夏樹静子 「心療内科を訪ねて−−心が痛み、心が治す」

   新潮社 2003年8月15日初版


 著者の夏樹氏はミステリ作家であるが、かつて重症の腰痛に悩まされたことがあり、それが心療内科で治癒したという履歴をもつ。その氏がさまざまな心療内科患者にインタヴューして書いた本である。
 氏は約3年にわたってほとんど執筆活動ができない位重傷の腰痛を経験した。整形外科、内科、婦人科、神経内科での精密検査でも原因がはっきりせず、さまざまな民間療法もおこなった。ペインクリニックにもいった。最後に心療内科の専門家にかかることなる。しかし、その医師から痛みは心身症であるといわれても信じない。そういうのは病気の治し方がわからない医者の責任転嫁であると考える。しかし、ほかに方法もないまま疑問をかかえながらも心療内科に入院する。そして仕事への潜在的な疲れがその症状を作っているのだから、作家という仕事から手をひくことを奨められる。もうすでに執筆ができなくなっていた氏は、不承不承それを受け入れる。そうすると少しづつ症状が軽くなってくる。二ヶ月の入院で症状は完全に消失する。
 本書では狭義の心身症の症例がとりあげられている。メンタル・クリニックが心療内科の看板をだしているような症例はとりあげられていない。円形脱毛症、斜頚、喘息、過敏性大腸、過食・拒食といったわれわれも通常遭遇する症例がとりあげらられている。
 インタヴューで、患者さんの多くが、なぜよくなったかと思うかときかれて、「医者にゆっくり話をきいてもらえて」「自分の感情を発散させることができ」たことなどがよかったのではないかといっている。そして「医者と患者の相性」が大事であるという。
 夏樹氏の主治医は立ち止まることさえつらかった夏樹氏の症状についてこう説明したのだという。「絶えず走り続けることによって自分を支えてきたあなたは、立ち止まることがすなわち心身の不安的に直結してしまうのです。」 夏樹氏が治ったのは事実である。しかしこの説明は<物語>であって、その真実性はたしめようもないことである。もしも呪いが信じられているところであれば、誰々さんがあなたに呪いをかけていたからというのがもっと信用される説明であろう。
 治療の転機は「気付き」である、と夏樹氏はいう。自分の生活、物事への対応など、自分にも責任があるという自覚が訪れたとき、回復が始まるのだという。

 本当に不思議なのはこれだけ重症の症状がまったく「心」だけを原因としておきうる、ということである。夏樹氏もこんなに重症の症状が単なる気持ちの問題でおきるはずがないという思い込みからどうしても当初は逃れることができない。ある喘息の患者さんは、心因もあったかもしれないが、同時に用いた新薬の効果もまた大きかったのだと思うが、段々と薬がへっていき、ついにはまったく薬が必要がなくなって、はじめて自分が心身症であったということを本当に受け入れる。
 このようなことがある以上、ある心の状態がなんらかの身体症状を作るということはまぎれもない事実である。しかし、それがどのような身体機構でおきるのかということはまったくわかっていない。肺炎がどういう原因でおき、そのとき身体にはどのようなことがおきているかについては、とにかくも医療者に共通に受け入れ可能な説明が用意されている。しかし、心身症についてはそういうものはいまだ皆無である。かなりの心身症症状が抗うつ剤でよくなることからすれば、なんらかの脳の変化を反映しているのではあろうが、いえることはそこまでである。はるかかなたのブラックホールの存在さえ、なんとか説明できる時代になってきたのにである。
 <受容・支持・保証>が心理療法の三大要件であるといわれている。しかし、このようなことは、もはや最新の内科学の教科書にはどこにも書かれていないのではないだろうか? 大体、<受容・支持・保証>がどのように治療過程に影響するのだろうか? 数ヶ月もかかって効果がでてくることの原因と結果の因果関係を述べることなど可能なのだろうか?
 夏樹氏は、患者さんがいう医者との相性とは<ラポール>の成立のことなのではないかという。しかしラポールの成立というのは患者さんと医療者の遭遇の一期一会であって、もはや教科書にはあるいはマニュアルにはしえないものである。
 医療者が患者さんの訴えに共感するとき、そこからラポールが生じるのであろうかというのが夏樹氏の推論である。共感というのはおきてしまうものであって、しようと思ってできる性質のものではない。医療が最終的にどうしても科学にしえない部分がある所以であろう。