井伊雅子 大日康史「医療サービス需要の経済分析」

 [日本経済新聞社 2002年1月7日初版]


 自分の仕事の関心で読んだ本。まじめな医療経済学の本で、偏微分とか行列式とか数式がたくさんでてくるが、すべて飛ばして読んだ。そのため理解がどこまでとどいているかは覚束ない。
 この10年で日本の医療費は20兆円から30兆円に、老人医療費は6兆から11兆へと増えている。
 日本では国民皆保険であり、アメリカでの民間保険のように加入・脱退の自由がないため、その医療費の増加が効用の最適化をもたらしているという保証はない。
 この本は、需要サイドすなわち患者サイドから医療経済の問題をみたものである。
 キーワードは「価格弾力性」である。価格弾力性(e)とは、価格(p)が1%上昇すると販売量(y)がe%落ちる、そのeをいう(吉川洋マクロ経済学岩波書店による)。医療においては、患者さんの(自己)負担が増えると、医療受診がどの程度減るかを見ることになる。

 医療保険には2種類のモラル・ハザードがありうる。
1)事前的モラル・ハザード(あらゆる保険に共通のモラル・ハザード
 保険にはいっていることによって、ある種の事態の発生の予防に熱心でなくなる。たとえば、医療保険に入っていると、疾病の予防に熱心でなくなる。
2)事後的モラル・ハザード医療保険に特有) 
 ある事象がおきてからでも、行動に選択の余地がある場合であり、たとえば、風邪をひいても必ず病院にいくわけではない、すなわち保険を使うわけではない場合で、もしも保険に入っていなければ、葱を首に巻いて家で寝ているひとが、保険に入っていると病院にいくようになる、というような場合をいう。
 火災保険や自動車保険とちがって、医療保険は対象となる疾病のリスクがきわめて多種多彩なので、事前的な細かい契約ができないのである。
 
 価格弾力性」が高い場合には、より高い自己負担率が最適となることが数学的に証明できる。

 医療を経済学的にあつかう場合に、二つの立場がある。
 1)伝統的モデル:医療も、りんごやパンといった普通の財と変りが無いとする立場。この立場であれば、通常の経済学がそのまま医療にも応用できることになる。
 2)医療は一般の財とはまったくことなる財であることが医学の本質であるとする立場:それは医師と患者の間に情報の非対称性があるからである。費用を負担するのは患者だが、医療サービスをどれだけ用いるかの判断はもっぱら医師がするのである。これは依頼人-代理人関係である。
 かりに2)の立場が正しいとしても、それは患者が医療機関を受診したあとの話であり、そもそも医療機関を受診するか否かの選択は、患者サイドによっておこなわれている(Two-Part モデル)。
 第一パート:受診するかどうか?(なにもしない、首に葱を巻いて寝る、薬局で風邪薬を買う、などと、医療機関受診)
 第二パート:受診した際の医療サービスの内容
 Two−Part モデルにおいては、第一パートを決めるのは患者さんだが、第二パートでの医療費を決めるのは医師である。第二パートでは、医療費の抑制のためには、供給側の規制(病床規制、医学部定員規制など)が重要になる。
 依頼人-代理人モデルを極端にしたものとして、医師がすべての医療投下サービスを決定するとする立場がある。(医師誘発需要仮説) この仮説が正しければ、保険制度をどのようにいじっても医療費を抑制できない。
 本書は、Two-Part モデルの立場にたつ。

 事後的モラルハザードは受診率によって表現できる。
 まず、風邪のような「軽医療」について考察する。「軽医療」については、医療機関受診以外にもさまざまな選択肢がある。このような疾患は「価格弾力性」が高く、自己負担率が低ければ、受診率が高い傾向になる。この場合には、自己負担率を高くすることによって、モラル・ハザードを少なくできる。
 著者らの「風邪」での分析によれば、現在の日本では、医療機関を受診するものが42%、大衆薬で様子をみるものが41%、何もしないものが17%であり、価格弾力性は、0.23-0.36となった。
 この弾力性で計算すると、もしも保険における自己負担が1割増えたとすると、430億円の医療費が節約され、88億円の大衆風邪薬の消費が増えるというという計算になる。
 また薬についての知識が今の10倍増えれば、最大医療費が600億円抑制され、69億円の大衆薬の消費が増える計算になった。

