会田薫子「延命治療と臨床現場」

   東京大学出版会 2011年7月
 
 本書はさまざまな医学系の雑誌に発表された論文に加筆してまとめたものということで、基本的は医療関係者を読者に想定している本と思われるが、ごく平易に書かれているので医療に関係しないかたが読んでも十分に理解できるのではないかと思われる。
 まず延命治療一般について論じたあと、人工呼吸器中止と胃瘻造設という二つの具体的な問題について医療現場の人間の生の声をきくことをしている。医療現場の声といってもほとんど医者の見解であって、看護師の声といったものがほとんど収載されていないことはいささか問題であるかもしれない。
 現場にいる人間からみると、ここで書かれていることは特に目新しいことはなく、その点で勉強になることは多くはなかったが(歴史的な経緯とか日本以外の国々の現状についてははじめて知ることも多々あった)、むしろ驚いたのはこの問題について今までまとまった形で論じた本が日本ではなかったということで、そのことが日本の医療について何事かを語っているように思えた。そのような点もふくめて少し感想を書いてみたい。
 
 「『疑わしきは生命の利益に』という原則に沿った医療は、しばしば、ほとんどの人が自分自身であれば望まない方法で患者の身体と尊厳を侵害するという結末に至る」というアナスというひと(患者の権利研究の第一人者であるとのこと)の言葉で本書ははじまる。どうすればいいか迷った時は命が一日でも延びるようにするという医療は、結果としてはいい結果を生まないということである。これが本書のほとんど結論のようなものであるが、日本ではそのような原則に沿って医療がおこなわれているということである。つまり日本の医療はいい結果を生んでいないということある。
 本書によれば、延命治療が問題となってきたのは20世紀後半であり、この30〜40年の間に深刻な問題となってきている。医療技術がそこにあるから、それを使うのは当然という医療者の常識が結果として大きな問題を生じさせることとなった。欧米ではそれにそって、延命医療の差し控えや中止についての議論が長くおこなわれ、延命医療の差し控えや中止は適切な行為であるという合意が形成されてきた。しかしアメリカとヨーロッパではその背景は大きく異なると著者はいう。アメリカではそれは患者の「自己決定権」という思想を根底に持っている。一方、ヨーロッパでは延命医療の問題も医療の問題であるので、専門職である医師が主導的な役割をもつのは当然であり、医師の職業倫理からいって「執拗な治療」は人間の尊厳を侵害するので、それを控えるというものである。
 本書は人工呼吸器中止という問題を論じているので、それに関連して脳死の問題をあつかっているが、わたくしの40年くらいの臨床経験でも、脳死判定の問題に直面したことはない。これは移植を前提にしなければまず問題にならないものである。本書では脳死から心臓死まで20年以上の時間があった症例が紹介されているが、それは例外で、通常は脳死から心臓死までの時間経過はきわめて隣接しているので、脳死をわざわざ判定する必要が生じることはまずない。
 日本で延命治療が問題となったきっかけとして、2004年の北海道立羽幌病院で、誤嚥性肺炎で心肺停止となり呼吸器をつけて蘇生した90代の男性の呼吸器を外した医師が殺人容疑で書類送検されたという事件がある。2006年には射水市民病院で複数の末期患者の人工呼吸器を外した医師が殺人容疑で捜査されたという事件があった。
 そのような事件があったため、日本では一度装着した呼吸器を病状が回復しないのに外すことはほとんど皆無になっている。著者が聞き取りをした医師のなかで、そのような経験をしている医師はひとりもいなかった。しかし呼吸器をつけても延命の展望なしと判断されたケースについては、呼吸管理はそのままにして、それ以外の治療内容を縮小していくことは多くの症例でおこなわれていた。
 多くの医師が呼吸器を外すという選択をしていない第一の理由は警察の介入とそれに関連したマスコミの報道をおそれてということであった。そして多くの医者がマスコミの報道を煽情的で偏向しており不適切で許せないものと感じていた。
 本書ではじめて知ったのだが、羽幌病院や射水病院の事例はいづれも検察は最終的に不起訴処分としているのだそうである。警察は延命治療としての人工呼吸器を中止することを刑法違反として積極的に捜査しようという意思はもっていない。中止を日常おこなっており学会でも発表している千葉県救急センターが捜査の対象となったことはない。羽幌などの事例は主治医あるいは病院関係者が警察に届けたことによって捜査が開始されているのだそうである。どうやら警察はこういう問題にかかわりたくはないが、届けがあれば、動かざるをえず、届けられるとそういう事例は殺人であるとしか思えないというようなことらしい。
 つまりこれらの事例の問題は、医師が刑事被告人になったということではなくマスコミの報道のほうが医師や病院にあたえた影響の大きさのほうである。延命治療の中止をどうみるかは刑法学者のあいでも一定していない。ただ法は、生存していることは死亡するよりも必ず良いということを前提としているということはある。
 
