小林慶一郎 加藤創太「日本経済の罠 なぜ日本は長期低迷を抜け出せないのか」

日本経済新聞社 2001年3月15日 初版]


 村上龍「対立と自立」(NHK出版)で、北野一氏が、2001年の自民党総裁選挙で各候補がかかげた経済政策の中で、一番ドラスティックなのが橋本竜太郎が掲げたもので、それは小林らの「日本経済の罠」での提言そのままである、といっているのをみて、読んでみる気になった。大変面白かった。
 この本での小林らの主張の根幹は以下のようなものである。すなわち、日本経済の問題は、バブルが発生したことでも、バブルがはじけたことでもない(それらはどこの国でもあること)。バブル崩壊後の低迷が10年以上も続いていること(これは異常)が問題である。その長期低迷の最大の原因は、不良債権の問題が処理されずに「先おくり」されてきたことにある。
 従来の日本の不況に対しては、ケインズ型の対策と構造改革型の提案がなされ、双方が対立するもののようにとらえられてきた。しかし、両方とも間違った対策ではない。
 ケインズ型の対策は、経済自体に自然治癒力があることを前提とする対症療法である。不況がおきたのはなぜか、すなわち需要が不十分なのは何故かという原因を問うてはいない。したがってもしも経済体制に構造的な問題があり、それを解決しないかぎり自然治癒しないとすれば、ケインズ政策は一時的な効果しかもたない。事実、この10年はそういう結果を示している。
 一方、構造改革論は、供給側の変化が必要であることを論じるものであるから、需要の減少という不況の根本に対して、それがどう有効に働くかについては、十分に説得的な議論を展開できてはいない。
 この両者の対策はそれぞれ必要なものであり、有効なものでもあるが、日本の長期低迷の一番根本のところを解決するものではない。

80年代の日本は楽観に支配されていた。日本経済・経営システムは世界に冠たるものとされ、政府は日本が世界で一人勝ちして世界の反感をかわないかと気をもんでいた。
 地価の高騰も株価の高騰も、東京が世界の金融センターとしてニューヨークやロンドンにとってかわるための副産物と捉えられ、正当化された。
 90年代に入ると株価と地価が下がりはじめ、
 92年には経済の停滞が顕著になってきた。80年代後半の繁栄はバブルであったといわれるようになった。
 それでも当初は不況は一時的なのもであると考えられていた。
 95−96年にかけて一時的に成長率が回復したものの、
 97年の金融危機を契機に成長率はマイナスにまで落ち込むようになっている。

 80年代の日本経済
1)両建て取引:地価の下落にきわめて弱いシステム
2)企業の銀行への過度の依存:すなわち銀行へのリスクの集中。(70年代後半に高度成長から安定成長に時代へと移行する時期に、本来はリスクの分散を図らねばならなかった。
 銀行は、みずからの内部でのリスク分散システムの構築もおこたった。
3)国際資本市場:70年代半ばに、為替相場は変動性に移行した。大量の投資資金が国境をこえて流れるようになった。
4)金融政策:90年の金融引締めをバブル崩壊の原因とするものは多い。しかし、著者らは91年以降のマネーサプライの低迷は、日本の金融システムに内在する構造問題がひきおこした信用収縮によるものとかんがえる。

 90年代の実態経済の動き
 90年代以降の長期の景気低迷は、経済循環によるものとしては説明できない。
 それを公共投資で補おうとして、国と地方の長期債務は大幅に増加しており、国際的にも異常なレベルで、持続可能なものかどうか疑問である。