 一方、心筋梗塞のような「重?医療」においては、患者側に選択の余地がすくない。すなわち、病院へいく以外の選択肢はほとんどない。したがって、価格が高かろうが、安かろうが、病院にいかざるをえない。つまり、価格弾力性が低い。そうであるなら、「重医療」の場合は、価格が安いほうがいい。

 自己負担率を疾病毎に変えることなどは不可能であるので、もしも自己負担率が低い場合には、どうでもいい病気でもすぐ病院にいくというモラル・ハザードが働くが、病院にいく以外選択の余地があまりない重大な病気の場合でも費用のことはそれほど気にしなくてもよいことになる。自己負担率が大きくなると、丁度、この逆のことがおきる。
つまり、病院の敷居が高くなると、病院にいってもいかなくてもいいひとはこなくなるが、病院にいかなくてはいけないひとの負担が重くなる。

 このように、自己負担率をどの程度にするのが望ましいかについては、いろいろと議論があるにしても、保険財政が均衡するべきであるというような仮定し、事後的モラル・ハザードによる厚生の減少、疾患によるリスクをプール(支払い上限が半分あるいはゼロになったときに、自己負担率はどの程度まで許容できるかによって計算される、ということだがよく意味が理解できない)することによる効用の増大などを前提にすると、最適の自己負担率が算出される。これはアメリカにおいては50%(40−60%)というような数字がえられている。
 アメリカにおいては医療費高騰の原因は医者の側にあると考えられている。医者と患者の間には情報の完全な非対称性があり、そのため、医療における意思決定は大部分医師がおこなうのだが、その場合、医学的に最善な判断ではなく、自己の所得や効用のために行動しているのではないかということである。(第3のモラル・ハザード・・・医療提供者のモラル・ハザード) ここから、DRG/PPSなどの定額医療費による診療制限の発想がでてくる。
 これによってアメリカの医療費は(一時的に?)抑制されたが、なぜ抑制できたかには議論がある。それは保険者が健康なひとを勧誘し、病者をさける方向で行動したからであるともいわれる。
 また、提供される医療が限定的なマネージド・ケアのような安い保険健康保険に加入しているひとの分の医療費を、出来高払いの民間の医療保険に「つけまわす」ことにもよっているかもしれないとも考えられる。この機構では、マネージド・ケアへの支出は減っていてもアメリカ全体の医療費は減らないことになるが。

 以上は、どちらかといえば「軽医療」を中心に議論してきたが、今後問題にあるであろう「高齢者医療」は「軽医療」という概念から大きく外れる。
 「軽医療」において問題になるのは第一パートでの受診するかしないかであるが、「老人医療」においては、第二パートが問題であり、「医師誘発需要」という第3のモラル・ハザードが問題になってくる。
 高齢化が医療費を増加させるというのは本当だろうか?
 年齢階層別にみた一人あたりの医療費と死亡率は密接な関係がある。つまり、死亡に関係する事象には医療費がかかるのであり、これが結果的に高齢者に医療費がかかる大きな原因をなっている。(死亡をともなわない事象の4倍(日本)から6倍(アメリカ)の医療費かかるといわれている)
 とすれば、終末期医療の有効性、効率性が問われることになる。しかし、あらかじめ患者さんの予後を推定することはきわめて困難である。そうではあっても、これから終末期に非効率的に医療資源を消費していいかどうかは議論になるであろう。ここは「死」の問題に直結し、従来はタブー視されてきたが、今後はさけて通れない問題となると思われる。

