
ピアノ大陸ヨーロッパ──19世紀・市民音楽とクラシックの誕生
- 作者: 西原稔
- 出版社/メーカー: アルテスパブリッシング
- 発売日: 2010/04/20
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クラシックでわかる世界史 時代を生きた作曲家、歴史を変えた名曲
- 作者: 西原稔
- 出版社/メーカー: アルテスパブリッシング
- 発売日: 2007/10/24
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偶然見つけた本。まだぱらぱらと読んだだけだが、前者ではモツアルトのピアノ協奏曲の緩徐楽章がショパンなどのノクターンのもとになったという指摘があった。確かに第21番の第二楽章など何だか映画音楽だけれども(実際に使われたらしいが)、それでも、サロン音楽とは別の何かという気がするのだが。これに関して、もっと一般的にいって、早いテンポの音楽から遅いテンポの音楽へ、ということがいわれている。現代音楽はアダージョの音楽ばかりになってしまっているように思う。ピアノという楽器は遅いテンポの音楽には向かない楽器であるのでないかという気もする。何しろ音を持続できないのだから。それを補うものとして左手の分散和音とペダルがあるのだろうが、分散和音などというのは調のある音楽を前提しているものだし。ピアノというには調性音楽と運命をともにする楽器なのではないだろうか? 現代は弦楽器の時代なのだと思う。
後者では、ベートーベンの第九の「歓喜によせる頌歌」がシラーがフリーメイソン思想に深く共感して作ったものだとあってびっくりした。知らなかった。わたくしはこの「頌歌」はシラーがつくったどうということのない駄作であるのに、ベートーベンという変人がどういうわけかしつこくこだわり続け、そのために結果として後世に残ってしまったのだとばかり思っていた。この「頌歌」はフリーメイソンのあいだでひろまり、各地に広く伝搬していたのだそうである。そうだとすると当時の聴衆はこれをきいて、「ああフリーメイソン!」とわかったのであろうか? われわれは毎年末にフリーメイソン思想を聴かされ続けているのだろうか?