小野善康 「誤解だらけの構造改革」

  日本経済新聞社 2001年12月17日 初版

たぶん一種のケインズ派による日本の「構造改革批判」。非常に説得的。ただ総論であり、個々の細かい分析は一切されていない。
 基本的には「合成の誤謬」論である。
 これだけ失業率があがっているのに、小泉内閣の支持率が高いのは異様なことである。
 それはそれ以前の内閣がいろいろなことをしてきたがほとんど効果がでていないことを国民が感じていて、今までとは違うことが必要であるらしいと感じているという部分が大きいであろう。
 小泉内閣がいっている個々のことは正しい。しかし、それは全体としてはまったく間違っているのである(合成の誤謬)。
 不況の原因は「需要の不足」である。
 しかし、「構造改革派」が依拠する新古典派経済学では、そもそも需要不足ということがおきないことになっている。そこでは人はつねにモノを求めると仮定されている。もし貯蓄するひとがあれば、欲しいものが買えるだけの資金がまだないからである。
 日本の企業は、はっきりとした需要がある場合、それを安価で効率的につくることにかんしては卓越している。
 しかし、今、国民は自分でもなにが欲しいかわからないのである。そうであれば企業もなにを作ったらいいのかわからない。そこで今すでにあるものをもっと安く作って他のシェアを奪おうとする。しかし、全体としては消費は増えておらず、企業全体としては安く売った分だけ収入が減っている。
 消費者が(カネをためようと思って)消費をひかえる。→モノが売れなくなる。→仕事がへり、企業業績が悪化する。→個々人の所得もへる(おカネはたまらない)。→将来が不安になる。→さらに節約しなければと思う。→はじめにもどる。
 これは一個人だけが行動するなら、おきない循環である。大多数のひとがそういう行動をとるようになるとおきる。個々人で正しい行動が全体では間違っていることになる(合成の誤謬)。節約しようと思ってはじめたことが、節約できないことになってしまう。
 逆も真で、ひとりのひとだけ消費を増やしても意味がない、大多数が消費を増やさなければ景気は回復しない。
 上の循環を逆にしてみよう。消費者が消費(浪費?)をはじめてもおカネが減らないことがわかる。所得が増えるからである。
 ひとびとの購買意欲は、1)欲しいものがあるか? 2)どのくらいおカネをもっているかによって決まる。
 高度成長期、みんなには欲しいものがあったので、無理をしてでも買うことによって全体に豊かになっていった。
 欲しいものが大体手に入ってしまうと、人々の欲望の対象はモノからカネ(株や土地などの資産)へと移ってゆく。モノを購入すれば雇用に結びつくが、カネを購入しても証文が動くだけで雇用には結びつかない。しかし株価や地価の高騰によって景気はよくなっていった。(バブル)
 株価や地価は、一度にみながそれを換金しようとすれば、暴落する。通常はそういうことはおきないが、何かのきっかけでそれがおきると実際に暴落がおきる。(バブルの破裂)
 一度そういうことがおきると「信用」が回復するまで、地価も株価は低迷したままになる。
 バブルの崩壊で1000兆円規模でおカネが失われたといわれている。ここに数兆円程度の財政政策をおこなっても「信用」が回復するわけもない。
 なにか画期的な新技術が開発されるといった社会的にきわめて大きなインパクトのある出来事がおきないとこの状況は変れない。
 「カネ」(株とか土地)への欲望が失われると、今度は貨幣自体への欲望が生じる。そして不況というのは「貨幣」への欲望にとっては都合のいい状況なのである。物価がさがれば自動的に貨幣の価値があがるからである。
 好況の80年代も不況の90年代も同じ日本人が、同じ設備、同じ技術でやっている。そこで違っているのは心理状態だけである。
 新古典派経済学では、貨幣は交換機能としてしか想定されておらず、購買力があるならば必ずそれは使われると考えられいる。そこにはモノへの欲望だけがあって、おカネや貨幣への欲望というものは想定されていない。
 最近の調整インフレ論は、貨幣が魅力がない状態にすれば、ひとはモノを買うようになるだろうという発想である。
 今の日本の不況は需要不足というぜいたくな不況、豊かな国でしかおきない不況なのである。
 一方、途上国などでは、供給が足りないための不況がおきる。その場合には、生産力の向上が最善の解決策である。ぜいたくをやめ、資源をできるだけ生産設備にまわす。生産の効率化を図る。といった方策であり、敗戦後の日本のたどった道である。
 これは豊かになった日本の現状とはまったく合わない。しかし、「構造改革派」は「構造」をかえて日本の生産性をあげることが日本が不況から脱する道であると主張している。豊かになった日本という実態がわかっていないのである。
 小泉首相が「米百俵」などというのは、まさに敗戦後日本と今の日本の違いをわかっていないとしか思えない発言である。
 それでは、もう豊かになったのだから、いまのままでもいいのか? 問題は失業者がいることである。失業者にとっては、敗戦後の日本も現在の日本も変わりないのである。一番の問題は失業の問題なのである。
 そして将来が不安だから、モノを買わずにおカネに執着しているのであれば、それはモノに飽きてしまった豊かさとはまた別のものである。
 現在、失業しているひとは確かに能力がないひとが多いのかもしれない。しかし、好況時においては、能力がないひとにでも仕事がある。能力がないから失業しているのではなく、不況だから(能力がないひとから先に)職を失っているのである。能力がないひとでも仕事がある社会のほうがいい社会であることは間違いない。

