斎藤環 「心理学化するする社会 なぜ、トラウマと癒しが求められるのか」

   PHP 2003年10月16日初版


 精神科医斎藤環氏の本。斎藤氏は「ひここもり」などについていろいろと論じている人らしい。
 何がいいたいのか、よくわからない本である。斎藤氏には非常に失礼ないいかたになるが、保身のための本、自己弁護のための本、卑怯未練な本という気がする。そういうことをわかって書いているならずるいし、わかっていないなら頭が悪い。ある種の私小説を読んだ後に感じるいやらしいを感じさせる本である。
 まず、最近トラウマを主題とする小説が多く刊行されているというところから話がはじまる。「永遠の仔」「白夜行」など。さらには村上春樹の小説などもその流れの中にあるという。さらには小説だけではなく、音楽や映画についても同様の傾向がみられる、として延々と例をあげていく。全体で200ページほどの本文の四分の一がそれに費やされる。著者がいろいろな小説や映画や音楽について該博な知識をもっていることはわかるが、この部分は著者の様々な知識の自慢話のようにも思えてしまう。50頁も読まされたあげく、著者が何がいいたいのか良くわからないのである。「永遠の仔」がベストセラーになった。とすれば、その読者は膨大にいる。だから、「永遠の仔」を読んで感動している人間はどこかおかしいんだぞ、とははっきりとはいえない。奥歯に何重にもものが挟まって、歯切れが悪いこと夥しい書き方になる。延々ページを費やして、現在の様々な表現媒体において、トラウマが非常に好まれるテーマになっているといういうことをいうだけなのである。それがなぜなのか、それについて著者はどう考えるのかということをいわない限りは本を書く意味はないと思うのだが、それは明かされない。
 それで次にいきなり話題は、精神医学と心理学はどう違うのかということに移ってしまう。著者によれば、精神医学は精神障害を診断し、治療するためのものであるのに対して、心理学は正常なこころのありようを知るためものなのだそうである。しかし、心理学についてそのように考えているひとはほとんどいないのではないか? 最近の心理学ブームは一見不可解におもえる心のさまざまな動きを理解したいということから発しているのは間違いない。斎藤氏の鎧の下からのぞくのは、心の異常の問題はおれたち精神科医にまかせておいて、心理学はでてくるな、という思いなのである。だから、臨床心理士の資格認定については氏の主張はきわめて屈折している。だいたい臨床心理士に資格が必要かどうかということは、なぜ、トラウマと癒しが求められるのかという問題とは何も関係がない話であって、いわば業界内部の勢力争いの問題にすぎない。そんなことを読まされる読者はいい迷惑である。
 トラウマやアダルトチルドレンやPTSDといったものは精神医学的には有用な概念であるのだが、それが大衆によって濫用誤用されるにいたって問題が生じるという。しかし、著者はテレビなどにでて、それらを広めることをしている人間なのである。
 著者は、トラウマがある人にあったかどうかは、後年その人に何かがおきない限りわからないものであるという。トラウマはその人の将来を予言するものではなく、事後的にしかその存在を知ることができないものであるという。何かがあったからはじめて、その人にトラウマがあったかどうかが推定されるのであるということである。そしてトラウマは心的現実であって、本当にあったかどうかはどうでもいいことなのであるという。その心的現実という考え方を提示したのがフロイト精神分析学の最大の功績であり、そのことを知らず、トラウマというのが本当にあったことなのだと信じる人間は愚かなのであり、現在のマスコミの論調は、その点に気付かず、トラウマを事実として扱おうとしている点で、愚かであるという。
 ここにきて、巻頭論じられた様々な小説、映画、音楽などは、トラウマを実際にあったできごとと同一視している点で、批判されるのであろう。しかし、ずるいことに著者はそんなことはひとこも言わないのである。
 しかし、一方では、人が生まれること、出生という現実そのものがトラウマであり、言語の獲得もまたトラウマであるのだという。そんなことをいえば、人が生きてきて経験することがすべてトラウマになるうるのではないか?