医療保険には、動学的モラル・ハザードと呼ばれる、もう一つのモラル・ハザードが存在する。それは事後的モラル・ハザードに近いものであるが、高度先進医療にかんするものである。
 高度先進医療は、コストがきわめてかかる。当然、自己負担額の上限をこえる。その場合、たとえば、負担額の上限が5万円である場合、10万円かかる治療、100万円かかる治療、千万円かかる治療、どれをうけても患者さんの負担は一定である。そうであれば、患者さんはより高度な医療を望む。もし患者さんの側がそうすることが期待されるならば、医療技術開発にかかわる人間は(大学・病院・製薬会社など)、たとえその効果が限定的なものであっても、少しでも有効性の高い技術を、経費・コストを考えずに開発しようとするインセンティブをもつことになる。その結果、医療費は高騰する。

 1990年から10年間に老人医療費は約2倍になったが、高齢者人口は3割増えているだけである。診療報酬改定による費用増加分は26%であるから、残りの大部分は、医療技術の高度化による可能性が高い。
 医療経済学者の大多数は、医療費高騰の最大の原因は、医療技術の高度化であると考えている。医療費の高騰をおさえるためには、高度先進医療の保険への適応を抑制しなくてはならない。これをできるのは保険者と政府だけである。ある技術が従来のものにくらべて相当程度有効性が高いということが立証されない限り、保険適応をみとめない、ということである。逆に従来のものよりも効用は若干おとるが著しく費用が安いものは積極的に採用していく。
 現実に有効性を具体的にどのように数字化するかはきわめて難しい問題であるが、この方向は重要であろう。
 動学的モラル・ハザードを考慮にいれるならば、患者さんの自己負担がある程度高いほうがいいということになる。
 動学的モラル・ハザードは終末期医療の問題とも深くかかわることは自明である。

 ここで、少し見方をかえて、予防行動のなかでも予防接種の問題を考えてみたい。
 「超過死亡」という概念がある。過去の季節的流行パターンから推定される以上の死亡数のことをいう。インフルエンザ流行にともない顕著に「超過死亡」の増加がみられる。死亡という事象が医療費を増加させることは上に述べたとおりであるから、インフルエンザの流行を押さえられれば医療費は節約できるはずである。
 インフルエンザが流行すると、全医療費増加率の2割がそれに関連するとされる。
 そうであるなら、ある程度の公費補助をしてもインフルエンザワクチンの接種を推奨することは、医療経済学的に合理的である。著者らは、それらの検討をおこない、それが厚生労働省の政策として採用された。

 保険に加入していると自分の健康保持に留意しなくなるのではないかという議論(事前的モラル・ハザード)があるが、実際の調査によって、1次予防(運動・食事などによる健康管理)には保険加入の有無は関係しないことが示された。2次予防(がん検診など)は、日本においては個人の意思よりも会社の制度による部分が多いため、研究が難しい。

 結論として、日本の医療費自体を抑制すべきであるか否かという大雑把な議論よりも、医療費の総額を、誰がどのように負担すべきなのかという議論のほうが大事である。保険料なのか、税金なのか、自己負担なのか?
 医療といっても、風邪のような「軽医療」から高齢化社会で必要とされる医療サービスまで、あるいは予防接種といったもの全体として議論しても意味がない。
 医療に関連するものをすべて公的な医療保険でカバーすることが、公平な皆保険のありかたといえるかどうかは問題である。
 このことについては、今後終末期医療の問題もふくめタブー視することなく議論していくことが必要である。

 日本以外ではそのような具体的データにもとづく政策提言が医療政策に生かされているが、日本ではそのようなデータ自体がまだきわめて乏しい。今後、圧力団体との駆け引きによる政策決定ではなく、具体的なデータにもとづく政策決定が志向されなくてはならない。

 吉川洋「転換期の日本経済」によれば、保険制度の整備される以前の1955年において、当然ながら死亡率・有病率は年齢とともに増加しいくにもかかわらず、受療率は25−35歳をピークをして、それ以降は減少するという異常なパターンになっていた。しかし、皆保険が実現した1961年においては、受療率は年齢とともに高くなる正常な姿になっている。明らかに医療保険が整備される以前には、高齢者は経済的理由で受療を控えていたのである。

