佐々木俊尚「2011年 新聞・テレビ消滅」

 文春新書 2009年7月 
 
 内田樹さんのブログで紹介されていた。
 こういうタイトルであるが、主眼は情報を伝達するための手段がこれから変わっていくだろうという話である。広告もまた情報であるから広告の話も大きな比重をしめることになる。広告の媒体がかわっていくから新聞もテレビも駄目になっていくだろうということでもある。
 アメリカのメディア業界でおきたことは3年後に日本でもおきるのだそうである。4年前、アメリカではテレビの広告費が急減しはじめた。2008年日本でもそうなった。2008年アメリカでは多くの新聞が倒れた。そうであるなら2011年、日本もそうなるであろう、と。2011年には完全地デジ化と情報通信法の施行がある。これは避けられない、と。
 マスが消滅しはじめている。みんなが読んでいる雑誌、みんなが購読している新聞というのはなくなりつつある。
 本書のキーワードは「コンテンツ」「コンテナ」「コンベヤ」。新聞でいえば、「コンテンツ」が記事、「コンテナ」が新聞(紙)、「コンベア」が販売店。ここで一番かなめになるのが「コンテナ」だという。「コンテナ」を握るものが力をもつ。今まで新聞は記事を作り、それを編集して紙面を構成し、それを販売店を通して配布してきた。広告は「コンテナ」に付属する。紙面が配布されなければ広告も届かない。たとえば新聞をすべてネットに移行したとする。読者?が最初からそのネットの新聞にアクセスしてくれればいい。しかし、たとえば最初にヤフーにアクセスし、そこでの記事の目次からネット新聞にくるならば、読者はその関心ある記事を読んでおしまいである。ネット新聞全体は読まれない。とすれば広告主は、広告はヤフーのほうにおくはずで、ネット新聞には広告はあつまらない。
 広告の市場はつねに国民総生産の1%なのだそうである。そうであればネットの広告が増えれば新聞は減る。当然である。今やネットの広告費は雑誌とラジオを抜き、新聞に迫っているのだそうである(今日の新聞に、ネットが新聞を追いこしたということがでていた)。
 そういう事態になると編集者が編集してこの記事が大事などといっても、それが通用しなくなる。この記事が大事、これを読んでくれといってもきいてもらえなくなる。今までは、「コンテンツ」「コンテナ」「コンベヤ」を新聞あるいはテレビが一手に握っていた。それが新聞は記事を、テレビは番組をつくることだけしかできなくなり、「コンテナ」を独占できなくなってきている。
 マス・メデイアが衰退し、ミドル・メディアの時代になってくる。今までも本当はミドル・メディアの需要は大きかったのだが、コストが見合わなかった。
 日本のテレビで黒字を維持できそうなのは、赤坂サカスの賃貸料でかせぐ「不動産テレビ屋」TBSだけになりそうなのだそうである。
 いままでテレビ局がパワーをもってきたのは、電波免許でテレビ局の数が増えないできたからである。国民総生産の1%の広告費は電波の独占の上に注がれざるをえなかった。しかしハード・ディスク録画が発達してきた。録画したものを見るとき多くのものはCMをとばす。録画したものをいつみているかわからないからゴールデンタイムなど意味なくなる(ゴールデンタイムに、前夜録画したものをみているかもしれない)。さらにユーチューブである。iTunes Store ができてCDが売れなくなったように、テレビが見られなく可能性は高い。
 
 ということで、テレビと新聞はどうも駄目らしい。とはいっても著者もいっているように、斜陽になった日本の他の産業と同様に、「あのひとたちも昔は羽振りがよかったらしいね」といわれながらも細々と生きているのであろうが。
 わたくしはテレビにはあまり関心がないので、それがどうなってもかまわないようなものだが、それなら新聞はどうなのだろう。活字中毒なのでないと困るような気もするが、本当に読んでいるのは日曜の読書欄というのか書評欄というのかだけであるような気もする。「朝日」をとっているが同居している親が「毎日」をとっているのでその両方の読書欄はほぼ読んでいる(わたしの好みからいうと、「毎日」の方が面白い本を紹介してくれている気がする)。石川淳丸谷才一文芸時評を書いていたときはそれも読んでいたが、最近の文芸時評はつまらないから読んでいない。それで思うのだが、新聞というのは案外とその容器に収納できる文章量が少ないのではないだろうか? 石川淳文芸時評が画期的だったのは、文芸時評欄一日分で一冊、場合によっては二日かけて一冊の本を論じることをはじめたことで、書評というのは本来そのくらいの字数を要するものなのだと思う。日曜の書評欄はほとんどさわりだけという感じである。本当に論じる前に終ってしまう感じ、イントロだけという感じである。それはそれで高度な芸なのかもしれないが、ものたりない。