 ゴーン氏はリストラによって日産をたてなおした。しかし日産の自動車の販売台数は落ちている。新規需要の開拓ではなく、人員削減などで利益をだしているわけである。東芝富士通も懸命にリストラをしている。個々の企業にとってはこれは正しい方向でありうる。しかし、ここでも「合成の誤謬」がおきて、個々の企業での正しい行動が日本全体を見ると間違っている方向に導くのである。
 「構造改革派」は、実は完全雇用を想定しているのである。完全雇用下であれば、個々の企業のリストラは全体としても正しい。なぜなら、企業の効率はあがり、リストラされたひとは新しい職場で生産に寄与するからである。しかし、リストラされたひとが失業したままであれば、「合成の誤謬」がおきてしまう。
 「構造改革」は、完全雇用に近い好況時にしか適さないのである。
 「市場原理」が経済を豊かにするのも完全雇用的な状況を前提とする。つまり最悪の非効率部門とは失業なのであり、市場原理によって「非効率的な企業」が市場から退場していっても、あとに残るのが失業者ならば、もっと非効率な部門が残ってしまう。IT部門が受け皿になるなどといわれてきたが、IT企業がリストラの真っ最中である。どこが受け皿になるというのか?
 国の運営と会社の経営は違う。会社は社員を解雇できるが、国は国民を解雇できないのである。国は国民を窓際族にしてでも採用し続けなければならない。国は公的部門だけでなく、国全体に責任をもたなくてはならない。

 もう一つの構造改革の議論に「日本の高コスト体質の是正」ということがある。しかし、それが本当なら、なぜ日本で経常収支の黒字が続いているのか?
 ここでの問題は為替レート調整メカニズムである。このメカニズムが完全に機能しだしたのは80年代半ば以降である。
 経常収支の黒字拡大は円高につながる。
 収支の黒字拡大は、1)輸出の増加 2)輸入の減少、によっておきる。
 つまり、日本企業が国際市場で勝っても、不況が深刻化しても円高になる。
 さて、企業が懸命なリストラをし、製品の国際競争力を高めると、円高要因となる。一方、リストラで不況になると、これも円高要因になる、これが合わさると非常な円高になる。したがって製品の国際競争力は落ちる。不況時の国際競争力の低下は、日本の生産効率の問題や他国の生産性の上昇などによるのではなく、円高による。
 とすれば、対策は需要を増やし、輸入を増やして円安にすることしかない。
 1985年以前は為替調整メカニズムが不完全であったため、日本でのコスト削減が輸出品のコスト削減と直結した。
 しかし、調整メカニズムが順調に働くと、極端な経常収支不均衡はおきなくなってくる。
 アメリカの景気後退とそれによる需要の落ち込み→日本の輸出の減少→日本の経常収支の悪化→円安→日本製品の国際競争力の回復→アメリカでの円安ドル高→アメリカのさらなる景気の悪化→日本の経常収支の悪化→さらなる円安。・・・
 このように為替調整メカニズムがうまくはたらくならば、日米の景気の波動は、ずれるはずなのである。事実、1987年以降はそうなっている。そうであれば、世界同時不況といった考えはおかしいことになるし、米国の経済停滞をおそれる必要もなくなる。