 人工呼吸器については医療関係者でなくても、ある程度はイメージできると思われるが、胃瘻はそうではないかもしれない。胃瘻とは何らかの原因で経口摂取が不能になった場合、腹部から胃に小さな穴をあけ、それを通して口を通さずに胃に直接栄養物を入れるやりかたである。従来、経口摂取が不能になると、点滴で栄養を補給するか、鼻から細いチューブを胃まで入れて、そこから栄養をいれることがおこなわれていたが、最近では胃瘻を造設して、そこから栄養を入れることが普通になってきている。
 胃瘻については、それを受ける患者本人の了解をとっているケースが少ないことが書かれている。また家族への説明についても、「食べられないから胃瘻にします」という言い方がほとんどで、胃瘻を選択しない場合についての説明はほどんどないのだそうである。つまり胃瘻を造設される患者は自己で判断できないくらい認識能力が低下して場合がほとんであり、家族への説明も、経口摂取ができない、放置すれば餓死である。したがって、胃瘻をつくるというようなものがほとんどらしい。胃瘻以外の点滴とか経鼻のチューブというような選択肢はほとんど示されていないということである。
 本書でも指摘されているように、点滴から胃瘻へというのは保険制度によって誘導されている部分がきわめて大きい。従来の医療は出来高払いといって、おこなった医療についてその費用を保健機関に請求するというものであったが、最近は包括医療といって、ある病名については一定額の医療費しか支払われなくなったため、従来は点滴をすればその費用が請求できたものが、現在では点滴をすればそれだけ病院の収入が減るようになった(胃瘻からの栄養は「食費」として別途請求できる)。それで、点滴が下火になり胃瘻が主流になった。(ここでも述べられているように、点滴での栄養補給では腸管はまったく使われない。一方、胃瘻からの栄養では腸管で栄養の吸収がおこなわれる。腸管を使うことは免疫機能の賦活のためにきわめて重要であることが近年明らかになってきた。しかし、免疫賦活という理由で胃瘻を作成しているケースはあまりないだろうと思う。ほとんどが医療経済学的理由である。現在、経口摂取が不能な場合、療養型の病院は胃瘻作成がされていない患者は受け入れてくれない。
 家族の希望で積極的な治療や医療行為をしなくなった場合においても、栄養補給を中止することには家族の強い抵抗がある。かりに家族がそのような希望を出した場合には、それは家族が患者の死を望むということであり、家族はたとえそれが望ましいと思っていたとしても、自分の決定が死に直結するのであるから、それを口にすることには抵抗がある。また、安楽死がタブーである我が国においては、実際に非常に微妙な問題が生じる可能性がある。
 「栄養補給をしない選択肢」を家族に提示している医師を著者はさがしたのだそうであるが、きわめて少数の医師しか見つけられなかったという。
 医療者自身もほとんどが、自分がそのような経口摂取不能の状況になった場合には胃瘻造設はしたくないと答えているのだそうである。また、自分の両親の場合でもそれをしないという医師が少なからずいた。
 欧米の研究では、栄養補給を差し控えることは緩和医療の一環であるという見解もある。患者が終末期を苦痛なくすごすためには栄養補給をひかえることは合理的な選択であるという見地からである。
 日本では、生死の問題は患者自身の問題というよりも家族の問題ととらえられていると著者は指摘している。
 本書において、終末期に少量の点滴か持続皮下注で看取るという選択をしている医師が少数いることが指摘されていた。
 