 文学といふのは、要するに、本のことである。その他に新聞や雑誌に載つたものは文学の切れ端と見て構はなくて、その証拠に、文学の切れ端と呼べる程度にその中に読み甲斐があるものは後に一冊の本に纏められ、この方が一層何か読んだ感じがする。それを新聞や雑誌で我慢するのは忙しいからといふ理由があるのかも知れないが、忙しい人間に文学、つまり、本を読むことの必要などない筈であつて、それでも教養が見に付けたいといふ種類のいぢらしい考へでゐても、さうしたせかせかした気持で人が書いた言葉など楽しめるものではない。仮に本当に教養が身に付けたいのであつても、そんなに忙しいならば、又、教養といふのが精神を快活にするものであるならば、その間に眠つた方が体にも、精神にもよささうである。(吉田健一「文學の楽み」)

 新聞には切れっ端しかない。それならというので以下書くのは、いま思いついたばかりのネット時代の新聞のささやかな増収策である。
 新聞は紙面すべてをネットにも載せる。ネット上の新聞が紙の新聞と違うところは、各記事をクリックするとさらに詳しく読めるようになっていることで、クリックして先に進むとそこから先は課金されるシステムにする。
 新聞で記事になっているのはほんのエッセンスであって、そのささやかな記事が書かれるためにも膨大な取材、それにかんするさまざまな議論などが背景にあるはずである。それをネット上にすべて載せてしまう。元新聞記者である著者の「あとがき」に、現役時代、記者同士は「俺の原稿の扱いが小さい」といったことで喧嘩していたのだそうであるから、自分の書いた原稿が編集の過程で削られたり直されたりしないで、そのまま読まれる機会ができることは、記者のモラルをあげるのではないだろうか?
 社説なんかもあんな小さなスペースにわかったような偉そうなことを書いても仕方がない。それで、その社説ができるまでの議論の過程も全部載せてしまう。場合によっては「社説B」とか「社説C」とか、異論を別に出してもいいのではないだろうか?
 そんなことをすれば社としての方針の一貫性はどうなるのだということになるのかもしれないが、そんなものはいらないのである。多様な人間をたくさん社内において、そこで豊かな議論が構築できることが大切なので、○×新聞という疑似人格があって、それがある方向性を持った指針をもち、世の中を指導していくなどという時代はもう終ったののである。必要なのは結論を知ることではなくて、あることについて考えることなのだから、新聞は考える材料を提供すればいい。
 そういう仕組みをつくってもどのくらいのひとがお金を払ってまでクリックしてくれるのかはわからないが、新聞は紙面に載ったものの背後に膨大なものを捨ててしまっているのではないかと思う。それが案外と金のなる木にならないとも限らないように思う。
 ネットのいいところは、いくらでも制限なく書いていいことなのだから、それを利用しない手はない。世に書きたがりは多いと思う。新聞の原稿を頼むときに400字4枚などとけちなことはいわず(原稿料は4枚分しか払わないとしても?)いくらでも書いて結構です、あとはネット新聞のほうに載せます、として載せてしまう。そちらにクリックがあれば課金の何%かを支払う。ネットのほうにたまっていった原稿は、クリックが多いものは本にするという手もあるかもしれない。本好きは一度読んだ文章でも、本になるとまた買うものである。本にしようとすると、ある数が売れなければペイしないのならば、キンドル日本語版などができれば、それに売ればいいのではないだろうか?
 日本語版のキンドルがでるのかどうかは知らないが、既刊あるいは新刊の書籍を読む手段としてよりも、書籍としては流通しにくい、いわゆるロングテールの側にあるものを読む手段としてのほうが使えるような気がする。例えば同人雑誌、あるいは、わたくしに近い分野でいえば学術雑誌などというのは将来は紙のものはなくなり、電子データだけがあり、それを参看したいときはダウンして電子書籍として読むということになるのではないかと思う。学問の世界ではどんどん専門分化が進んでおり、ある専門分野を研究しているのは世界で3人とか10人といったことはしばしばあるらしい。だからそのひとたちはその3人あるいは10人のために論文を書いている。その内輪のサークルのために書いた論文をその学会に属する千人とか5千人全員に本にして配るなどというのはパルプの無駄である。森林保護やエコのためにも学会誌などというのはやめたほうがいいのではないかと思う。
 

2011年新聞・テレビ消滅 (文春新書)

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雁のたより (朝日文庫)

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吉田健一集成〈2〉批評(2)

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