S・D・レヴィット&S・J・ダウナー「ヤバい経済学 悪ガキ教授が世の裏側を探検する」

  東洋経済新報社 2006年5月11日 初版
  
 レヴィットという経済学者の説をダウナーというライターが書いた本。悪ガキなんてタイトルにあるが、レヴィット教授はきわめてまともな人である。もっとも、MITの経済学部でとった唯一の数学の講義の最初の授業で、通常の微分偏微分の違いがわからなかったなどというちょっと信じられないことが書いてあるから、普通の人でもないかもしれない。そういう人でも、何とかメダルとかいう若い優秀な経済学者がもらう賞をもらっているそうであるから、アメリカというのはいい国である。
 それで書いてあることは、インセンティブという概念から様々な社会問題をみていこうというものである。もっとも経済学者がインセンティブというとすぐに経済的利得という話になるが(そしてそれ故に経済者が想定する人間は人間ではないという批判をうけることになるわけであるが)、レヴィットの場合は、名誉心とかいったさまざまなな要因もすべてインセンティブとしてみていこうというわけであるので、通常の経済学の本らしいところはまったくない。もちろん、数式も一個もない。
 たとえば、1990年代のはじめ、あらゆる人がこれから犯罪は増える一方であろうと予想していた。しかし、実際には、犯罪は減少した。10代の人間の殺人は5年で半分になった。その理由として、好景気、銃規制、犯罪取締の強化などさまざまな理由が挙げられた。しかし、レヴィットは皆違うという。1973年の中絶の合法化がその原因であるという。この合法化によって中絶をした人間の多くは、家庭環境の悪い貧しい未婚の未成年であったろうという。そういう女性からは、中絶しなかった場合、犯罪を犯す可能性が高い子どもが多く生まれていただろうという。そういう生まれなかった子どもが成人することがなかったことが1990年代の犯罪を激減させたのだという。
 こういう議論がアメリカのような妊娠中絶に厳しい国において、どのような非難を受けるかは想像に難くない。また優生思想に通じるともいわれかねない部分もある(レヴィットはこの問題については遺伝子派ではなく環境派なのであるが)。
 インセンティブとともにこの本で重視されているのがデータである。人間はインセンティブで動く。出生率が下がると産科医は帝王切開をたくさんやるようになる。それが経済的なインセンティブによっているかどうかを検討するためには、産科医が他の人では帝王切開をしているケースにおいて、自分の妊娠の場合にはそうしていないというようなデータが示せればいい。しかし、そういうデータは収集困難である。しかし、不動産売買のような公開されているデータもある。それを見ると不動産業者は自分の家を売る場合には、お客さんの家を売る場合よりも、長い時間、いいお客さんを待っていることが示せる。そこから、不動産業者のインセンティブはお客さんの最大利益ではなく、取引の数であることがわかる。
 また、選挙で金を使ったほうが勝つか、というようなことについては、同じ候補者が続けて同じ選挙区で争うようなケースで、お金をどのくらい使ったかと得票率というデータを較べればいい、という。勝っている候補者が選挙資金を半分にしても得票率は1%下がるだけ。負けてるほうがお金を倍使ってもやはり1%増えるだけ。圧倒的に重要なのは、いくら使ったではなく、その候補者がどんな人かである。まったく選挙民に人気がない候補者はいくらお金を使っても当選することはできない。
 レヴィットによれば、道徳は世の中がどうあってほしいかを示すものであるが、経済学は世の中が実際はどうなのかを示すものなのだという。経済学とは方法であって、何を対象にするかではないという。アダム・スミスが道徳哲学をめざす人だったことは重要である。
 専門家とは情報を占有する人のことをいう。その専門家の情報優位性がインターネットのために大きく崩れているという。その好例が棺桶と生命保険の値下がりであるという。 データを見れば日本の相撲の八百長は明らかである(7勝7敗の千秋楽は圧倒的に勝率が高い。ついでにその勝った相手には翌場所に負ける可能性も圧倒的に高い)。
 知的犯罪の研究が難しいのは、やっているひとのごく一部しか犯罪としては捕まらないため、使えるデータがほとんどないからである。
 不動産広告では、具体的な言葉、「御影石の」「カエデ材の」などは高いよい住宅の広告に使われ、抽象的な言葉、「最高」「広々」「素敵」などは安い低質の住宅の宣伝に使われるのだそうある。
 自分でコントロールできないリスクに較べると、コントロールできるリスクはあまり怖がられないという話がでてくる。BSEが過剰に恐れられる理由がそこにあるという。リスク=危険+恐れ、なのだそうで、危険が小さくても恐れが大きいとき人の反応は大きくなるのだという。
 最後のほうに子育ての問題がとりあげられている。親で子どもはどのくらい違うのだろうか? 子どもの性格や能力の50%は遺伝による。では残りの50%は? もちろん、育ちである。レヴィットによれば、その育ちというのも、親がどんなひとかであって、親がどんなことをしたかではないという。いくら絵本を読んでもだめ、親の教育水準などのほうが大事と。
 養子は、大抵の場合、教育水準の低い親から高い親へとひきとられる。養子はそういう水準の高い親に引き取られても、学校の成績は悪い。しかし大人になるにつれて、養子にだされなかった対象とくらべて、大学に進学する率が高く、高い給料の仕事につく傾向が見られるようになるのだという。
 