 ここで述べられている「胃瘻の問題」は、患者が「終末期」であるのであればあまり問題にはならないのではないかという気がする。予後が一か月を見込めないようなケースであれば、まず胃瘻の造設という話さえでないのではないかと思う。そのような場合、ここでいわれている少量の点滴で経過をみるということは広く行われているのではないかと思う。何もしないということは医療者(看護師もふくめて)に抵抗が大きい。家族にとっても同様である。また中心静脈栄養のような相当多くの量の点滴を終末期におこなうことは、浮腫や心臓への負担という問題を生じさせることが多い。少量の点滴は浮腫を生じさせることもない。わたくしは先輩の医師から一日500ccくらいの点滴が“綺麗な死”のために一番いいと教えられた。30年近くも前のことであるから、日本でも広くおこなわれているのではないだろうか?
 問題は、終末期ではないが、経口摂取ができなくなった場合である。あるいはできないのではなく経口摂取が誤嚥性肺炎をつねに引き起こすようになった場合である。脳梗塞などの後遺症として嚥下機能が低下したり、あるいは加齢自体による嚥下機能の低下により経口摂取物が呼吸器にもいってしまい、食べれば肺炎がおきてしまうという場合である。この場合は何らかの手段で栄養がとれればまだ何年でも予後が期待できることがある。それに対して一日500ccの点滴というわけにはいかない。
 その患者の生命にかかわる問題は嚥下機能の低下だけなのである。そのような場合に嚥下機能のリハビリテーションをおこなうことで、ある程度の嚥下機能の回復が期待できないわけではない。しかしそれにも限度があるし、リハビリをおこなうためには患者さんの側のある程度の理解と協力が必要である。高度の認知症がある場合にはそもそもリハビリ自体がうまくできないことが多い。
 要するに、老化によって食べること自体が肺炎をおこすようになった場合が問題である。患者さんは食べたがる。家族も食べさせないのは残酷であると思う。胃瘻なんて残酷です。命が縮まってもいいから食べさせたいという。しかし食べればあっというまに肺炎になる。肺炎は治せる。治って退院する。すぐにまた肺炎で入院してくる。医療者はいやになる。そういう構造である。
 もう少し実際に則して書く。患者さんは90歳で高度の認知症である。家族のこともわからず、自分がどこにいるのかもわからない。患者本人が何を考えいるか、あるいは何も考えていないのか? それは誰にもわからない。家族はこんな状態で生きていても意味があるのかなあと思っている。医療者もまた実はそう思っている。胃瘻をつくって長生きなどというのは本人のためにならないかもしれないが、家族としてもそれを望んでいない。食べて肺炎になって死んだとしても、それはそれで仕方がないのではと思っている。しかし肺炎になって家で死んだりしたら外聞が悪い。病院にも入れなかったといわれるのではないか? それで入院させる。あれ、病院は治療している。まさか治療をしないでくれというわけにもいかない、困った、というようなことは日本中の病院でいくらでもおきていることではないかと思う。こんなにしょっちゅう肺炎になるのでは、やはり経口摂取は無理です。胃瘻にしましょう、と医者はいう。医療者にとっても治したらまたすぐに入院ではかなわない。胃瘻にすれば、当分、肺炎での入院はないだろうと思う。だれも望んでいないことが、『疑わしきは生命の利益に』という原則によっておこなわれていく。
 若い時に読んだキャッセルの「医者と患者」に以下のような一節がある。86歳の老人が脳卒中で入院してくる。この患者が40℃の熱をだし、昏睡となる。研修医が肺炎と診断し血液培養などを提出し、抗生物質を開始する。著者は考える。肺炎はこの老人を“無情で不名誉な老衰”を免れさせる無痛の近道となりうる、と。著者はどの人にも死ぬ時期があるという信念をもっている。この老人にとってはその時が到来したのだと思う。しかし研修医に抗生物質を中止させることはためらう。だが(幸い?)この患者には抗生物質にたいするアレルギーがあった。それを口実に研修医に抗生物質中止を指示した。著者はいう。何をしようとこの老人がほどなく死ぬことは確実である。たしかに奇跡はある。このような患者が回復して数か月病院で生き長らえることはある。しかし、それは失禁や褥瘡、感染やなおざりにされることなど問題を山積した生であり、このような緩慢に蝕む死をわれわれの大半は、われわれ自身に、あるいはわれわれの両親には選ばないであろう。しかし、それでも私はこの男を死なせるように決定する権利を持っていたのだろうかと著者は自問する。
