スティーブン・キング「アトランティスのこころ」

  新潮社 2002年4月25日初版


 キングの長編小説というか、中篇を5編つなげた特殊な構造をもつ小説。
 約半分を占める最初の部分は、時代は1960年で、キング特有の異世界ものの構造をもつ。そこでの主人公の少年とその女友達と男友達がその後の物語をつくる。
 第二部は、1966年。第一部の主人公の女友達が第二部の主人公である別の大学生の恋人として登場する。ここからベトナム戦争が影を落としはじめる。
 第三部は、1983年。第一部で主人公やその女友達をいじめた男が中年になって登場する。その男もベトナム従軍の影を負っている。
 第四部は、1999年。第一部の男友達のほうが、ベトナムに従軍した仲間の葬儀にでる話である。ベトナム戦争が回顧される。
 第五部も同じく1999年で、短いエピローグとなっている。主人公の少年が故郷に帰ってきて、過去と現在がつながる。

 この第1部で主人公の少年は11歳であるので、これはわたくしとほとんど同じ年齢の人間が時間の流れを生きていく物語になっている。
 第1部では、子供の怖さ、ある状態で抑制がとれなくなってしまう怖さというのが一つのテーマになっていて、ゴールデングの「蝿の王」がその主題を助けるものとなっている。それと同時にこれは、第二部以下にも関係してきて、ある意味では、ベトナム戦争をもこの視点からみることになっている。
 竹内靖雄氏の「世界名作の経済倫理学」(PHP新書)によれば、ゴールディングの「蝿の王」は<人間の中の邪悪なるもの>をあつかった小説である。子供たちが孤島の生活で次第に狂っていくのは、子供たちが劣悪である、あるいはできが悪いためではなく、人間の中にある「邪悪」さによるとゴールディングはしているのであるという。この「劣悪」と「邪悪」の区別はニーチェに由来するもであり、schlecht と boese の違いである。人間のなかに本質的な「悪」があるとするような考え方は日本人にはなじみがないものであり、「悪魔」を必要とするような一神教的世界観に特有なものであると竹内氏はいう。
 このニーチェの「劣悪」と「邪悪」の区別の議論を利用した宗教論を、倉橋由美子が宗教論小説「城の中の城」でしていた。竹内氏と倉橋由美子はとても似ている気がする。発想もそうであるが、文体もとても似ている。ただ竹内氏は倉橋氏ほどは人間を固定的にはみていないようである。
 キングの論を敷衍すれば、ベトナムのようなある種の状況においては、人間の中のある「邪悪」なものが解放されてしまうのである。これはキングの小説においては、はじめふざけていじめをしていた子供があるときから急に本気でいじめるようになってしまうというエピソードで象徴されている。(それにしても、東側世界が崩壊してしまった今となっては、「ドミノ理論」などというものによってベトナムで死んでいったアメリカ人は犬死ということになるのだろうか? 大東亜共栄圏のために死んだ日本人同様なのであろうか? そしてもちろんそこで死んだベトナム人も中国人も。そして、今ベトナムというのはどういう国になっているのだろうか? )

 養老氏の説ではないが、ここでの主人公たちは年経るにしたがって変る。でも「魔法のひとかけらが残るかもしれない」というのだが・・・。
 「IT」では、<魔法は存在する>とされていた。「IT」は中年になった男女が、あることをきかっけに<子供時代>をとりもどす話であった。
 しかし「アトランティスのこころ」では、中年の男女はすっかり若いときとは変ってしまっている。若者時代は、過去の愚行として、ほとんど否定されてしまっている。
 それがこの小説が「IT」がもっていたような清々しさがなく、読後がずっと重苦しい理由であろう。ここでは認識はずっと苦くなってきている。


2006年7月29日 HPより移植