 クルーグマンも「クルーグマン教授の経済入門」(山形浩生訳 主婦の友社 1998)で以下のようにいっている。
 「すごく高いけれど患者を救えるかもしれないテストや治療法があったとしよう。もし患者が自腹で医療費を出してるんなら、その人はやめておこうと思うかもしれない。そんな治療法のメリットよりは、その分の金でもっと自分の余生--あるいは陰鬱なのがお望みなら、相続人の人生--を充実させたほうがいいや、と思うかもしれない。
 でも、金を出すのは自分じゃないから、患者としてはとにかくやってみようというわけ。つまり、この方式では、医学的に得られるものと経済的な損失とが、ちゃんとてんびんにかけられていない。医療経済のギョーカイ用語でいえば、治療はつねに「カーブの平らなとこ」にまで押しやられる。つまり、これ以上金をかけも、まったく治療のメリットがないってところってこと。そしてこれは、自腹を切ってる患者が、これ以上金かけてもしょうがないや、と思うところよりはずーっと先にあるんだ。
 こうして治療を、金に糸目をつけないで医療の限界にまで推し進める傾向は、医療技術が高度化されるにつれてますます高くつくようになってきちゃったわけ。むかしむかし、金持ちがいくら金を出すったって、買える治療なんかたかが知れてた時代っつーもんがございました。ちょっとした手術に公衆衛生の重要性についてのアドバイスを超えるものってと、40年代くらいの医者はベッドの横で気休めになるような態度をとるのが関の山。
 ところが今日、検査や治療法はいくらでもある。(中略)お金をどんどん使って、医学的にどんどんメリットのあることができるという結果になってる。」
 それなら、なぜ利用範囲を制限した安い保険ができないか?という疑問にクルーグマンは、その保険でできない治療があって患者さんが死んじゃったら、アメリカでは裁判で勝てないよ、ということをあげている。それから、医者は単に利潤を最大化するよりはもうちょっとましな行動をするだろうと期待されている、こともあげている。
 したがって、「どんな高い医療技術でも、何かいいことあるかもしれないから、とりあえずやってみよう」という行動がとられることになる。
 では、どうしたらいいか、それは、「本当にノー言える取り決めをつくるにはどうしたらいいの?」ということに帰着するという。<その治療は効果に比して費用がかかりすぎるからノー>と誰がどのような基準でいえばいいのか? そこに帰着するという。そして、アメリカのシステムよりは、ほかの国にある中央集権的なシステムのほうがノーといいやすいようだという。つまり、ヨーロッパ、カナダ・日本型のほうがまし。
 「経済の現実は人の命の値段をつけろとせまる。それに直面するのを避けてコストが爆発する」、そこから逃げてシステムを作ってもうまくいかないのではないか、という。
 「クルーグマンの経済入門」の本文の最後で、クルーグマンは、アメリカが高齢化の負担が無視できなくなったときの3つのシナリオを予想している。
1)引退したアメリカ人への年金などの支給を大きく減らす。
2)現役世代の税金を大幅に増やす。
3)とにかくお札を刷ってごまかす→すごいインフレ。
 生産性が激増しないかぎり(そしてアメリカでそのようなきざしはないという)、この3つのうちのどれかを選択しなくてはいけなくなる、という。

 日本が直面していることもまさにそれであるような気がするが、1)2)ともに提案者は政治的に失脚することは間違いないのだから、なにもせずに問題を先送りしていくこと以外に道はないのかもしれない。
 われわれは、人の命に値段をつけざるをえない時代をむかえようとしているらしいのだが、はたしてそれは可能なのだろうか?


(2006年3月21日ホームページhttp://members.jcom.home.ne.jp/j-miyaza/より移植) 

医療サービス需要の経済分析

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