 これをよく覚えているのは、これを読んだのが研修医に毛の生えた程度の医者の経験しかないときで、肺炎患者に抗生物質を投与しないという選択肢があるなどとは考えてみたこともなかったからである。もしキャッセルが現代の日本でこのようなことをしたのであれば、それこそ殺人罪で訴えられるかもしれない。
 これは医療におけるパターナリズムというきわめて大きな問題の一つの系なのである。キャッセルはある信念をもっている。ひとはいろいろな信念を持つ。たとえば高度の痴呆のひとの生は不幸なものであって、早い死がそのひとにとっての最大の幸福であるというような信念をもる医師もいるかもしれない。そのような問題が、帚木蓬生さんの「安楽病棟」であつかわれていた。
 医師はひとの生命に人為的にかかわることができる。以前はいくら頑張っても命を延ばすことは困難であった。しかし人工呼吸器や胃瘻によってあるいはさまざまな薬剤や技術の進歩によってそれを引き延ばすことが、以前よりはできるようになった。だがそれは意味のある生ではなく、意味のない生の延長であるかもしれない。しかし、医者に意味のある生とか意味のない生とかを決める権利があるというのだろうか?
 そして遠くない将来、医療経済学的な圧力によって(高齢者のかかる医療費のさらなる増大によって)、このようなキャッセルがいういような「緩慢に蝕む死」にいたるような生への医療をおこなうことへの規制さえかかってこないとはいえない。
 このようなことから現在の日本の医療者が逃げていることは事実であるとしても、そのような議論が難しい原因の一つとしては、日本の医療者が信頼されていないということがあるように思う。医者への信頼がないところで医者がパターナリズムを行使しはじめるととんでもない事態におちいること可能性がきわめて高い。
 少なくともマスコミのひとの多くは医者は放っておくとなにをするかわからないと思っているように思う。自分たちが監視していないと何がおきるかわからないと思っている可能性は高い。この会田氏の本にでてくる医師はほとんどが真面目で真摯で良心的なひとである。しかし、そうでない医師もまたいるわけで、そういう医師はある歯止めがなくなると何をするかわからないという危惧をもっているひとも、また少なくないのではないかと思う。
 クルーグマンが「経済入門」でこんなことをいっていた。「医者や看護婦は毎日のように生死にかかわる決断をする。だからかれらを仕切る倫理コードは、単に利潤を最大化するよりは高級なプロ意識を要求するわけだよね。医者もしょせんは商売よ、と斜にかまえるのは簡単だけど、でもみんな、医療関係者は平均すれば、まあ中古車業者よりはましな行動をとるのが当然だと思っている。」 中古車業者のひとは怒るかもしれないけれど、その程度のものだろうと思う。「医療はアメリカ経済の13%を占めていて、直接間接に最低でも1400万人を雇ってるんだもん。そりゃ最高から最低まで、ありとあらゆる種類の人間行動が出てくるわな」ということになれば、そういう人間が人の命を左右できるというのはとても怖いことなのである。
 クルーグマンは言っている。「医療はとんでもなく微妙な問題で、筋の通った話をしようとしても、すごく危険な感情的・政治的領域に触れざるを得ない。」 そう遠くない将来、人の命はいくらなのかという議論をせざるをえない時代がくるだろうと思う。90歳の老人と生まれたばかりの赤ちゃんの命の値段は同じなのかとかいった議論である。日本人はどういうわけかそういう議論をするのがきわめて不得手であるようにみえる。会田氏は日本の医療で問題を生じさせている原因の一つに日本人の「問題の先送り体質」があることをいっている。わたくしもまた、自分が現役でいるうちは、「このひとの生命は医療費をかけるに値しないから医療をやめましょう」などと言わないでいけることを祈りたい。もう少し問題を先送りしたい。
 

医者と患者―新しい治療学のために (1981年)

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安楽病棟 (新潮文庫)

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クルーグマン教授の経済入門 (ちくま学芸文庫)

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