 経済学を通常よりも広い範囲の問題に適応しているという点では、ベッカーを想起させる本である(「ベッカー教授の経済学ではこう考える 教育・結婚から税金・通貨問題まで」 東洋経済新報社 1998年)。ベッカーのことを知ったのは竹内靖雄氏の「経済思想の巨人たち」(新潮社 1997年)によってであるけれども、ベッカーも竹内氏も明らかにシカゴ学派の匂いがする人たちであるのに対して、レヴィットはそういう思想的な主張があまり目立たない人である。しかし、この本でも何箇所かベッカーのことがでてくるから、広い意味ではその系譜に属する人なのかもしれない。
 最近の犯罪の報道などを見ると世も末のような感じもするけれども、本書でも示されているようにどこの国においても殺人の件数は15世紀ごろに較べて、50分の1くらいになっているし、一貫して減少の傾向にある。データというのはやはり大事である。
 リスク=危険+恐れ、というのは大変応用範囲の広そうな見方である。最近、メタボリック・シンドロームというのが話題になっている。医療費の増大に音をあげた厚生労働省が、各人が注意して生活習慣病を減らせという意味でさかんに宣伝しているのであろうと思うが、その学問的な正否は別にしても、意図は「危険」の低下であっても、実際におきることは「恐れ」の増大であるかもしれず、今までは医療機関にいかなったようなひとが大量に医療機関に押し寄せるようになることで、かえって医療を押し上げるのではないかという気もする。
 高齢者のインフルエンザ予防接種の公的補助などというのも、別に高齢者の健康をお上が慮っているわけではなくて、公費で補助してもインフルエンザにかかって入院したりするひとが減れば医療費が抑制される効果のほうが大きいという計算のもとでやっているらしいから、メタボリック・シンドロームだってちゃんとした計算の上で宣伝しているのかもしれないけれども、案外と「危険」のほうだけ見ていて、「恐れ」のほうは計算に入っていないのではないかという気もする。「恐れ」はなかなか数値化が困難な指標である。
 情報の非対象性というのは医療においてもとても大きな問題で、メタボリック・シンドロームではないが、医療者の側はいくらでも新しい病気を作ることができる。
 栄養過多が問題になる時代というのは、本当はもう医療の出番はなくなっている時代なのかもしれないが、ちゃんと栄養過多も病気にしてしまうわけである。
 わたくしの一応の専門分野である肝臓の領域でも、その病因の多くを占めるウイルス肝炎の克服がほぼ視野にはいってきており、まだまだ患者さんは多いにしても、新しい患者さんの発生は激減しているから、将来のメシの種がなくなるのではないかと心配している専門家も多い。
 それで最近NASHという一種の脂肪肝が注目されるようになってきている。今まで脂肪肝なんて抛っておけとされていたのにである。メタボリック・シンドロームとの関係でも脂肪肝は注目されているようであるし、今まで病気あつかいされなかったものが、病気の仲間入りすることで、結局、病気は減らないのである。
 わたくしが医者になりたてのころはコレステロールが250などというのは放置であったが、今は病気である。それには有効なコレステロール降下剤が開発されたことが大きいのだが、製薬会社のインセンティブが働いていることはいうまでもない。
 どう考えても医療費を減らすのは困難であるかもしれない。どこかで見た資料で、日本の都道府県別の医療費というのがあって、かなり奇麗に医者の数と比例していた。そういうデータがあれば、厚生労働省としては医者の数は増やしたくないはずである。しかし、昨今のデータで医者の不足、少なくとも偏在がいわれている。しかし、それを解消するために医者の数を増やせば、さらに医療費は増えることになる。
 本書を読んで考えるのは、日本でこういう研究?をしたらまったく評価されないのではないかということである。クルーグマンのいうギリシャ文字式の難解な数式を羅列しない人間は評価されないではないだろうか? ベッカーもノーベル経済学賞をとったわけであるから、今ではそうでもないのだろうか? どうも向うの人のほうが自分の頭で考えているような気がする。


ヤバい経済学 ─悪ガキ教授が世の裏側を探検する

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