 90年代の経済政策
 91−92年:バブル崩壊直後
 政策当局はなにをしていいか、バブル崩壊が経済にどのように影響するかまったく判断できなかった。教科書的には、市場メカニズムによって、こういうことは短期に吸収されることになっていたからである。そこで条件反射的にケインズ政策が発動された。このころには、こういう対策をするとひたたび地価が暴騰するのではないかという懸念もつよかった。
 93ー95年:ストック調整期
 企業は80年代後半から過剰になっていた資本ストックを調整した。金融緩和政策も持続した。それにもかかわらず景気は回復しなかった。
 不良債権問題もとりあげられるようになってきたが、それが不況とどうかかわるかははっきりしなかった。94年の2つの信用組合への公的資金の注入が激しい批判の対象になったため、不良債権問題は政治的タブーとなっていった。
 不況脱出のためには「規制緩和」が必要であるということが盛んに唱えられるようになった。
 95−97年:一時的な回復
 一応、危機が克服されたように見えたため、橋本内閣は「財政構造改革」などの「6大改革」をうちだした。
 97年後半-99年:全面的金融危機
 97年11月の三洋証券の倒産を皮切りに、北海道銀行山一証券が倒産し、長期信用銀行なども危機に瀕した。
 そのため、金融機関への公的資金の注入がおこなわれ、財政政策もふたたび拡張路線へと転じた。
 98年後半から99年前半までは、とにかく財政政策でいこうという方向であったが、98年秋のムーディーズ国債格付けを引き下げたのを契機に、財政膨張への懸念が強まってきた。
 そのためサプライサイド的な改革論がいろいろとではじめた。企業のリストラこそが景気の回復に必要だとする立場である。しかし、企業のリストラがどのように需要と結びつくかは十分には議論がなされていない。

 経済学的な背景
 新古典派は、需給ギャップは放任していればすぐに回復するので、政府の介入は不要であるという。ケインズ派需給ギャップはその解消に相当に時間が必要である(需要が減っても価格が下がるまで相当に時間がかかる)し、自分が売っているものが売れなくなると、投資や消費を控えるようになり、さらに需要が減退することもあるとする。
 つまり、価格調整が短期か長期かという見方の違いが根本にあり、またケインズ派は「合成の誤謬」、個々人の合理的な行動が全体としては非合理になる(ミクロ経済学の原理を間違ってマクロ経済学に応用すると誤った結論になること。例:自分の製品の売れ行きが落ちたので、節約しなければと思うと、経済全体のものの売れ行きが落ち、自分の製品もまた売れなくなる)、を強調する。
 ケインズ経済学は短期の景気循環を対象にする対症療法である。これを現在の日本のように長期続けることには問題がある。

 なぜ10年にもわたる長期の不況が続いているのか?
仮説1)財政出動の規模が不十分だった。
仮説2)公共投資の対象が間違っていた。例:土木でなくITなどに投資すべきだった。
仮説3)日本経済は「流動性の罠」に陥っている。
 1)には原理的には反論できないが、財政政策は、経済を回復させる力自体があるわけではないことを理解することが必要である。それは自力で回復するまでの時間稼ぎである。
(97年の金融危機やアジアの経済危機がなければ、自力で回復していたはずという主張はある。しかし金融危機はそれ自体が不況をおこしているのではないか・・・本書の主張。)
 財政政策にはそれ自体で経済を治癒させる力があるという主張に対しては、クルグマンのそれは「複数均衡」を前提にしなければなりたたない議論であるという批判が有効である。
 2)に対しては、公共投資はどのようなものに投資しても需要を増やすという点から批判できる。公共投資の対象を変えることは長期には社会の構造を変え、需要に大きな影響をおよぼすことはありうるが、短期のケインズ政策の目的とはあわない議論である。需要がないときに供給がふえればかえって不況が悪化することさえありうる。
 3)これはクルーグマンの議論で最近賛成するものも多い→調整インフレ論。このクルーグマンの議論は、日本経済が長期的に衰退しGDPが縮小していく経済であるという認識を前提にしている。だから、日本経済が縮小している原因をとりのぞくことができれば、クルーグマンの議論は前提がなくなってしまうことになる。

 ケインズ型の対策をいくら続けても効果がなかったため「構造改革論」がでてきた。これはミクロ経済学の領域である。
1)規制緩和
2)「資本収益性の低さ」を改善せねばならない→企業リストラ論
 1)は規制緩和によって新しい需要が生まれるのかが問題である。また90年以前に同じしくみがどうして有効に働いていたのかも説明できない。(日本の旧体制は規格品の大量生産にむいているシステムであるが、それらに中国などが進出してきて、日本がもはやそれではやっていけなくなり、あらたな創造性で勝負する社会を創造することが必要になったのに、旧体制はそれにはむいていないが、規制によってあらたな分野が創造されないため、低迷しているとする議論はあるようである)
 2)においても「合成の誤謬」がはたらく。個々の企業がリストラで効率化しても、全体としては失業率が増大して、総需要も低下する。
 1)も2)も長期的には必要な施策である。しかし現今の日本の不況の対策としては有効ではない。
 しかし、こういう「規制緩和」や「企業リストラ」は不況においてしかできないのかもしれない。「危機」のときにしか改革はできないのかもしれない。