 小泉「構造改革」では景気は回復しない。では何が必要なのか? それは、みんなが買いたいと思うような魅力的な製品を開発するような技術革新しかないであろう。

 現在は民間が十分な雇用を提供できない状態である。それであれば、政府が雇用をつくるしかない。それが公共事業である。しかし、その評判ははなはだ悪い。
 では、公共事業として「穴をほってまたそれを埋めるだけ」というものを考えてみよう。これは現場でなにもせずに寝ていても同じである。家で寝ていても同じである。つまりこれは失業手当をわたすのとまったく同じことになる。
 公共事業をやめることにより、失業という痛みにたえるという議論は、今の公共事業の変りに「穴をほって埋める」公共事業をやろうということなのである。それならば、現在の公共事業がほんの少しでもプラスになるところがあるならば、まだないよりはましなのではないだろうか? 
 無駄な公共事業をやめて、失業手当などを充実することを正義のように主張しているひとが左右を問わず多いが(セーフティ・ネット論)、これはおかしい議論である。
 可哀想なひとを救うのではなくて、可哀想なひとを作らないほうが大事なのである。一方で可哀想なひとを自分でつくっておきながら、それを救済する制度をつくったから自分は正義であるなどというのはとんでもない議論である。
 たしかに今の公共事業には無駄が多い。しかし、本来は社会保障費を削ってでも何か仕事を創出するのが政府の仕事なのである。小泉政権の臨時教員や森林作業員案も、ただ失業手当をだすだけよりはいくらか増しである。
 実は、戦争がデフレを解決する理由もそこにある。壮大な公共による無駄なのである。

 失業手当は国民から集めたものを国民に返している。減税もまた同じである。ただ失業手当は一部の人に返り、減税は薄くひろく全員に返る。だから景気後退期にはかならず減税がおこなわれる。しかし、これは公共事業と実は同じことなのであり、何かあとに残すだけ公共事業のほうが増しなのかもしれない。
 本当は景気後退期に必要なのは、増税をしてでも政府が雇用を創出していく方向なのである。(実は、国債の発行は増税と同じことである・・・後述) 増税すると消費マインドが冷えるという議論があるが、増税で得た分は国によって支出されるのだから、結果的には国全体の消費は同じである。増税とは国が国民からむりやりお金をとりあげて、それを消費にまわす行動ということができる。
 どこからもお金をとらずに国民にお金をわたせればこんなうまいことはない。それが実現できていたのがバブルだったのである。

 現在のような不況期に、非効率部門を整理しても、整理されたひとの行き場がない。そういう整理は好況期にやるべきなのである。「小さな政府」は好況期に目指すべきものである。

 現在400万人の失業者がいる。それを100−150万人減らすためには、年5兆円の支出となる。橋本財政改革の時の減税が5兆円であった。できないことではない。

 国債発行には大きな誤解がある。
 国債によって国にはいったお金は必ず使われて国民に戻ってくる(公共事業にばかり使われているわけではない。公共事業費は11%)。そこで使った費用は償還時にかえさなければいけないが、そのためには増税するしかない。しかし、これは増税して、何か事業をするのとまったく同じことである。今お金をとるか将来とるかの違いだけである。
 国債の問題は、1)それで集めたお金を何に使うかと、2)誰に増税するか、だけである。
 したがって、国債発行が不安なら、増税しても同じことである。

 国債発行の問題点は、以下の問題だけである。
 1)過剰発行されると信用が失わ、流動性が収縮してしまう。
 2)償還のための大きな増税は勤労意欲を殺いでしまう。

 不況期と好況期には経済政策の方向が全然違う。国鉄の民営化ができたのは、1987年という好況の真っ最中だからであった。
 好況期には政府事業を縮小し、不況期こ政府事業を増やすべきなのである。

 ここでいわれていることはほとんど正しいのだろうなあ、という気がする。しかし、好況期に構造改革をするというのは政治的には不可能なことのような気がする。不況期でないと、なかなかドラスティックなことができない、というのが実際なのではないだろうか? たとえそれが不況をさらに悪くするものであっても。
 ここでの主張は小泉「構造改革」は方向が全面的に間違っているということである。
 しかし、こうすれば、劇的によくなるという提案があるわけではない。なるべく政府の力で失業者を最小になるよう地道に努力していくうちに、何か劇的に需要を喚起するものが生まれてくるのを待つ、というような方向であろう。しかし、その何かが全然生まれてこないとしたら・・・。
 

2006年7月29日HPより移植