうがかえって「本当の」ことが書けるような気がする。ということで、こういうWEB上の読書記録も、本当はわたくしをまったくしらない第三者の目にふれることが多ければ、それがいいのだが、現実には、アクセスするひとのほとんどは私を知ったひとであろうというのが問題である(カウンターの数がようやく1000を超えたが、少なくともその三分の一はわたくしであろうと思う。メンテナンス作業をするたびにカウントされるので)。
 鈴木氏は公開日記はカラオケであるという。個室で一人で歌っていたらバカみたいあるいはおかしな人であるが、カラオケで歌うなら、たとえ本当は誰も聴いていなくても、聴いてくれているひとがいる可能性があるだけでも、まともな行為であるという。そうか、わたくしはカラオケで歌っていたのか!

 さて、内田氏によるラカン精神分析理論の解説。
 われわれが日常生活において、あることができないことがある。それを自分の能力がないためと考えれば問題ないのだが、<誰かが自分にできなくさせている>とする、また<自分はわかっていなくても、どこかにわかっているひとががいる>という方向に発想するひとがいる。これが<父>を呼び出す。<子供>は<あの人>には全部わかっているのだと思う。忠臣蔵はそのような<公儀>という、裁定する正義を体現する<父>を拒否するものがたりである。東映やくざ映画もまた<裁定>を拒否する物語である(宮崎註:全共闘運動の参加した人の多くが東映やくざ映画の熱烈な賛美者であったということは、この論からは示唆的である。全共闘運動はアンチ・オイディプスの運動であったことになる。何かの秩序を構築するための運動ではなく、すべての裁定を拒否する運動)。
 それに対する鈴木氏:日本人は喧嘩両成敗を好む。これは<父>を承認しない態度である。日本人には一貫して父がいないといわれている。これはまた神がいないことでもある。それでは天皇は? しかし日本では「父親待望」願望もある。それが「水戸黄門」の人気の秘密である。
 それに対する内田氏:天皇は性別は男性でもジェンダーとしては女なのではないか?あるいは老子でいう「玄牝の門」。日本においては父は俗なるものであり、母こそが聖なるものなのである。三島由紀夫にとって、天皇人間宣言とは、聖なる母が俗なる父に堕することを意味した。天皇は日本のお母さんなのである。日本の父は倒すべき権威ではなく、教化すべき子供にすぎない。日本においては、母の承認が自己証明となる。父親はどうでもいい。
 とすれば、現状の日本の一番の問題は、父の不在ではなく(そんなものは昔からいなかった)、母の機能不全にあることになる。母が世俗化し、父親化してしまったのである。すべての功利性を超越した母がいなくなり、母までもが世俗的な価値の体現者となってしまったのである。本来、父は世俗的なモノをもたらす存在にすぎない。子供にとって、そのモノ自体は何の価値もない。母がその父のもたらすものをみて満足している姿を見ることによって、間接的に父を肯定するのである。ところが、近年、母親の欲望が肥大化してきている。父のもたらすものでは満足できなくなってきている。母親は父(夫)も子供も肯定できなくなってきているのである。
 子供は母親の承認を競い合う。「坊ちゃん」の清こそが日本の母、ありうべき母の像である。近年の母は清のもっていた欲望の慎ましさを失っている。もちろん、清は日本の母の大変困ったところも体現しているのだが。なぜなら清的な子の全面肯定は、子供の全面支配にも繋がりかねないから。
 それに対する鈴木氏:日本に「個人」が生まれないのは、天皇がいるからである。天皇がいるかぎり、日本人は大人になれない。
 内田氏:舞台こそがすべてで、舞台のそとのことを考えもしない人→絶対値を信じる人。
舞台の上で、しょせんこんなものはサル芝居とふてくされていう人→知の相対性論者。
芝居であることをしりながら、その芝居でどのような最善をつくせるかとする人→大人。
 本当のわたし、というのは近代がつくりあげた一つの物語である、そろそろ耐用年数がこようとしている。しかし日本には「本当の無垢なわたし」への信仰がある。「根はいいひと」という表現がそれである。

 精神分析理論というのは眉に唾をつけて話八分できかなくてはいけないものだと思うのだが、それでも、精神分析的見方というのは面白い。天皇=女性ジェンダー論もすごくいろいろなことが切れそうな刃である。そして、この見方は日本の共同体論にも切れ味がよさそうである。
 「坊ちゃん」の清というのは、日本人の精神のキー・パーソンなのだなと思う。自分がこれこれのことをなぜしているのかということは、ほかの誰にも理解されないとしても、あの人にだけは理解されているはずだ、というような物語が日本人はとても好きである。それがアイデンティティーを支えていて、それが裏切られるとアイデンティティーが崩壊する。でも、「ブルータス、お前もか!」ということもあるから、これはとくに日本人に限った心情ではないのかもしれないが。
 たしか東映やくざ映画の主題歌であった「唐獅子牡丹」という歌に「幼なじみの観音様にゃ、俺のこころはお見通し」とかいう台詞があったと思う。ほかの誰もわかってくれないにしても、観音様だけはわかってくれるだろうというわけである。ここにある心情、<真情、真心、無垢な自分>といったものへの信仰から、内田氏のいう「大人」への飛躍が可能であるのかが問題である。
 明らかに内田氏の「大人」は背後にカソリックユダヤ教的な構造を隠している。
 幼なじみの観音様が、裁くエホバへの飛躍するのである。それともそれはエホバに飛躍するのではなく、マリア信仰へとそのままつながっていくのだろうか?