 不良債権の存在がなぜ問題なのか?
 モディリアーニ=ミラーの定理(MM定理)、企業のバランスシートは企業の事業活動には影響しない、すなわち、いくら借金があっても、もうかる事業がみつかったらやる、からいえばいくら不良債権があっても、企業の活動には影響しないはずである。
 しかし「依頼人代理人関係」に存在する「情報の非対称性」のため、実際には影響する。
 標準的な解釈によれば、債権者は債務者があらたな事業で収益をだすことからこうむる不利益はない。つまり自分への返済は後回しにしても新規事業をしてもらうべきである。
 しかし、債務者が新たな有利な事業があることを装って返済を後回しにしていないか、「情報の非対称性」のために十分には確認できない。つまり返済の猶予の可能性があると債務者にはモラル・ハザードが生じやすい。であれば、債権者はつねに自分への返済を最優先させようとする。
 「情報の非対称性」をカバーするためのものとして担保がある。これが債務者のモラル・ハザードの予防として働く。この担保の価値が落ちると企業は十分な投資ができなくなる。
 バブルが崩壊し、不良債務が増えると債務者はいくら有利な案件があっても新たな投資ができなくなる。経済全体で総需要が減る。また担保価値が下がると新たに調達できる資金の量がへり、これも全体での総需要を抑制させる。総需要が減るとさらに担保の資産価値がさがる(土地などへの需要が減るから)。これがデフレ・スパイラルの大きな原因となる。
 クルーグマンアジア通貨危機モデルは、これを考えるよい例となる。ここでの通貨の下落を土地や株価の下落でおきかえれば、日本に適応できる。アジアにおいてはそれまでは健全であった経済が、通貨について悲観的な見通しがでたとたんに崩壊してしまった。ここでは、楽観的な見通しの場合と、悲観的な見通しの場合の二つの均衡状態があり、見通しが変ることによって、別の均衡に一気に落ち込んでしまうのである。
 しかしアジアの危機は一時的であった。しかし、日本の危機は続いている。それは不良債権が存在するからでなく、その処理が先送りされていることによるのである。
 日本経済には二つの、良い均衡と悪い均衡が存在する。90年代以前にはよい均衡が達成されていた。90年代以降は悪い均衡に落ちいっている。

 複数均衡について、直感的に理解するためには、ゲームの理論における「囚人のジレンマ」を思い浮かべるとよい。相手を信用できないと、両者にとって最善の選択ができないというケースである。相手を信用する場合とそうでない場合で二つの均衡が存在する。相手を信用するとよい均衡が実現し、信用できないと悪い均衡が実現する。そして、そのどちらの場合においても自分の判断が正しかったことが証明されるのである。
 従来の経済学においては、自由放任にしておけば、「神のみえない手」によって経済は最適の状態で均衡すると考えられていた。このゲームの理論的な複数均衡論はその前提に根本的な疑問をなげかけるものである。
 もしも、他の経済主体の行動が自分の利得に影響するという状況があれば、このゲームの理論が意味をもってくる。

 本来、不良債権をかかえた債務者は倒産するはずなのである。なぜそれが倒産しないのか?倒産せずに処理が先送りされるのか?
(説明1):資産価値の一時的な低下という不可抗力的な外部要因で債務が返済できなくなったのであり、本来の企業の本来の業績自体は悪化していないから。地価の下落は一時的なものと判断されるなら、これは合理的判断である。
(説明2):これは債権者のモラル・ハザードであり、現時点での利益だけを考えるなら、追い貸しをおこなっても、一部でも返済させたほうが得とする判断。しかし、これは近視眼的な見方であり、これをやってしまうと他の債務者にも自分もそうしてもらうことを期待するというモラル・ハザードを長期的には生じさせてしまう。自分をとりたててくれた前任者に頭があがらず、株主はあまり気にしない日本の経営者には多い行動パターンである。
(説明3):もしも追い貸しをすることで、その企業が生き返るなら、同じ額の投資なら他の新規物件に投資するよりリターンが大きい。Too big, to fail.論。
(説明4):90年代の公共投資不良債権を多くかかえた不動産業界などを延命させる方向に働いた。これが追い貸しをして延命させておけば政府の経済対策で救済されるのではないかという期待を生んだ。Too big, to fail.論。
(説明5):先送りを可能にした制度・環境があった。行政当局・監査法人などが先送りを容認するようにみえた。<段階的・計画的な不良債権処理>という言葉は金融システムの安定のために処理の先送りを認めたとうけとられた。