 一体、著者は何をいいたいのだろう。一方では、トラウマは心における現実であって、実際の経験とはまったくかかわりのないものであるといい、一方では、ひとのあらゆる経験がトラウマでありうるという。しかし、トラウマがあったかどうかは事後的にしかわかならいという。そうであるなら、あらゆることはすべて説明が可能であり、しかもその誤謬は一切証明できないということになる。そういう言説になにか意味があるのだろうか?
 さらにわからないのが、著者は精神科医として日常の臨床では、ほとんど向精神薬による治療をおこなっており精神分析的なことはおこなっていないにもかかわらず、マスコミから何かの事件について意見を求めれると、精神分析学的用語で答えることを常としてしている、精神分析用語を用いたほうが説得力がある説明ができる、などと平気で書いていることである。明らかに著者は生物学的精神医学で日常臨床をおこない、社会現象の説明には精神分析学を用いるのであるが、その矛盾に悩んでいるようにも見えないのである。
 さらに著者は、最近脳学者が心の問題に口をだすようになってきたのも気に入らないらしい。澤口俊之氏などがやりだまにあがっている。たしかに澤口氏の言説はとんでも本レベルであるのかもしれないが、ひるがえって考えれば自分の説明だって五十歩百歩ではないかという自覚が斎藤氏にないのが不思議である。斎藤氏が日常臨床を生物学的精神医学でおこなっているのならば、心の問題が大幅に脳の現象であることは認めているわけである。澤口氏の言説がどんなにへんてこなものであったとしても、とにかく脳から説明しようとはしている。そうなら、本来斎藤氏の臨床の立場とはどこかで連続しているはずである。しかし斎藤氏は、社会現象を脳からではなく精神分析によって説明するのである。
 精神分析は、脳を分析から心の問題にアプローチすることは現状の科学のレベルでは不可能であるとして、とりあえず脳をブラックボックスと見て、何らかの仮定のもとに精神現象をみていこうという立場であったはずである。氏は精神分析側から、立花隆氏なども脳還元論として批判する。かりにある種の犯罪をおこなうものには共通して脳のある部分に異常があるというようなことがみつかったとしたら、法学をふくめて途方もない問題を提起することになるが(現在でもスーパー・メイル・・・染色体XYYの犯罪は処罰の対象にはならないのではないだろうか?)、それでもあらかじめその可能性を脳還元論として封印してしまうことは、してはいけないことではないだろうか?
 最終章の<「心理学化」はいかにして起こったか>でようやく本書のテーマがとりあげられる。著者によれば、「社会の心理学化」というのは、「精神分析のシステム論的応用」であり、「精神分析的知識を自己言及的に応用すること」なのだという。さっぱりわからない言い方だが、平たくいうと、精神分析という本来一回性の現象を解釈するための技法の中から、一般的知識(トラウマ・転移などなど)を抜き出して、そうした知識の目で他人や自分をみることなのだそうである。それをもっと平たくいうと、そういう知識の目でみれば誰でもへんに見えるんだよ、ということらしい。そしてついにはみんな変であることにプライドももつようになるのだという。今までは自分も他人も病気とすら思っていなかった現象が立派な病気と認知され、患者がメンタルクリニックに通い、カウンセリングをうけるという状況になる。トラウマは誰でもがもつ極少の物語になったというのである。それで最後に自分はラカン派であるという話がでてきて唐突に終わる。

 「社会の心理学化」と著者がいうものを形成するにあたって著者は相当それに加担している。まず本書はそれに対する自己弁護の書である。そして自分が播いた種を自分が刈り取らなければいけなくなって、困惑しながら、それでも社会に対して偉そうな顔をしたいという欲望だけはすてられないということもいっているのである。でも、ぼくのいうことなんかあんまり安易に信じてはいけないよ、そんなことをした結果についてはぼくは責任を負いませんよ、ともいっているのである。いわゆるポストモダンの周辺で言動している人の最悪の標本がここにあるように思う。