広井良典「定常型社会 新しい「豊かさ」の構想」 

  岩波新書 2000年6月20日初版


きわめて理念的な提言の本。したがって具体的な財政的裏づけや、それを実現する政治過程といったものはほとんど視野にはいっていない。

 富の成長にかかわるのが”経済”であり、富の分配にかかわるのが”政治”であるとすれば、戦後の日本にはほとんど政治はなかった。政治の大きな論点は外交だけであり、欧米において中心的な論点であった「社会保障」をめぐる議論、「大きな政府」と「小さな政府」をめぐる議論はほとんどおきなかった。すべての内政問題は経済成長が解決してくれた。

 「福祉国家」という概念は20世紀半ばに生まれた、まだごく新しいコンセプトである。その結果、20世紀後半において「国家」の役割と規模は圧倒的に大きくなった。それは共同体の崩壊とも深く関係し、共同体から離脱した脆弱な個人を救うシステムとしての福祉/社会保障という発想である。
 「福祉国家」は所得の再配分を国がおこなうが、その結果、高所得者から低所得者へ再配分されたパイは、消費を増大させる効果をもったため、「福祉国家」は経済成長とも両立するものと考えられてきた。
 戦後のヨーロッパは、「大きな政府」(社民党系)−反市場志向、と「小さな政府」(保守系)−市場志向との間で理念の対立があった。
 「ケインズ政策」はヨーロッパにおいては、そのまま社会保障福祉国家の問題とつながったが、日本においては「ケインズ政策」即「公共事業」であった。
 日本では、経済成長=パイの拡大がすべてを解決してきたのであり、その成長は、福祉政策による所得の再配分の結果であるとは考えられていない。
 「福祉」を経済の問題であるであるという発想はまったくなく、むしろ「福祉」は経済成長の足を引っ張るものとさえ意識されていた。
 現在になってはじめて、日本は「大きな政府」対「小さな政府」という論点があらわれうる状況になってきているといえよう。
 しかし、日本はパイの分配が問題にならないくらいの大きな成長から、いきなりゼロ成長あるいはマイナス成長に転落し、そこに世界でもっとも急速に高齢化が進んでいるという状況が重なってきているため、選択の余地がかなり狭くなっている。
 場合によっては、選択や論争がおきることなく、高度成長志向政権から低成長志向政権へ、そのまま同じ政党が変っていってしまうかもしれない。
 ヨーロッパにおいては、保守−社民系ともにある意味で成長志向であったため、成長自体が環境をそこなうという「緑の党」などからは、ともに批判されることになった。
 ヨーロッパにおいては、経済の低成長化と高齢化の進行で、社民派も単純な「大きな政府」は主張できなくなった。一方保守派も高齢化の進行に対して「小さな政府」の主張が貫きにくくなっており、両者が近づきつつある。
 そもそも、その根底に、経済が成熟し、需要あるいは消費が飽和してくると、ケインズ的な「総需要創出政策」が有効に働きにくくなっているという背景がある。

 日本の社会保障の「規模」は欧米に較べて低い。これはインフォーマルな社会保障がカバーしていたためであろう。
 その「内容」をみると、著しく「年金」にかたよっており、「失業関連」、「子供関連」の給付が極端に少ない。
 その「財源」は、税と保険が渾然となっており、きわめてわかりにくい。
 日本の社会保障の「規模」が小さくて済んできたのは、
 1)失業関連給付がきわめて少ない。
 2)児童手当など「子供関連給付」がきわめて少ない。
 3)社会福祉給付が十分に展開していない。
 4)生活保護、公的補助をうけている人が少ない。
 5)医療費が少なくて済んででいる。
 などによる。
 インフォーマルな社会保障としては、
 1)「会社」が終身雇用で社員、家族の生活を保障した。日本の社会保障はドイツの社会保険をモデルにしたものであるが、もともと「被雇用者」あるいは「サラリーマン」を中心につくられており、保険料は労使折半である。そもそも制度が「会社」を前提にしている。これは「失業」「子供」関連の給付を少なくすることに寄与した。しかし、現在急激に進行している雇用の流動化は、社会保険制度を根底から崩してしまう可能性が高い。
 2)核家族で、専業主婦が子育てをして当然という発想が、児童給付などを著しく低いものにとどめてきた。(欧米の1/30から1/40)
 
 一方、年金は高収入のものが高い費用を徴収されるが、その代わり高い年金を保証されるという制度であり、金持ちには厚い。一方女性の基礎年金は5万円以下であるなど、最低生活を保障するという年金の主旨からいうと問題も多い。
 年金重視型から医療・福祉重視型への転換を図るべきである。
 また高齢者・子供は税で対応し、現役世代については社会保険で対応を考えるべきである。
 このような制度を考えるならば、当然、増税が必要になる。
 その財源としては、消費税・相続税環境税が適当である。
 現在ヨーロッパ諸国の消費税は15−25%となっているが、はじめからこの数字だったわけではなく(1967年ごろから各国で導入された)、1970年以降の経済成長の低下と高齢化などによる社会保障給付の増大によって段階的に引き上げらてきた結果、今の数字になっている。
 高い福祉のためには高負担も必要なのである。

 以上、高負担、高福祉派による医療政策提言である。氏の定常型社会論はそれほど説得的なものとは思えないが、日本の現状認識についてはきわめて有意義なものがある。

 日本は、保守派と社会民主主義派が通じるところがあるのが一番の問題なのであろう。
 戦前から日本の保守派が一番敵対したのは社会主義を信奉する勢力ではなく、「個人主義者」であった。彼らが一番嫌ったのは、自分さえよければ日本などはどうなってもいいという考え方であった。それに較べれば、社会主義を信奉するものは国を憂いているのであり、ベクトルの方向が違うだけであって、心情的には相通じるものがあった。
 日本では保守派も社会主義派もともに、「大きな政府」派なのである。「お上」に頼るという発想は「大きな政府」に通じる。ある時期日本を主導した官僚も当然、「大きな政府」を志向する。日本で小さな政府を志向したのは中曽根政権くらいなのかもしれない。そして小泉政権がその後を継ごうとしているのだろうか?
 日本は「お上」に依存しながらも、「福祉」をきらうという姿勢があるのはないだろうか?
 日本で「児童手当」が充実し、失業保険が充実したときに、沢山の子供を作って「児童手当」で生活しているひと、いつまでも「失業手当」で生きているひとには、冷たい目が注がれるのではないだろうか?
 「年金」に厚いのも、それが長年の労働への報酬という色彩があるからではないだろうか?
 「勤労」を尊ぶという姿勢がまだ日本には色濃くあって、それが日本の福祉政策にも大きく反映しているのではないだろうか?主婦への年金がきわめて低いのも、それによるのではないだろうか? 働かざるもの食うべからずで、主婦の仕事は勤労とは思われていないのであろう。

 問題は高負担・高福祉という選択を日本人が受け入れるかであろう。広井氏は別の本で、それぞれの国民は医療にどの程度のお金を使っていいかということについてのある性向があるのではないかと述べているが、それは当然福祉全体に敷衍される話なのであろう。医療費と同様に、日本人は福祉にもそれほどお金を使いたくないという性向なのではないだろうか?


2006年7月29日 HPより移植