 不良債権の処理が先延ばしのされることが経済にあたえる悪影響
 追い貸しなどによって延命させられていり企業は、銀行に生命与奪の権利を握られている(あるいは最近ではもっと高度な政治的判断で倒産したり生き延びたりする)。銀行の考えが変れば、あるいは政府の意向が変れば倒産する。
 現在の企業体制では、一社ですべての生産が完結するなどということはなく、多数の会社が複雑にからみあって生産をおこなっている。そのなかに一社でも延命装置で生き延びている会社があれば、それは状況の変化でいつ倒産するかわからないので、他社も最大利益をえる行動ではなく、もっとも安全な行動をとるようになる。日本の経済体制では、生産に関係する会社は通常緊密に連絡をとっており、囚人のジレンマがなりたつような相互のコミュニケーションの途絶はおきない。しかし延命会社が自分の意思を持てず銀行が決定権をもつようになると、コミュニケーションが途絶する。まして2社が延命中でそれぞれ別の銀行が決定権をもつ場合には、囚人のジレンマが成立していまう。
 他の銀行が追い貸しを続けているなら、自分も追い貸しを続けたほうが合理的であることになり、先送りがいつまでも続いていく。
 実は「行政指導」というのは従来、企業間の仲介をし、信頼関係を醸成することにより「良い均衡」をつくりだしてきたのではないかという説が最近でてきている。「護送船団方式」もそれである。政府が保証人になってきたわけである。 
 しかし「行政指導」のさまざまな弊害が指摘されるようになり、それが有効に機能しなくなってきている。

 それを解決するためには、債権を市場化するという方向がある。市場化されれば、銀行が個々に把握していた債権情報が共有化され、それらを売買することで、一元的なリスクのもとで投資判断ができるようになる。

 上記のようなことが実際のおきるということは旧ソ連の崩壊からロシアへの移行の時点で事実として観察された。中央権力が崩壊し、それによる指導がなくなり、企業間に不信が生じると生産活動は著しく縮小する。GDPは半減した。
 日本でも90年代以降、複雑な生産過程のものほど生産が落ち込んでいることが観察される。

 不確実性には2種類ある。発生確率が予想できるもの(リスク)と、それもできないもの(不確実性)である。
 「不確実性」のもとではもっとも合理的な行動は最悪の事態がおきるという想定で行動することであることが理論的に証明できる。したがって正確な情報を提供することが必要になるのである。

 以上の考察から、
 不良債権処理を先送りしないで、直接償却すること、債権を市場化していくことなどが大切であることが導かれる。公的資金の積極的な注入も必要である。

 これまで読んできた90年代不況の説明のなかで一番説得力があるもののように思う。
 自分の経験に照らしても、山一証券の倒産あたりから、これは日本は根っこのほうからおかしくなってきているのかなという印象をもったように思う。そういう未来への信頼の低下が、それ自身でパフォーマンスを低下させ、結果として自分の予想が正しかったことが証明されてしまい、それがさらに将来への悲観をうむ、という連鎖はいかにもありそうなことに思える。
 均衡は一つではなく、二つ以上の均衡があり、状況の変化によって、一方の均衡から他方の均衡へ移動するという説明も説得的であった。
 

(2006年3月21日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植)

  • なんだかこのころは不良債権処理ということに興味をもっていたようである。そこに日本の問題が集中的に表れているように感じていたのであろうか?

日本経済の罠―なぜ日本は長期低迷を抜け出せないのか

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